世界のヒトは生物学的にはただ1種(Homo Sapience)であり、哺乳綱霊長目ヒト科に属すとされる。ヒトの祖先は約700万年前にチンパンジーとの共通祖先と分岐し、サバンナに適応した体つきに進化したとされる。脳容積が大きくなり、言語の使用、火の使用等など、他の動物とは一線を画す要素を備えるに至った。Homo Sapience誕生以前はさまざまな人類種が興隆してきたが現在はHomo Sapienceを除き全て絶滅した。Homo Sapienceが誕生したのはおよそ20万年前である。そこに至る人類進化の過程は古人類学者などが解明に勤しんでいる。ヒト(Homo Sapience)と他の大型類人猿を隔てるものは大きい気がするが、この問題を快刀乱麻に解き明かす説としてエレイン・モーガン氏の「アクア説」が注目される(エレン・モーガン1998)。モーガン氏によれば人類は水辺で進化したとし、直立二足歩行、言語の使用、少毛の肌などは全てこれで説明がつくという。非常に興味深い説である。
現生人類(Homo Sapience。以下「人類」は現生人類のみを指す)は誕生以来長い間アフリカ内にとどまり、外へ出ることはなかった。はじめてアフリカ外に出た現生人類は10万年ほど前にイスラエルで見つかっているが、その後は厳しい環境のため子孫は途絶えたようである。
そして65000年前になり、人類が2度目にアフリカを出た。今度の集団は子孫を残すことになる。この集団は現在のアフリカ以外の全人類の直接の祖先である。少数であったと思われるが、人類は「出アフリカ」を果たしたのである。そのルートは遺伝子や考古学的観点からアラビア半島の南縁を海岸沿いに回り、イランに至るものであったと考えられる(図1-1)。

図1-1 出アフリカのルート
アフリカを出て今のイラン付近に至った人類集団はその後、世界全土に拡散していくこととなる。そのルートは不確定な部分も多いが、最初にイランから海岸沿いにインドを経て、東南アジア、オーストラリア方面に移動したようである。オーストラリアアボリジニの祖先などが含まれる。これを「南ルート」とよぶ。さらにイランから北方面に現在のパミール高原→アルタイ山脈と移動した「北ルート」、イランから中東、ヨーロッパ方面に向かった「西ルート」が考えられる。
東アジアへの人類到達ルートにはかねてより2種類の説があり、イランからパミール高原、アルタイ山脈を経て東アジアへ南下したとする「北回り説」、イランからインド・東南アジアを経て東アジアを北上したとする「南回り説」がある(図1-2)。両者の間で決着がついていないが、さまざまな理由から「北回り説」が妥当と考えられる(崎谷2009a,崎谷2009b,崎谷2011)。

図1-2
1つ目は考古学的証拠である。ウズベキスタン・アルタイ山脈周辺で4万5000年前頃の遺跡が認められる(Goeble et al. 2001, Derenko et al. 2007)。さらに人類最古の石器である石刃技法が4万5000年前までに西南アジア→中央アジアというルートで出現している(木村2001)。一方の東アジア南部では有効な考古学的根拠に乏しいように思われる。
2つ目に、後述するY染色体・ミトコンドリアDNAハプログループにおいて南アジアと東アジアの共通性がないことである。全てのハプログループは北ルート(東アジア)と南ルート(南アジア)にはっきり区分することができる。
3つ目にY染色体の多様性による東アジアにおける人類拡散年代研究(Yali Xue et al 2006)が北部で古いことである(図1-3)。これは人類到達年代が北部で早いことを意味する。東アジア北部で拡散年代が3.5万年前であるのに対し、東アジア南部は1.5万年前とごく最近であり、北から南への流れを示している。
さらに4つ目としてピロリ菌の系統(図1-4)についてもアジア・アメリカ型はサフル型と別れた後、中央アジア型と東アジア・アメリカ型に分岐し、東アジア型から台湾型・オセアニア型が派生しており、北から南への移動経路と一致している(Moodley et al. 2009)。
最後に「南ルート」「北ルート」「西ルート」という拡散経路はそのまま人種(race)の形成につながったと考えられる。これについては後で詳しく書くが、この観点から見ても、北ルート(北回り)をとった人類集団がモンゴロイド人種を形成したと考えれば納得がいく。近年では形質人類学の立場からも北回り説を支持する結果が出ている(埴原2012、松村2012)。
アフリカを出てイランから南、北、西に拡散した人類集団は50000年前にオーストラリア、40000年前に東アジア、40000年前にヨーロッパ、15000年前にアメリカ大陸へそれぞれに達したようである。

