ガラテヤ3:1-6
「ああ、愚かなガラテヤの人たち」、「あなたがたは、どこまで愚かなのですか」とは、ずいぶんときつい言い方です。めったに吐く言葉ではありません。「キリストが私の内に生きておられる」(2:20)と、救いを生き生きと告白した直後に、あなたがたは愚かだ、と二度までも突きつけるなど、普通なら理解できないことです。
ただの失敗なら、このような酷な言葉をぶつけはしないでしょう。気づいていないのです。気づこうともしない、と非難もできましょうが、気づけないからこそ愚かだ、と言うのでしょう。見えていないのは、「十字架につけられたイエス・キリスト」です。「霊で始めたのに、今、肉で仕上げようとする」からです。何もかも「無駄になってしまう」のです。
パウロは、理性を保ってはいますが、一種の興奮と共に書いています。「自分の手であなたがたに書いています」(6:11)というのは、口述筆記ではない、という意味なのでしょう。手で書いていながら同じ表現を繰り返すのは、よほどそれを伝えたい気持ちがあるのと、他に言葉が見つからないからだと思われます。
霊を受けたではないか。あれは無駄だったのか。もちろん、先ほどの「愚か」もそうですが、顕著なのは「律法を行ったからですか。それとも、信仰に聞き従ったからですか」と二度、少々の間を置いて畳みかけていることです。選択を問うている形ですが、反語的です。パウロからすれば、その解答は一つだけであるはずです。
どうしてこんなことになったのか。パウロは、その責任をガラテヤの人々の責任にはしていません。「誰があなたがたを惑わしたのか」と言いますから。「ほかの福音」(1:6)をもたらした輩です。「キリストの福音をゆがめようとしている」(1:7)者たちです。ペトロもその部類と見ます。信仰による霊は、人を愚かにさせることはないことでしょう。
ああ、愚かなガラテヤの人たち、
十字架につけられたイエス・キリストが、
あなたがたの目の前にはっきりと示されたのに、
誰があなたがたを惑わしたのか。(ガラテヤ3:1)
「ああ、愚かなガラテヤの人たち」、「あなたがたは、どこまで愚かなのですか」とは、ずいぶんときつい言い方です。めったに吐く言葉ではありません。「キリストが私の内に生きておられる」(2:20)と、救いを生き生きと告白した直後に、あなたがたは愚かだ、と二度までも突きつけるなど、普通なら理解できないことです。
ただの失敗なら、このような酷な言葉をぶつけはしないでしょう。気づいていないのです。気づこうともしない、と非難もできましょうが、気づけないからこそ愚かだ、と言うのでしょう。見えていないのは、「十字架につけられたイエス・キリスト」です。「霊で始めたのに、今、肉で仕上げようとする」からです。何もかも「無駄になってしまう」のです。
パウロは、理性を保ってはいますが、一種の興奮と共に書いています。「自分の手であなたがたに書いています」(6:11)というのは、口述筆記ではない、という意味なのでしょう。手で書いていながら同じ表現を繰り返すのは、よほどそれを伝えたい気持ちがあるのと、他に言葉が見つからないからだと思われます。
霊を受けたではないか。あれは無駄だったのか。もちろん、先ほどの「愚か」もそうですが、顕著なのは「律法を行ったからですか。それとも、信仰に聞き従ったからですか」と二度、少々の間を置いて畳みかけていることです。選択を問うている形ですが、反語的です。パウロからすれば、その解答は一つだけであるはずです。
どうしてこんなことになったのか。パウロは、その責任をガラテヤの人々の責任にはしていません。「誰があなたがたを惑わしたのか」と言いますから。「ほかの福音」(1:6)をもたらした輩です。「キリストの福音をゆがめようとしている」(1:7)者たちです。ペトロもその部類と見ます。信仰による霊は、人を愚かにさせることはないことでしょう。
ああ、愚かなガラテヤの人たち、
十字架につけられたイエス・キリストが、
あなたがたの目の前にはっきりと示されたのに、
誰があなたがたを惑わしたのか。(ガラテヤ3:1)