列王記上8:22-26
ソロモンの祈りが始まります。ここからもイスラエルの会衆の方を向いています。それまでは、自らが建築に与った背景の説明をしていました。それが会衆の方を向いてだったことは分かりやすいのですが、ここからは神への祈りです。神へ祈るときにも、向きは会衆の方なのです。主の祭壇の前にいますから、立つ位置が変わったのでしょうか。
神殿の構造や祭儀の方法も私はよく知らないので、詳しい事情は分かりません。ただ、ソロモンの視点は、明らかに変わったことでしょう。「天に向かって両手を広げ」ていたからです。これがイスラエルの祈りのスタイルです。手を組んで俯くのとはえらい違いです。両手を広げ、天に体が開いています。たぶん立った状態で、天を仰ぐのです。
荒れ野の自然の中で、モーセもまたきっとそう祈ったことでしょう。緑に乏しい土色に囲まれた風景の中では、神はどこにいるのか。心の内側などというよりも、上空に広がる青空にそれを覚えたことでしょう。神は私の外にいて、私を大きく包んでいる。天地の被造物を超えたところにいて、私をも世界をもすっかり包んでいるに違いありません。
実際にどちらを向くのか、といった議論はもう必要ないでしょう。ただ、上を向く。広大なところへ心を向けるのです。「イスラエルの神、主よ」と呼びかけます。あるいは唯一無比のお方です。人の言葉は、もはや何を言っても役立ちません。ただ「御前を歩む僕たちに契約と慈しみを守られる方」です。なんと恵まれていることでしょうか。
父ダビデへ告げた約束はこうして果たされました。人の側もこうして応え、神殿を完成させました。人としての分を果たした報告をしました。だからイスラエルの王座に着く者は絶えることなく続くという神の約束を守ってください。主の道を守り、主の前を歩みますから。そう誓ったのですが、そのソロモンからそれができず、国は傾いていきました。
ソロモンは主の祭壇の前に立ち、
イスラエルの全会衆に向かい、
天に向かって両手を広げ、祈った。(列王記上8:22-23)