詩編112:1-6
「幸いな者」とまず宣するところは、詩編第1編を思い起こさせます。詩編は「幸いな者」のための歌なのです。但しここでは、その前に「ハレルヤ」が先行しています。神を称えるその中にこそ幸いがあることを、証ししているようです。誰が幸いなのか。「主を畏れ/その戒めを大いに喜ぶ人」に違いありません。
戒めを守れ、とはよく言われますが、どうしてもそれは義務や命令のように感じられてしまいます。でもここにあるのは、戒めを喜ぶことです。しかも、大いに喜ぶことだといいます。厳しい掟のようなものとして、宗教の戒律は見られがちですが、実は大いに喜ぶべきものなのです。あれをしろこれにしろ、という命令ではないのです。
それは私の性質に逆らって、身を削るように襲ってくるのではないからです。さて、ここでその人への祝福が並んでいるのですが、そこには詩人の心の向くところがよく現れています。子孫が「勇士」となることが、先ず挙げられています。短い詩ですが、この詩が「アルファベットによる詩」であるといいますから、さらに言葉は制約されます。
その中で、「勇士」とはイスラエルの情況を伝えているようにも思われます。それがいなければ国が護れなかったのです。「富と宝」は私たちにも理解できます。「正義」を貫くには、勇士であることが必要だったのかもしれません。闇の中の光、恵み、憐れみ、そして正しさ。これらも納得しやすいものです。
「公正」は、確かに人の鑑であるのでしょう。「貸し与える」のが良いことだとしていますが、私はもうひとつ実感できないので、どういうことか教えて戴きたいと思います。施しや福利厚生の精神が豊かであったということに由来しているのでしょうか。「決して揺るがされることなく」ありたいとも願いますが、自己満足には終わらないと信じます。
「正しき人としてとこしえに記憶される」というところまで聞くと、ここには「幸い」という要があるにしても、「正義」というものがその中核にあるように思えてなりません。王たる者はかくあるべし、と言っているようにも見えますが、庶民もまた、一人ひとりが正義を思い、「正しき人」でありたい、と求める必要があるはずです。
ハレルヤ。
幸いな者、主を畏れ
その戒めを大いに喜ぶ人。(詩編112:1)
「幸いな者」とまず宣するところは、詩編第1編を思い起こさせます。詩編は「幸いな者」のための歌なのです。但しここでは、その前に「ハレルヤ」が先行しています。神を称えるその中にこそ幸いがあることを、証ししているようです。誰が幸いなのか。「主を畏れ/その戒めを大いに喜ぶ人」に違いありません。
戒めを守れ、とはよく言われますが、どうしてもそれは義務や命令のように感じられてしまいます。でもここにあるのは、戒めを喜ぶことです。しかも、大いに喜ぶことだといいます。厳しい掟のようなものとして、宗教の戒律は見られがちですが、実は大いに喜ぶべきものなのです。あれをしろこれにしろ、という命令ではないのです。
それは私の性質に逆らって、身を削るように襲ってくるのではないからです。さて、ここでその人への祝福が並んでいるのですが、そこには詩人の心の向くところがよく現れています。子孫が「勇士」となることが、先ず挙げられています。短い詩ですが、この詩が「アルファベットによる詩」であるといいますから、さらに言葉は制約されます。
その中で、「勇士」とはイスラエルの情況を伝えているようにも思われます。それがいなければ国が護れなかったのです。「富と宝」は私たちにも理解できます。「正義」を貫くには、勇士であることが必要だったのかもしれません。闇の中の光、恵み、憐れみ、そして正しさ。これらも納得しやすいものです。
「公正」は、確かに人の鑑であるのでしょう。「貸し与える」のが良いことだとしていますが、私はもうひとつ実感できないので、どういうことか教えて戴きたいと思います。施しや福利厚生の精神が豊かであったということに由来しているのでしょうか。「決して揺るがされることなく」ありたいとも願いますが、自己満足には終わらないと信じます。
「正しき人としてとこしえに記憶される」というところまで聞くと、ここには「幸い」という要があるにしても、「正義」というものがその中核にあるように思えてなりません。王たる者はかくあるべし、と言っているようにも見えますが、庶民もまた、一人ひとりが正義を思い、「正しき人」でありたい、と求める必要があるはずです。
ハレルヤ。
幸いな者、主を畏れ
その戒めを大いに喜ぶ人。(詩編112:1)