これに対して「宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ」(使徒8:31)のでした。これまた真面目な姿勢です。手引きとはよい言葉です。導く意味ですが、まさに手を引いて行くという美しい言葉が示す通りです。行き先の分からない引き手は困りますが、イエスという道を知る者ならば安心です。そばに座るように促すというのは、相手への信頼の現れです。そう簡単に気を許せるものではないかと思いますが、フィリポには、一見してそのような魅力があったのでしょう。霊の導きとはそのようなものです。そして「彼が朗読していた聖書の個所はこれである」(使徒8:32)となにげなく掲げ、イザヤ書が引用されますが、ここに「個所」という語に特徴があり、これは「内容」のような意味です。まわりを囲った場所を表すような言葉の成り立ちなのだそうです。訳語にすると味気ないのですが、気持ちとしては恐らく、「いろいろ読んでなるほどと思うことも多いのですが、ちょうどこの部分が理解しづらいのです」といったふうではないでしょうか。私たちが何か教典のようなものを開いてみたとしましょう。心に響く教えというものはどんな宗教にもあるものです。しかし、宗教にも何か特殊な教えや奥義といったものもあります。その部分に入ると、深い理解や時に信仰心が必要になりますから、すとんと腑に落ちないのが当然です。このエチオピア人も、どうにもひっかかったところがあって、うーんと唸りながら、その個所を繰り返し声に出して読んでいたのではないでしょうか。これはあまりに想像に過ぎるかもしれませんが。