今回の参院選、いやこれ程に楽しい選挙は初めてです。
「楽しい」と言うのは不謹慎か…
しかし、漫然と投票して来た今までの選挙とは違う選挙を体験しています。
それは、どうしても国政に送りたい人がハッキリとしているからでしょうか。
謙虚さの欠片
世に指導者と呼ばれた人、呼ばれる人は数多います。
然し、その任に相応しい人は何人いるでしょうか?
殆どの人間が、それまでは素晴らしい考えを持ちながら一旦権力を手にし、それが長くなると変わってしまいます。
権力に溺れ、その特権的な立場を長く続けたいと考え始めます。
そうなると、人は権力を不正に使いだす。
そういう意味では舛添要一などは典型的な例でしょう。
いや、舛添要一は東大助教授時代から”金”ねにまつわる話は関係者の間では有名な話しだったようです。
知らぬは主権者ばかりなり。
母親の介護も嘘。
それにまつわる政治も、信用出来ない。
幾ら良い政策をしても、その腹の中のドス黒いものが全てを嘘に変えてしまいます。
それが顕著に表れたのが都知事就任後でした。
都知事になった途端に「自分は都知事だから」とスィートルームに泊まったり、ファーストクラスに乗ったり。
そういう事をしても良いのだ!
そんな思考になるのです。
その事を、会見で記者に問われて「首都の知事が安ホテルに泊まれるか!」とか言う始末。
舛添要一の記者会見を見て不快感を覚えた人は少なくないと思います。
この不快感の原因は私の考えでは【謙虚】さではないかと思います。
選挙を経て、選ばれた事を勘違いしているのであろうと考えます。
「俺は、みんなに選ばれた!」
「他人が俺を認めた」
この様に考えているのでしょう。
ある種の選民思想であると、思います。
自分は選ばれた人間だ!
そんな思いがあるのでしょう。
日本の思想とは、例えば労働に関しても決して「苦役」などではなく『私の労働が誰かの支えになっている、私も誰かの労働に支えられている』そう考える国民性です。
ですから、世界にも稀な労働の義務があるのです。
労働を義務化している民主主義国は非常に珍しいことです。
これは、日本と言う国は特定の人々が作るものではなく、国民全員で作る国なんだ!という理念に基づいているからです。
それは、天皇陛下を戴き天子のもと全ての民は平等であるという国柄であることが基本となっているのです。
ですから、例えば総理大臣とて選ばれた特別な人間ではなく、我々民の中から民の代理人として総理大臣の役割を与えられたに過ぎず、決して特別な人間ではないと。
劣化する民
全ての日本人は【謙虚さ】を旨としなければなりません。
何故ならば、それが日本の国柄だからです。
それを否定すれば日本ではなくなります。
日本人ではなくなります。
その謙虚さを表す御存在が皇統なのです。
天皇陛下とは【民の幸せを願い、広く民を見ている】という存在で民を支配する存在ではありません。
この御存在のもとに民は平等で、例え総理大臣と言えど、それは総理大臣と言う役割であって特別な「選民」ではないということです。
政治家は国民に選ばれ、役割を与えられたに過ぎません。
政治家は、だからこそ謙虚であらねばなりません。
幾ら頑張ろうと、優秀であろうと、力で支配しようとしても天皇陛下になれるわけでもありません。
また、民に選ばれただけです。
政治家はただ民に選ばれた代表者、代理人に過ぎない、言い方を換えれば我々主権者の召使いです。
先の舛添要一などは、その基本的な意味を忘れ、忘れた途端に謙虚さを忘れ私心や私事にはしる。
これは、政治家としても人間としても劣化した姿です。
例え舛添要一と言えど最初は高い志しがあったのかもしれないけれど、一旦権力を手にすると私心に走り劣化する。
現在の安倍政権も長期政権となり、安定的に政策を進める為に要らぬバーターをしています。
しかし、安倍晋三という人は謙虚に働いていると私は見ています。
しかし、野党議員はと言うと出てくる話しは政権批判と「アベ政治を止める」という事ばかり。
安倍晋三が暴走している!
だから止めるんだ!
民進党、社民党、共産党など口を揃えてそう主張します。
この発言が既に謙虚さを失っています。
現政権を選んだのは主権者です。
つまり選んだ主権者に対しての批判であるわけです。
そう言うならば現民進党、前民主党を主権者は選んでやったではありませんか?
選んでやったにも関わらず、まともな仕事が出来なかった。
だからダメだと現政権を国民が選んだのです。
つまり、自らの失敗を謙虚に受け止める事もなくむしろそれを主権者に押し付けているのです。
これは我欲と言うものです。
失敗を謙虚に受け止め、むしろそれを糧に再チャレンジし、支持を得ている安倍晋三への嫉妬。
我欲が政治への原動力だから、幾らカッコいい事を言っても国民見抜きます。
だから高い支持率の現政権が羨ましくて仕方ないのです。
舛添要一の問題だけを見るなら、国会は間接民主主義を取りながら、地方は首長を直接民主主義という事が問題であると私は考えます。
地方自治も憲法に則り行われます。
ご存知、日本国憲法はアメリカ製で、つまり地方自治すらアメリカの意向が反映されているということです。
私は、地方の首長は官選か或いは議会から選ぶ方が良いと考えます。
選挙を経て我々は政治に参加します。
選挙は政党を選ぶものではありません。
選挙は人を選ぶのです。
金も名誉も地位も要らん!命すら要らん!
