エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

キリストにあり呼び招かれた者として

2017-01-09 | メッセージ
エフェソ4:17-24


キリストの招きに相応しく歩め。4章の冒頭に掲げられたこの言葉が、この章全体を代表するテーゼとなっています。クリスチャンは主における囚人であるという大胆な指摘もここにあります。いわゆる「しもべ」というのは奴隷を表す語ですが、この囚人はまさに獄にいる者にほかならず、さらに厳しい仕打ちの中にある人を指すようになっています。エフェソ書の時代、すなわち教会組織が次第に形成されてきた時代に及び、奴隷から囚人にまで、クリスチャンの立場を追い込んでいたのでした。教会組織の中に組み込んでいく様子を垣間見るような気もします。

神に招かれる。召される、とも言います。これを今回さらに拡大した概念として「呼びかけられた」という点でも包んでみましょう。キリストにあってからだ全体が建て上げられるといいますが、そもそもキリストのからだとして、聖徒の集まりを捉えるのが本来のパウロであったとすると、からだなるキリストをいまさら建て上げる必要などはないでしょう。どうもこの時代、キリストのからだに連なると自称しつも、放蕩なままで自己肯定ばかりするような輩が見出されたのかもしれません。となると、これは神から呼びかけられた経験をもたないのだ、と理解してよいかと思われます。

異邦人と同じように歩んではならない。そう言うからには、これはユダヤ人が相手でありましょう。ユダヤ文化を知った中で、メシアとしてイエスを認めた。ならば、こう学んだのではなかったか。古い人を脱ぎ、新しいキリストを着る生き方に転じたのである、と。それは、原語によると「理性の霊」に置いてリニュアルされることを意味します。人間の精神を貫くヌースとプネウマです。自由な霊ではあっても、秩序の中で働いている、というようなイメージで捉えてはどうでしょうか。

適切な整えによる神の息の中で、私たちはかつての自分に死に、すべてが新しくれた人生を歩み始めていたはずなのです。キリスト者は、生活の汎ゆる場面で真実を尊び、悪魔の付け入る隙を与えないうにできるはずです。そこには、互いにゆるし合うことが相応しい、そのように告げて、この4章は閉じられます。こうして、神に呼びかけられた者として、ゆるし合うことで神の支配の中にいるのだ、と確認されていることになります。

教会組織サイドからすれば、生活の場面の細かな点をたくさん指摘して、そこでキリストに倣って歩むように勧告し、その切なる叫びによって、キリストにある者たちをひとつにまとめようとしている、ということになるでしょうか。信徒たちよ、主に呼びかけられ、それに応えて生きるのだ、と励ましており、また教会がそのように呼びかけていることになります。もしかすると、品行方正なクリスチャンの原型が、ここに決定され、挙げられているのだ、というふうに捉えることも、できるかもしれません。
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