→次頁「2.Y染色体とミトコンドリアDNAハプログループ」へ
<文献>
・エレイン・モーガン(1998)『人は海辺で進化した』DBB
・木村英明(2001)「極寒シベリア:人類の移住と拡散」『日本人のはるかな旅Ⅰ:マンモスハンター、シベリアからの旅立ち』日本放送出版協会,148-168頁
・崎谷満(2009a)『新日本人の起源』勉誠出版
・崎谷満(2009b)『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史』勉誠出版
・崎谷満(2011)『ヒト癌ウイルスと日本人のDNA』勉誠出版
・埴原恒彦(2012)「現生人類集団の頭蓋形態の変異・多様性とその進化」季刊
考古学 (118), 48-53, 2012-02
・松村博文(2012)「歯の特徴による日本人の形成とアジア太平洋の人々」季刊
考古学 (118), 74-78
・Derenko et al.(2007) Phylogeographic analysis of mitochondrial DNA in northern Asian populations. Am.J.Hum.Genet.81:1025-1041.
・Goebel,Ted, Michael R.Waters, Margarita Dikova (2003) The archaeology of Ushki Lake, Kamchatka, and the Pleistocene peopling of the Americas. Science 301:501-505
・Moodley et al.(2009). The peopling of the Pacific from a bacterial perspective. Science 323:527-530
・Yali Xue et al. (2013). Male Demography in East Asia: A North–South Contrast in Human Population Expansion Times. Genetics.December 2013, 195 (4)505.
現生人類(Homo Sapience。以下「人類」は現生人類のみを指す)は誕生以来長い間アフリカ内にとどまり、外へ出ることはなかった。はじめてアフリカ外に出た現生人類は10万年ほど前にイスラエルで見つかっているが、その後は厳しい環境のため子孫は途絶えたようである。
そして65000年前になり、人類が2度目にアフリカを出た。今度の集団は子孫を残すことになる。この集団は現在のアフリカ以外の全人類の直接の祖先である。少数であったと思われるが、人類は「出アフリカ」を果たしたのである。そのルートは遺伝子や考古学的観点からアラビア半島の南縁を海岸沿いに回り、イランに至るものであったと考えられる(図1-1)。

図1-1 出アフリカのルート
アフリカを出て今のイラン付近に至った人類集団はその後、世界全土に拡散していくこととなる。そのルートは不確定な部分も多いが、最初にイランから海岸沿いにインドを経て、東南アジア、オーストラリア方面に移動したようである。オーストラリアアボリジニの祖先などが含まれる。これを「南ルート」とよぶ。さらにイランから北方面に現在のパミール高原→アルタイ山脈と移動した「北ルート」、イランから中東、ヨーロッパ方面に向かった「西ルート」が考えられる。
東アジアへの人類到達ルートにはかねてより2種類の説があり、イランからパミール高原、アルタイ山脈を経て東アジアへ南下したとする「北回り説」、イランからインド・東南アジアを経て東アジアを北上したとする「南回り説」がある(図1-2)。両者の間で決着がついていないが、さまざまな理由から「北回り説」が妥当と考えられる(崎谷2009a,崎谷2009b,崎谷2011)。

図1-2
1つ目は考古学的証拠である。ウズベキスタン・アルタイ山脈周辺で4万5000年前頃の遺跡が認められる(Goeble et al. 2001, Derenko et al. 2007)。さらに人類最古の石器である石刃技法が4万5000年前までに西南アジア→中央アジアというルートで出現している(木村2001)。一方の東アジア南部では有効な考古学的根拠に乏しいように思われる。
2つ目に、後述するY染色体・ミトコンドリアDNAハプログループにおいて南アジアと東アジアの共通性がないことである。全てのハプログループは北ルート(東アジア)と南ルート(南アジア)にはっきり区分することができる。
3つ目にY染色体の多様性による東アジアにおける人類拡散年代研究(Yali Xue et al 2006)が北部で古いことである(図1-3)。これは人類到達年代が北部で早いことを意味する。東アジア北部で拡散年代が3.5万年前であるのに対し、東アジア南部は1.5万年前とごく最近であり、北から南への流れを示している。
さらに4つ目としてピロリ菌の系統(図1-4)についてもアジア・アメリカ型はサフル型と別れた後、中央アジア型と東アジア・アメリカ型に分岐し、東アジア型から台湾型・オセアニア型が派生しており、北から南への移動経路と一致している(Moodley et al. 2009)。
最後に「南ルート」「北ルート」「西ルート」という拡散経路はそのまま人種(race)の形成につながったと考えられる。これについては後で詳しく書くが、この観点から見ても、北ルート(北回り)をとった人類集団がモンゴロイド人種を形成したと考えれば納得がいく。近年では形質人類学の立場からも北回り説を支持する結果が出ている(埴原2012、松村2012)。
アフリカを出てイランから南、北、西に拡散した人類集団は50000年前にオーストラリア、40000年前に東アジア、40000年前にヨーロッパ、15000年前にアメリカ大陸へそれぞれに達したようである。

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<文献>
・エレイン・モーガン(1998)『人は海辺で進化した』DBB
・木村英明(2001)「極寒シベリア:人類の移住と拡散」『日本人のはるかな旅Ⅰ:マンモスハンター、シベリアからの旅立ち』日本放送出版協会,148-168頁
・崎谷満(2009a)『新日本人の起源』勉誠出版
・崎谷満(2009b)『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史』勉誠出版
・崎谷満(2011)『ヒト癌ウイルスと日本人のDNA』勉誠出版
・埴原恒彦(2012)「現生人類集団の頭蓋形態の変異・多様性とその進化」季刊
考古学 (118), 48-53, 2012-02
・松村博文(2012)「歯の特徴による日本人の形成とアジア太平洋の人々」季刊
考古学 (118), 74-78
・Derenko et al.(2007) Phylogeographic analysis of mitochondrial DNA in northern Asian populations. Am.J.Hum.Genet.81:1025-1041.
・Goebel,Ted, Michael R.Waters, Margarita Dikova (2003) The archaeology of Ushki Lake, Kamchatka, and the Pleistocene peopling of the Americas. Science 301:501-505
・Moodley et al.(2009). The peopling of the Pacific from a bacterial perspective. Science 323:527-530
・Yali Xue et al. (2013). Male Demography in East Asia: A North–South Contrast in Human Population Expansion Times. Genetics.December 2013, 195 (4)505.