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エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

祝福と幸いの歌

2025-06-14 | メッセージ
詩編128:1-6 
 
「都に上る歌」がこの辺りに並びます。年に一度、もしかすると一生に一度かもしれない、エルサレムへの巡礼のときに、その喜びを、声を合わせて歌ったものでしょう。主への賛美と共に、この主を愛し、主を称える人々の幸いをも、楽しく歌い上げています。だから、「主を畏れ、その道を歩む人は皆」、幸いな者だと言っています。
 
それは、歌う人自身のことでもあるにちがいありません。自分はこんなにも幸いな者であるのです。言い聞かせるように、あるいは他人のその声を自分への祝福のメッセージであるかのように、互いに歌うのです。自ら苦労して得た実を、必ず自分が食べることになるというのは、当然のことなのでしょうか。搾取が当たり前の時代のことでした。
 
しかしそればかりか、今なおそうだとは言えないでしょうか。それとも、自分の手で労しない濡れ手に粟の精神のはびこる現代への批判なのでしょうか。「あなたは幸いだ」との互いの声が、互いを慰めます。それは神からの声として耳にすることでしょう。妻と子どもたちを豊かな木々にたとえているのは、この詩が男のものだからです。
 
男、しかも妻子をもつ一家の長としての対象しか考えていないことの証拠です。聖書文化、あるいはその時代は、それが常識でした。「見よ、主を畏れる人はこのように祝福される」とは、モルデカイを称えなくてはならなくなった、ハマンのやけっぱちの声にも聞こえてきますが、証人として私たちも一役買いましょう。
 
「主を畏れる」者でありたい。但し、これは祈りでもあって、「シオンから主があなたを祝福してくださるように」と主に願う形で詩人の言葉は発されます。旧約での言い回しですが、「命あるかぎり」、「エルサレムの繁栄」と「子や孫」を見ることができるように、というこの祈りは、ただうれしたのしの歌声ではないとしか感じられません。
 
「命あるかぎり」というのは、ただ生きている限りで、というように聞こえなくもありません。でも、それは尽きるものではないと思います。地に住むことの長さは、私たちの感覚の「永遠」と同じなのではないでしょうか。人の祝福、人の喜びを表に立てつつ、結びは「イスラエルの上に平和があるように」となっているのも、とてもいいと思います。




シオンから主があなたを祝福してくださるように。
あなたが、命あるかぎりエルサレムの繁栄を見
子や孫を見ることができるように。
イスラエルの上に平和があるように。(詩編128:5-6)

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