エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

憎しみと命

2019-06-26 | メッセージ
ヨハネ一3:13-16 
 
互いに愛し合うようにと教団内部の者へ命ずる文書だと考えられます。だからまた、悪魔への言及も多く、強く警戒している様子が窺えます。敵を定めることで味方の結束を堅くするかのようですが、その敵はしばしば「世」と称されます。信徒以外の世界を指すという理解でよいのですが、もしかするとそれはキリスト教会の別の派であるかもしれません。
 
同じキリストの弟子と称しながら、ヨハネ教会とは意見を異とする仲間たちから攻撃を受けていたとしたら、どうでしょう。ここでも教団が憎まれていることが記録されています。誰に憎まれるのでしょう。世からです。考える一つの鍵がここにあります。果たして一般市民から憎まれるのか。あるいはユダヤ教のグループからか。それとも……。
 
教会の内で愛し合っているならば、死がもはや支配することはありません。命がそこにあると言います。死と命が、なんらかの象徴的な意味合いで出されていることは分かります。ヨハネ文書はとくに、永遠の命を強調します。しかし、それはパウロのように、十字架から復活へと切り拓かれた、あの復活の命であるようには見えません。
 
この命に反する者は人殺しです。あまりに突然、単発的に人殺しとくるのでびっくりします。もちろんこれは、ヨハネたちを憎む者です。「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」とありますから、仲間を憎んでいることになります。ここからも、同じキリストの弟子と称するグループから、ヨハネたちが憎まれているのではないかと私は想像しているのです。
 
そのような者には永遠の命はありません。いくら復活だなどと喜んでいたとしても、という意味で、復活を強調しないのかもしれません。ところでここで、邦訳の上で苦情があります。「死から命へと移った」「永遠の命」という言葉に続いて、イエスがわたしたちのために「命を捨て」たと言い、わたしたちも仲間のために「命を捨て」るべきだと書いています。 
これでは混乱します。それは訳語の故なので申し上げるのです。前の二つの「命」は「ゾーエー」ですが、後者は「プシュケー」なのです。それを同じ「命」と訳す必要があったのでしょうか。実はいくつかの邦訳ではちゃんと見分けがつくように言葉を変えています。しかし同じにしている訳もかなり多いのです。
 
ゾーエーは古代ギリシアにおいては、むしろビオスと比較されました。但し、これは簡単な区別ではありません。個体の生命と社会的な生活という理解が本来の考え方に近いようですが、これも研究者により様々です。聖書の時代になり、また聖書においての用法としては、とくにこのヨハネ文書でのゾーエーは特殊な理解が求められます。
 
さらに、聖書においては、プシュケーが問題です。こちらが生物的な命に近いようですが、古代ギリシアではプラトンにあるように、不死なる魂を指すことがありました。魂としてしまうと、霊肉の二元論が待ちかまえています。聖書はそのような二元論とは異なる文化ですから、時代的な情況を含め、訳語というのは確かに難しいものです。
 
いずれにしても、ゾーエーとプシュケーを区別無しに同じ訳語にして至近に並べると、何のことだろうと私たちは戸惑います。これは聖書協会共同訳でも同様のままです。この肉体的な生命には限りがあっても、一人ひとりに神が別の命を与えてくださる、永遠の命がイエス・キリストと共にある、私たちはその希望の中にいます。それですでに永遠なのです。


兄弟を憎む者は皆、人殺しです。
あなたがたの知っているとおり、
すべて人殺しには永遠の命がとど
まっていません。(ヨハネ一3:15)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« イエスが私たちを愛したように | トップ | 心も思いも一つに »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

メッセージ」カテゴリの最新記事