エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

宝や真珠のために

2016-10-30 | メッセージ
マタイ13:44-46


神の国・神の支配の及ぶところというのは、どういうことなのでしょう。当時はローマ帝国の支配下にありました。ヘロデ一族が治めていたとはいえ、エドム人であり、ローマに取り入ってうまく政治をやる王の下では、イスラエルの伝統は活かされません。祭司関係も学者関係も、そして多分に庶民も、苦々しい思いでいたことでしょう。

地の民と呼ばれる下層の人々は、なおさら虐げの中にあったはずです。イエスのことばを聞こうと集まってくるのは、概してそういう人々でした。イエスは弱い立場の人々に救いのことばと癒しを与えてきたのでした。癒されれば、少なくともおまえの罪のせいだと扱われなくて済みます。

今目の前にある世が、神の支配に包まれているようには、誰も思えませんでした。また、このままでよいと考えもしませんでした。イエスは、ここで弟子たちに向けて話をしています。あなたたちが伝えるべき神の支配とはどういうことか、たとえを用いよう、というわけです。説明しても分からないから庶民にはたとえを使うのだと言いつつ、弟子たちにもしっかりとたとえで語ります。この奥義は、論理的に示すことができないものと思われます。

待ち受ける神の国をどのようなイメージで思い浮かべればよいのでしょう。ここでの第一が「畑に宝が隠されている」という姿でした。しかし私などは、宝を見つければそのまま持ち去ればよいのに、と考えたくなります。わざわざ畑を買い取るなどという元手を支払う必要がないではないか、と思われもするでしょう。しかし、宝とは何でしょう。宝石がいくつかあるという宝ではないわけです。それを掘り出すには大がかりな準備が必要なのです。いっそ、石油鉱脈があるとか、地下に埋蔵金があるとでも思えば如何でしょう。

種蒔きのたとえの解説では、畑は世を表している、とはっきり述べられていました。そこにも注目しましょう。救い・永遠のいのちは、ここにあるのです。虐げられているこの世に絶望する必要はありません。きっと宝が、いのちのことばが、そして神の国が、潜んでいるはずなのです。それに気づいたならば、それまで有していた財など何の意味があるのでしょう、すべてを捨ててそれを手に入れようと考えなさい・行動しなさい、というのです。

商人の探している真珠にもたとえられていました。今回は偶々見つけたというよりも、真珠はないかといろいろ探しているケースです。真摯に救いを求めている求道者をイメージさせます。商人ですから、結局その真珠を売って儲かるためではないか、とは勘ぐらないようにしておきましょう。このような商人の熱意にまさるものが、私たちにあるでしょうか。なんとしてでも神の支配する世界を求めようとしているでしょうか。そのために自分は相応しい備えをしているでしょうか。問われているのは自分自身です。

そこまで求める心がなくても気づかされてしまった畑の、おそらく農民のような情景と、なんとかして救いを探求している、おそらく学者のような情景とが並べられていることにより、様々なタイプの弟子たち、それはまた私たち現代におけるキリストの弟子たちにも、そして私たち、私自身に対しても呼びかけられているとして受けとめることができます。

いずれにしても、持ち物を売り払う点では同じです。これまで自分が価値があると貯めこんでいたものすべてを手放してまでも、神のことばを選択するかどうか、それについては、どんな立場でも違いはありません。いえ、この「持ち物」とは、「自分自身」のことであるように思えてなりません。自分が自分がと、一番大切なものとしてつねにまず自分がある人間の姿です。人間である以上の神の前には、最も大切なものについての偽りなき心が求められています。それがまた、神がその人を包み、また立ち上がられてくださっているという、確かな証拠でもあるのです。
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