エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

教えることの恵み

2017-01-23 | メッセージ
テモテ一4:6-16


教えることを続けよ。そのアドバイスは、教えることに挫けそうな若者に向けたものかもしれません。すでに教会組織が制度として成立し始めたことを予感させますが、その中でテモテという名により、若い奉仕者を立て育てようとする意図が伝わってきます。
 
そう、教会にとり、牧師の交替というのは、ひとつの危機であると言われます。信仰はキリストに結びついているはずであるのに、間に牧師が入ってくることがえてしてあるのです。以前の牧師のほうがよかった。しばしば信徒は思うことでしょう。そして若い後継者は、どうも頼りがない。経験もないし、説教もうまくない。そんなふうに評価されがちでしょう。そうでなくて、単に気が合わない、ということすらも。
 
しかし、その老牧師はこのようにも言います。自分も若いころはそうだった。――それは本当でしょう。だから大目に見ることは必要なのだ、と。ただ、そこでは、福音がはっきりしているかどうか、は大切な点です。頼りないものであろうと、信仰をもっていること、そこから福音を語ろうとする心が感じられること、これを曖昧にしながら、大目に見る、ということはしてはならないのです。
 
教えることを続けよ。それは、めげそうな若者に対してというだけでなく、実は誰にとっても、恵みとなりえます。生徒どうしで教え合うような時間を多く作ろう、とする教育界の大きな変革がいまなされようとしています。期待され、もてはやされている観がありますが、私は欠点もあると思いますので、教師の側も文科省の踊り文句にただ従うのではなく、まさに教師こそ、自ら考え教え合うことを率先してやらないと、まずいことになるのでは、と感じています。
 
それはそうと、教えることは、教える側にとりメリットのあることです。自分は分かっているかどうか、試されます。ひとに教えている中で、自分が教えられる、というのは、教師が誰しも経験することです。むしろ、ひとに分かりやすく説明するというのは、自分がよく分かっていなければできないことでしょう。そして、説明しながら、自分で鮮明に分かっていく、ということを、世の教師はどれほど日々経験しているか、計り知れません。
 
自信がなくても、語りなさい。自分がイエスに結びついているという確信だけを手放さず、そこから戴いたことを教えなさい。そのうち、その教えたことの本当の意味が少しずつ、あるいは一度に、分かることもあります。目が開かれることがあるのです。そのためには、目を覚まして、神のことばを受け、また人々を知ることです。自分と神との関係を適切にし、教会と呼ばれる人々の集まりが同じ神との関係の中でつながっていくことを祈り求め、それが現実に動いていくように配慮し、行動していくのです。
 
この場合の「奉仕者」という語は、「執事」と訳されることもある語です。但し「奴隷」を表すほうの語ではなく、カトリックでは「助祭」を表す語です。食事の分配や世話などの問題で、使徒とは別に任命された執事のことが、使徒言行録に記されていました。女性もいたことが記録されています。「塵の間を通る」というような語からできているというこの言葉も、あまり語源がどうというのも行き過ぎなのですが、なるほどという気もします。今日では牧師もこの中に含まれると理解したほうがよいようにも思えます。
 
若いからという理由で軽んじられることのないように。パウロの手によるのかどうか、という議論があろうがなかろうが、こうした若い世代のリーダーへの励ましが聖書の中に残されていることは幸いだと思います。聖書は、パウロであれ誰であれ、神が人を用いて遺した文書であると受け止めるならば、本当の著者である神の意志が私たちに伝われることでよいのではないでしょうか。
 
聖書に教えられ、またそれを教えることでいっそう自分が教えられていく。そこには、老いも若きもありません。互いに説き明かしつつ恵みを分かち合う営み、それが教会という場でありましょう。従って、つねに受け身で拝聴するというばかりでなく、キリストに生かされた一人ひとりが、また福音という情報を発信する、すなわち教える者でありたいものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする