エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

新たな歩みが始まる

2017-01-01 | メッセージ
イザヤ55:1-1
3 

あなたたちは喜び祝いながら出で立ち、平和のうちに導かれて行く。イザヤの名でイスラエルの回復を告げる預言者は、はっきりとした幻を見ています。そこには無秩序な茂みでなく、すらりと美しい糸杉や、たくましく繁栄するミルトスの緑が並ぶ。人の思いを超えた神の意志が、荒れ果てた地を回復させる。神の祝福が必ずやあるという、力強い宣言です。

神が呼びかけます。渇く者は来い、ここに水があるから。金などいらないから来い。食べ物があるから。何ももう困ることはない、という宣言は、城壁の町では、ひとたび戦争が起こると、籠城状態ですから、食糧にまず困るのでした。敵がもうなく、平和が実現している様子が窺えます。そんな時が、果たしてほんとうに来るのでしょうか。

私たちも、これに応えることが必要です。求めて「来る」のでなければなりません。また、それ以前に、主のことばを「耳を傾けて聞く」ことが必要です。神のことばを聞いて、それから、主のもとに来るのです。代価は用意しなくてよいといいます。代価は、もう主が支払ったからです。贖いは、すでに主が果たした、というのです。

与えられるのは、命のパンです。キリストご自身が、命のパンであると宣言することを予想させます。これを食する者は、いのちを与えられるのです。それをことさらにいま、十字架の力として重ね過ぎなくてよいことにしましょう。神のことばを聞き、それに従うならば、良いものが与えられると神は告げています。それを楽しむのは魂であるそうですから、これが文字通りの食糧であるほかに、たとえられていることは明らかです。

人は、神の口から出る一つひとつのことばによって生きるのです。この約束のことばが、とこえの契約であると称されています。ダビデの約束と関係しつつも、ダビデのとは別の新しい契約のようです。

神はイスラエルと、いくつかの契約を交わしていますが、契約は更新されたとなれば、以前の契約は破棄されます。別の契約であるとすれば、それぞれが有効です。かつて、主の律法に従うならば祝福を、逆らうならば呪いを、と宣言されたモーセとの契約がありました。ここでもまた、聴き従うならば、という条件があるように見えますが、求められているのは、「来る」ことのようです。立ち帰るならば、赦しがあるというのです。

この契約は、これまで知る由もなかったような世界の国々に呼びかけられようとしています。ダビデはイスラエルの民族をひとつに集めましたが、いま主に呼びかけられた者の許へは、面識もなかった国から使いが集まってくるのだそうです。さあ、あなたが呼びかけよ、と使命を与えます。主が、呼びかける者に輝きを与えます。主を尋ね求める者には、豊かな恵みが与えられると共に、そのような使命が与えられています。

しかし、私たちのほうが、神はこのように考えている、神に従うことはこのようなことだ、と先走り考えるようなことがあってはなりません。神の思うことは、私たちが思うこととは違うのです。ここに注意が必要です。ともすれば、自分が神から何か受けたと思い、そしてそのこと自体が悪いことではないにも拘わらず、だから神はこうである、と安易に自分の解釈したことを他人に向けて押しつけていく性癖が、ひとにはあります。しかしそれは、神からのものでない場合が多いのです。ここが難しいところです。

私たちは、クリスマスを過ごしました。過ごしたというのが、文字通り、過ぎていった、とするのが私たちの悪い癖です。クリスマスの祭は過ぎたかもしれませんが、これにより私たちの心の飼葉おけに、キリストが安らぐようになったのではありませんか。もうそのキリストを追い出すのですか。過去という暗闇の中に、キリストを棄て去るのですか。神のことばが、地に落ちた雨であるとすれば、それを吸収して生育する穀物はないのですか。空しく消えていくようなことばなのですか。クリスマスの恵みのことばを聞いたならば、従うのが次の道です。ますます主を求め、主がすでにいてくださるこの魂を以て、立ち上がり歩む日々を、朝の目覚めと共に、いつでも始めて行こうではありませんか。喜びと、平和のうちに。
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