エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

落ち着いた生活

2016-10-15 | メッセージ
エレミヤ29:1-9

ユダの地は、バビロニア帝国により支配されました。いわゆるバビロン捕囚。もちろん人々をすべて連れ去ったのではありません。ユダには、おとなしく従うだけの農業者などが置かれ、土地を守るために住まわせられています。もはや逆らうような知恵者も産業もまともに残されてはいないのです。

まだエレミヤはエルサレムにいました。捕らえられていった指導者や人々に向けて手紙を送ります。エルサレムには、有力者がいなくなりました。エレミヤはの手紙は、公的な場で読まれるように託されたものとなりました。その主眼は、気落ちしないように、落ち着いた生活を送るように、というものでした。

異国に置かれてしまったものは仕方がない。そこで、安定した生活を送るべし。果樹を植えよというのは、そこで長い生活を送ることを前提としたことになります。結婚をし、子を育てよとなると、さらに長いスパンで人生を捉えていることになるでしょう。そのように世代に渡りイスラエル民族としてのアイデンティティを保ちながら、生めよ増えよ地に満ちよと呼びかける主からの祝福を伝えるような恰好をとるのです。

捕囚の民からすれば、その地は異国である。恥辱を思うことだろう。生き恥をかくような思いであるかもしれない。何が名誉か、何が誇りか。こんな無様な身分となって、ただ生き延びるということでさえ、辱めであるにほかならないと感じる者もいることだろう。しかし、その置かれた町のために祈れ、とエレミヤは勧めます。その町が平和であれば、平和に暮らせるではないか。待ちの平和のために、主に祈るのです、と告げます。

そうです。主に祈るのです。異国で偶像に囲まれていたとしても、私たちは主に祈ることができます。主はどこにでもいらっしゃるし、どこででも私たちの祈りを聞いてくださいます。どんなに圧迫された状況に置かれたとしても、そこからの抜け道として、主への祈りの道が開かれているのです。

ユダヤには、反バビロニアの勢力がありました。なんとか隙を縫って、あるいはエジプトなど他の大国と手を結んで、バビロニアに真っ向から戦いを挑み勝利すべきだという思想のグループです。それを愛国者として称え、そうしないエレミヤのような存在は非国民であり弱者だと蹴散らすような考え方をするのでした。これはいつの時代にも、どこの国でも現れる、ナショナリズムの一つの姿です。エレミヤはこれを制するべきだとアドバイスするのです。

エレミヤは半世紀余り後にはなるが、確実にイスラエルは復興すると預言します。そのため、自らイスラエルの地に土地を購入し、その時に備えて見せます。そのように預言者エレミヤが行動しても、なかなか人々はそれを信頼しようとはしません。他の勢力、一見愛国的な預言者たちの言うことに惑わされるなと警告を与えます。それは占い師であり、主からのものではないのだというのです。

主の名をたとえ用いていたとしても、偽りである。主が遣わしたのではないのだ。そのように主が言っているのだ、とエレミヤは告げます。このエレミヤの言うこともまた、相手からすれば同様に、主からのものではないと悪口を叩かれることでしょう。こうした言い合いを傍から見る者たちからすれば、どちらを信用してよいかが分かりません。何を以て、意見の違う「預言」を判断すればよいのでしょう。

聖書を読むことに尽きます。しかしそれでも、人間の理解というのは愚かなものです。読んでいくうちに、だんだんと、自分の読み方に酔いしれていきます。自分の理解できたことのみが審理であり、それに気づかぬ他人を見下しにかかります。エレミヤの時代を超えて、今はイエスの福音が世界を覆っています。その眼差しから私たちは、ここでは安心してエレミヤの言葉を受けましょう。

落ち着いた暮らしをしましょう。それはパウロも言っていました。焦ったり、騒いだりする必要はありません。主が共におられるのです。主が約束されたことは必ず成就するという信頼をもっていれば、私たちができることは、ただ淡々と、与えられた日々を生き、神を喜んでいることではありますまいか。キリストにある自由を、そのように用いて、必要な時に与えられる必要な知恵を求めて、目を覚ましていようではありませんか。
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