こうして「フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った」(使徒8:30)のでした。黙読が普通になっている私たちからするとやや不思議に見えるかもしませんが、本というと、声を出して読むのが普通であった時代のことをご想像ください。だからこそ、文字の読める人がわずかであっても、広く人がその内容を知ることができたのです。私たちが「読み上げる」という言い方をするように、読むのが聞こえた、という表現もごく自然のものだったと思われます。フィリポは当然、そのイザヤ書の言葉に、自分の果たすべき使命を覚えました。ここがキリストを証しすることなのである、と。塚本訳がここに「どうです」と挟み、読んでいることが分かるかと続けているのは、ギリシア語を的確に訳していると言えます。他の訳がこの呼びかけを省略しているのは残念です。おそらくお土産程度のイザヤ書だったかもしれませんが、真面目にそれをちゃんと読んでくれている。エチオピア人。私たちの周りにも、そのような人はいると言えます。聖書を信じようという意図があったかどうかは分かりません。しかしとにもかくにもそれを読んでみようという気のあった人です。その意味が分かりますか、という問いかけから、その内容の解説に入るというのは、実に適切な伝道であると言えるでしょう。私たちの社会にも、聖書に真面目に向かい合っている人、また聖書をとにかく手にとっている人は幾多もいます。その人に対して、聖書の意味を一緒に考えましょう、という近寄り方をすることが大切であることを教えられるような気がします。