エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

私の魂よ、と始まるが

2024-09-27 | メッセージ
詩編103;1-15 
 
自分自身に向かって、詩人は呼びかけます。「主をたたえよ」「聖なる名をたたえよ」と魂へ命ずるのです。己れを客観視するかのような言い方ですが、これはレトリックでしょう。要するに、自分の信仰告白の仕方なのです。このとき「そのすべての計らいを忘れるな」と述べると、以下具体的に神のその「計らい」が数え上げられるように挙げられます。
 
この「忘れるな」の響きは、恰もこれまで自分にしてくださった恵みを数え上げ、身に受けたことへの感謝を促すものであるかのように感じます。しかし、過去を懐かしむような言い方は、この後の具体例には盛り込まれていません。過ちを赦す方、病を癒やす方。墓から命を贖い、慈しみと憐れみの冠をかぶせる方。
 
一つひとつどう取り上げても、かつてこのようなことをして下さったではないか、というようなニュアンスは伝わってきません。現在のことなのか、あるいはこれからの約束のように見えるのか。但し、いま取り上げた連では、「あなた」と呼びかけています。詩人から「あなた」と称して呼びかけられているのは、さて誰なのでしょうか。
 
初めは「私の魂よ」ではなかったか。「私の魂」が「あなた」なのか。考えにくいのですが、そうなのだと説明されればそうかもしれない、と考えてもよいでしょう。でも、次には「虐げられているすべての者」に光が当てられ、「私たちを罪に応じてあしらうことなく」というように、「私たち」と、自分並びにイスラエルの民が含まれてゆきます。
 
「ダビデの詩」なのですから、ダビデ王の視点から、王としての自分の視点へ、つまりやがて民全体のための視点へと、いつの間にか展開してゆくのでしょうか。この後「私たちの背きの罪」「私たちが造られた様」「私たちが塵にすぎないこと」というように、視点は完全に「私たち」のものへと拡がってゆきます。これぞ王の視点です。
 
それは実に「主を畏れる者」「契約を守る者」というように、本来なかなか自分をそれとは言えないような、素晴らしい神のしもべへと高めた視野をもつようになります。それは終いには、天使や被造物すべてに呼びかける、壮大なスケールとなってゆきます。と拡大しつつ、最後の最後には「私の魂よ」で落ち着くところが、やはり詩人の真意でしょう。




ダビデの詩。
私の魂よ、主をたたえよ。
私の内なるすべてのものよ
その聖なる名をたたえよ。(詩編103:1)

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