コヘレト4:9-12
「ダビデの子、エルサレムの子、コヘレトの言葉」(1:1)に始まると、いきなり「空の空」(1:2)と宣言します。「太陽の下」での出来事をさかんに取り上げ、「空」であるとの指摘を続けるのです。「天の下」(1:3)とも言いますが、要するにこの世でのことです。いま、孤独な男にコヘレトは着目し、労苦ばかりの人生で富があっても独りだと言います。
この労苦は誰のためでしょうか。男は悩みます。ひとは、誰かほかの人のために生きるのでしょうか。誰かのための労苦なら、空しくはないのでしょうか。そこでいま、コヘレトは宣します。「一人より二人のほうが幸せだ」と。「共に労苦すれば、彼らには幸せな報いがある」というのです。労苦が前提です。自分のためだけの労苦が空しいのです。
単に労苦が不幸なのではありまん。世の中は金だ、との考えの人がいます。金は、様々な価値へと変換可能なメディアです。でも、それを何と替えようとするのか、その「何」があるのならよいのですが、「何でも」ということしかなくただ金を集めるのだとすれば、それは空しいかもしれません。いつか何かできる、と空想するだけで人生を終えるのです。
「共に」背負う労苦のあるパートナーがいるでしょうか。そのパートナーそのものを金で手に入れることは無理でしょう。コヘレトはその人を「友」と呼んでいます。「たとえ一人が倒れても/もう一人がその友を起こしてくれる」のであり、「一人は不幸だ。倒れても起こしてくれる友がいない」という逆の指摘もここにあります。
聖書の時代の表現では、男へのアドバイスばかりで、妻や女はその男を介しての存在でしかないように見えます。この「友」の語は男性形ですが、女であってはならないでしょうか。「また、二人で寝れば暖かいが/一人ではどうして暖まれよう」というとき、性別は不定なので、どうしても夫婦の形を頭に思い浮かべてしまうのですが、どうでしょうか。
「たとえ一人が襲われても/二人でこれに立ち向かう」というその敵は、様々に解し得ることでしょう。貧困でもいいし、病気でもよいと思います。「三つ編みの糸はたやすくは切れない」のだから、二人の間には主なる神が編み込まれているのだ、と結婚式でしばしば語られます。そこには労苦があるでしょうが、神もまた共にいるのです。
一人より二人のほうが幸せだ。
共に労苦すれば、彼らには幸せな報いがある。(コヘレト4:9)
「ダビデの子、エルサレムの子、コヘレトの言葉」(1:1)に始まると、いきなり「空の空」(1:2)と宣言します。「太陽の下」での出来事をさかんに取り上げ、「空」であるとの指摘を続けるのです。「天の下」(1:3)とも言いますが、要するにこの世でのことです。いま、孤独な男にコヘレトは着目し、労苦ばかりの人生で富があっても独りだと言います。
この労苦は誰のためでしょうか。男は悩みます。ひとは、誰かほかの人のために生きるのでしょうか。誰かのための労苦なら、空しくはないのでしょうか。そこでいま、コヘレトは宣します。「一人より二人のほうが幸せだ」と。「共に労苦すれば、彼らには幸せな報いがある」というのです。労苦が前提です。自分のためだけの労苦が空しいのです。
単に労苦が不幸なのではありまん。世の中は金だ、との考えの人がいます。金は、様々な価値へと変換可能なメディアです。でも、それを何と替えようとするのか、その「何」があるのならよいのですが、「何でも」ということしかなくただ金を集めるのだとすれば、それは空しいかもしれません。いつか何かできる、と空想するだけで人生を終えるのです。
「共に」背負う労苦のあるパートナーがいるでしょうか。そのパートナーそのものを金で手に入れることは無理でしょう。コヘレトはその人を「友」と呼んでいます。「たとえ一人が倒れても/もう一人がその友を起こしてくれる」のであり、「一人は不幸だ。倒れても起こしてくれる友がいない」という逆の指摘もここにあります。
聖書の時代の表現では、男へのアドバイスばかりで、妻や女はその男を介しての存在でしかないように見えます。この「友」の語は男性形ですが、女であってはならないでしょうか。「また、二人で寝れば暖かいが/一人ではどうして暖まれよう」というとき、性別は不定なので、どうしても夫婦の形を頭に思い浮かべてしまうのですが、どうでしょうか。
「たとえ一人が襲われても/二人でこれに立ち向かう」というその敵は、様々に解し得ることでしょう。貧困でもいいし、病気でもよいと思います。「三つ編みの糸はたやすくは切れない」のだから、二人の間には主なる神が編み込まれているのだ、と結婚式でしばしば語られます。そこには労苦があるでしょうが、神もまた共にいるのです。
一人より二人のほうが幸せだ。
共に労苦すれば、彼らには幸せな報いがある。(コヘレト4:9)