エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

人の子が来るのを見る

2016-10-17 | メッセージ
マルコ13:24-27


マルコ13章は「小黙示録」とも称され、終末についてのイエスのことばとやりとりとが掲載されています。この時にまとめて言ったのかどうかは定かではありませんが、史上初の福音書記者マルコは、エルサレム入城後、間もなく十字架が迫る中で、この記事を置きました。

偽キリスト出現の警告ののち、いよいよ「その日」がどうであるかを語ります。太陽や月、星が異状を来します。それらはまず、光を失います。神は光ですから、これは一度神が見えなくなる、ということの象徴であるようにも読めます。あるいは、この世界でそれまで光だと人々が思い込んでいたものが、実は永遠の光ではなかったのだ、ということに人々が気づく、というふうに読むこともできるでしょう。私は後者を受け止めてみました。

人間が、当然これは真理だと思い込んでいたり、これさえあればと頼りにしていたりしたもの、あって当たり前だと安心していたものが、実はただの被造物で、有限なものに過ぎないということが、はっきりとしたということです。偉大な天と思われたものが、もう定まった運行をすることもなく、人の計算するものが崩れ去ってしまうわけです。

「そのとき」、人の子が、力と栄光を帯びて雲に乗って来ます。「人の子」は難しい言葉ですが、黙示預言で終末に現れるメシヤを、聞いたユダヤ人は想定したと思われます。だからこそ、ユダヤの裁判においてイエスがこの言葉を使ったとき、大祭司が狂ったように叫び、律法学者たちもこぞって死刑だと決めにかかったのでしょう。そもそもは、人間に過ぎないような者だという言葉であると思われますし、イエスが人となられたことを含んでいるようにも見えますが、当時わざわざこの言葉を使うというのは、メシヤと関連することなしには考えられなかったのです。

人の子は、天使たちを使わし、世の果てから、選ばれた民を集めにかかるとイエスは言いましたが、これがメシヤの業だという、紛れもない宣言と受け取られました。非常に抽象的な表現ですが、ユダヤの世界では、これが冒涜に聞こえました。確かに、もしもいまこんなことを言う者がいたら、誰がついていくでしょうか。ほんとうにこのイエスの時代は特殊すぎること、この上ないものです。この先、イエスは、もう「その日」のことは話しません。だから目を覚ましていよ、ともちかけます。

この人の子が来ると話すとき、イエスは、それを「人々は見る」と告げています。これは重要な点です。ただ来るとは言っておらず、これを人々が見る、と言っています。目撃するのです。勝手に神が来るのではなく、人々が目撃証人となるのです。

いま、キリスト者は、すでに目撃証人となっています。信仰の目で、イエスの復活を見ました。十字架と復活を見届けました。このことの証人として、聖霊を受けたキリスト者は福音を告げに立ち上がります。かつてイエスが語り、いまだ実現していない神の出来事を、いまここにいるキリスト者が、すでに目撃している事実を、大切に心に抱き続けましょう。
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