そんな人間は既得権益や利権にとって最も厄介な存在です。
本来政治家はとは、既得権益から見て始末の悪い【我欲】のない人間でなければなりません。
あなたの一票があなとの作りたい国になる様に。
自らの信念に基づく一票にしてください。
「楽しい」と言うのは不謹慎か…
しかし、漫然と投票して来た今までの選挙とは違う選挙を体験しています。
それは、どうしても国政に送りたい人がハッキリとしているからでしょうか。
謙虚さの欠片
世に指導者と呼ばれた人、呼ばれる人は数多います。
然し、その任に相応しい人は何人いるでしょうか?
殆どの人間が、それまでは素晴らしい考えを持ちながら一旦権力を手にし、それが長くなると変わってしまいます。
権力に溺れ、その特権的な立場を長く続けたいと考え始めます。
そうなると、人は権力を不正に使いだす。
そういう意味では舛添要一などは典型的な例でしょう。
いや、舛添要一は東大助教授時代から”金”ねにまつわる話は関係者の間では有名な話しだったようです。
知らぬは主権者ばかりなり。
母親の介護も嘘。
それにまつわる政治も、信用出来ない。
幾ら良い政策をしても、その腹の中のドス黒いものが全てを嘘に変えてしまいます。
それが顕著に表れたのが都知事就任後でした。
都知事になった途端に「自分は都知事だから」とスィートルームに泊まったり、ファーストクラスに乗ったり。
そういう事をしても良いのだ!
そんな思考になるのです。
その事を、会見で記者に問われて「首都の知事が安ホテルに泊まれるか!」とか言う始末。
舛添要一の記者会見を見て不快感を覚えた人は少なくないと思います。
この不快感の原因は私の考えでは【謙虚】さではないかと思います。
選挙を経て、選ばれた事を勘違いしているのであろうと考えます。
「俺は、みんなに選ばれた!」
「他人が俺を認めた」
この様に考えているのでしょう。
ある種の選民思想であると、思います。
自分は選ばれた人間だ!
そんな思いがあるのでしょう。
日本の思想とは、例えば労働に関しても決して「苦役」などではなく『私の労働が誰かの支えになっている、私も誰かの労働に支えられている』そう考える国民性です。
ですから、世界にも稀な労働の義務があるのです。
労働を義務化している民主主義国は非常に珍しいことです。
これは、日本と言う国は特定の人々が作るものではなく、国民全員で作る国なんだ!という理念に基づいているからです。
それは、天皇陛下を戴き天子のもと全ての民は平等であるという国柄であることが基本となっているのです。
ですから、例えば総理大臣とて選ばれた特別な人間ではなく、我々民の中から民の代理人として総理大臣の役割を与えられたに過ぎず、決して特別な人間ではないと。
劣化する民
全ての日本人は【謙虚さ】を旨としなければなりません。
何故ならば、それが日本の国柄だからです。
それを否定すれば日本ではなくなります。
日本人ではなくなります。
その謙虚さを表す御存在が皇統なのです。
天皇陛下とは【民の幸せを願い、広く民を見ている】という存在で民を支配する存在ではありません。
この御存在のもとに民は平等で、例え総理大臣と言えど、それは総理大臣と言う役割であって特別な「選民」ではないということです。
政治家は国民に選ばれ、役割を与えられたに過ぎません。
政治家は、だからこそ謙虚であらねばなりません。
幾ら頑張ろうと、優秀であろうと、力で支配しようとしても天皇陛下になれるわけでもありません。
また、民に選ばれただけです。
政治家はただ民に選ばれた代表者、代理人に過ぎない、言い方を換えれば我々主権者の召使いです。
先の舛添要一などは、その基本的な意味を忘れ、忘れた途端に謙虚さを忘れ私心や私事にはしる。
これは、政治家としても人間としても劣化した姿です。
例え舛添要一と言えど最初は高い志しがあったのかもしれないけれど、一旦権力を手にすると私心に走り劣化する。
現在の安倍政権も長期政権となり、安定的に政策を進める為に要らぬバーターをしています。
しかし、安倍晋三という人は謙虚に働いていると私は見ています。
しかし、野党議員はと言うと出てくる話しは政権批判と「アベ政治を止める」という事ばかり。
安倍晋三が暴走している!
だから止めるんだ!
民進党、社民党、共産党など口を揃えてそう主張します。
この発言が既に謙虚さを失っています。
現政権を選んだのは主権者です。
つまり選んだ主権者に対しての批判であるわけです。
そう言うならば現民進党、前民主党を主権者は選んでやったではありませんか?
選んでやったにも関わらず、まともな仕事が出来なかった。
だからダメだと現政権を国民が選んだのです。
つまり、自らの失敗を謙虚に受け止める事もなくむしろそれを主権者に押し付けているのです。
これは我欲と言うものです。
失敗を謙虚に受け止め、むしろそれを糧に再チャレンジし、支持を得ている安倍晋三への嫉妬。
我欲が政治への原動力だから、幾らカッコいい事を言っても国民見抜きます。
だから高い支持率の現政権が羨ましくて仕方ないのです。
舛添要一の問題だけを見るなら、国会は間接民主主義を取りながら、地方は首長を直接民主主義という事が問題であると私は考えます。
地方自治も憲法に則り行われます。
ご存知、日本国憲法はアメリカ製で、つまり地方自治すらアメリカの意向が反映されているということです。
私は、地方の首長は官選か或いは議会から選ぶ方が良いと考えます。
選挙を経て我々は政治に参加します。
選挙は政党を選ぶものではありません。
選挙は人を選ぶのです。
金も名誉も地位も要らん!命すら要らん!
そんな人間は既得権益や利権にとって最も厄介な存在です。
本来政治家はとは、既得権益から見て始末の悪い【我欲】のない人間でなければなりません。
あなたの一票があなとの作りたい国になる様に。
自らの信念に基づく一票にしてください。