エフェソ6:1-4
「これは第一の戒め」だといいます。十戒によれば、「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない」というものでした。けれども、「子どもたち」にいま呼びかけているとき、そもそも主をのみ神とすることは、大前提となっています。言うまでもないことなのです。ここでは各世代、いろいろな立場の人に向けて呼びかけています。
その中で、子どもたちに対して特化した形で重要点を強調しようとすれば、それは十戒の中央部にある、「あなたの父と母を敬いなさい」を正面から扱おうとするわけです。エフェソ書の言い方は、「主にあって両親に従いなさい」となっています。その背景に、敬えということを、十戒の中でも君たちにとって第一の戒めとして受け止めよ、と諭すのです。
だから君たちには、十分「正しいこと」である、と付け加えもしています。ところがこの「子どもたち」とは、具体的にどういう人のことをイメージして言われているのでしょうか。幼子に言い聞かせているのかもしれません。古代では、十代にもなればもう一人前の大人として扱われた形跡があります。労働の担い手とされていたからです。
一方、成人してもその親の前では「子ども」の立場であるとも言えます。現代のような「子ども」観とは違う常識の中で、どのような目で誰がこの「子ども」を見ていたのか、そう見られていたのか、よく分かりません。この戒めには、ひとつの約束が伴っています。「そうすれば、あなたは幸せになり、地上で長く生きることができる」というのです。
十戒の表現を少し替えていますが、ギリシア語訳のせいなのかもしれません。そしてこの一部は、出エジプト記の十戒のほうにはなく、申命記に改めて掲載された十戒にのみある言葉となっています。「幸せになることができる」というのがそれです。だからエフェソ書の記者は、申命記を参照していたことは確実だろうと思われます。
ところで、ここに「父親たち」へのメッセージも同時に並んでいることは、もっと注目されるべきだと思います。「子どもを怒らせず、主のしつけと諭しによって育てなさい」というのは、父親の身になってみると、なかなかきつい指導であるものと感じられます。自分が怒り、自分の考えを押しつけようとしがちだからです。聖書は思いのほかフェアです。
そうすれば、あなたは幸せになり、
地上で長く生きることができる。(エフェソ6:3)
「これは第一の戒め」だといいます。十戒によれば、「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない」というものでした。けれども、「子どもたち」にいま呼びかけているとき、そもそも主をのみ神とすることは、大前提となっています。言うまでもないことなのです。ここでは各世代、いろいろな立場の人に向けて呼びかけています。
その中で、子どもたちに対して特化した形で重要点を強調しようとすれば、それは十戒の中央部にある、「あなたの父と母を敬いなさい」を正面から扱おうとするわけです。エフェソ書の言い方は、「主にあって両親に従いなさい」となっています。その背景に、敬えということを、十戒の中でも君たちにとって第一の戒めとして受け止めよ、と諭すのです。
だから君たちには、十分「正しいこと」である、と付け加えもしています。ところがこの「子どもたち」とは、具体的にどういう人のことをイメージして言われているのでしょうか。幼子に言い聞かせているのかもしれません。古代では、十代にもなればもう一人前の大人として扱われた形跡があります。労働の担い手とされていたからです。
一方、成人してもその親の前では「子ども」の立場であるとも言えます。現代のような「子ども」観とは違う常識の中で、どのような目で誰がこの「子ども」を見ていたのか、そう見られていたのか、よく分かりません。この戒めには、ひとつの約束が伴っています。「そうすれば、あなたは幸せになり、地上で長く生きることができる」というのです。
十戒の表現を少し替えていますが、ギリシア語訳のせいなのかもしれません。そしてこの一部は、出エジプト記の十戒のほうにはなく、申命記に改めて掲載された十戒にのみある言葉となっています。「幸せになることができる」というのがそれです。だからエフェソ書の記者は、申命記を参照していたことは確実だろうと思われます。
ところで、ここに「父親たち」へのメッセージも同時に並んでいることは、もっと注目されるべきだと思います。「子どもを怒らせず、主のしつけと諭しによって育てなさい」というのは、父親の身になってみると、なかなかきつい指導であるものと感じられます。自分が怒り、自分の考えを押しつけようとしがちだからです。聖書は思いのほかフェアです。
そうすれば、あなたは幸せになり、
地上で長く生きることができる。(エフェソ6:3)