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映画『東京家族』について

今月、初めて歌舞伎を観に行くことになった。

2016年05月05日 | 映画『東京家族』


http://www.kabuki-bito.jp/theaters/kabukiza/play/480

 私の目当てはもちろん当代市川團蔵である。
 歌舞伎座へ行くのも、生の舞台を観るのもこれが初めてであるが、ユーチューブでは屋号の掛け声をしながら観ている(笑)。しかし劇場にはその仕来りがあるのだろうし、『膝栗毛』の北八のような失敗をしてもつまらないので今回は自重する。



 『現代語訳 東海道中膝栗毛(上下)』 伊馬春部(いまはるべ) 岩波現代文庫





【2016.5.19 ~ 2016.5.25 追記】

 『私のしばゐ見物記(平成二十八年五月十八日)』 

 午後三時に歌舞伎座へ着いた私はその周りの道を歩いてゐると、ちやうど大道具を搬入してゐる場面に出くはした。舞台脇の広いスペヱスに、ビルの二階分位はある巨大な書割が何枚も立て掛けてあつた。いちばん手前は明るい春の風景のやうな黄蘗色の絵で、それには「すしや」と名付けられてゐた。もし芝居をよく知る人がゐたならば、これはどんな狂言のどの場面に使ふものなのかを教へてくれたのだらうが、私は初めて歌舞伎を観るために上京してきたので皆目見当がつかない。ただ思つたのは「あゝ、この場所で映画『東京家族』の昌次は働いてゐるんだ」といふことだつた。





 開場までまだ間があつたので、併設されてゐる「歌舞伎座ギャラリヰ」へ行つた。この展示のうち興味深かつたのは音響の道具で、小豆で出す波の音は有名だが、船を漕ぐ櫓の軋む音や、貝殻ふたつを合わせて出す蛙の鳴き声など実際に鳴らしてみることができ楽しい。太鼓や銅鑼などの楽器を叩いてみることができるのも嬉しい。
 ここではもうひとつ、建て替へられて平成二十五年に完成した新しい歌舞伎座の内部の様子を染五郎丈が、衣装,小道具などの裏方の仕事や大部屋の役者達を紹介する映像の放映があつた。立廻りに使ふとんぼ(宙返り)の練習場には今でも砂が敷かれてをり、新しい建物にも確実に歌舞伎の思想が継承されてゐることがよくわかる。
 ※ 昭和38年のテレビ-ドキュメンタリヰ番組『影の名優』
 四時になり開場。見物客の華やぐ衣装、昔の役者のブロンズ頭像、お土産や鯛焼き,甘酒,食べ物売り場、一階から三階までの客席の様子など、入れる場所は全て入つて見てゐると四時半になり、いよいよ開幕である。


 幕が開き、次いで浅葱の幕も落とされると、そこは神田明神の境内である。尾上菊五郎、中村吉右衛門をはじめ所狭(せ)きなし役者衆が集ふ晴れやかな舞台は、絢爛な一幅の錦絵だ。そして、この神田明神の祭礼に捧げられるめでたい踊りが次々と披露される。
 私が事前に「イヤホンガイド」を借りておいてよかつたと思つたのはこの踊りの場面で、着物の色から紋の形や帯の結び方、それに踊りに込める所作の意味までを簡潔に説き分けてくれる。
 場面は進み、この祭礼にひとりの男の子が初お目見得をするといふ。花道から父である尾上菊之助に抱かれた寺嶋和史(二歳)が登場し、ここで芝居と現実が交錯し、披露目の口上となる。この子はこれから花形役者となるべく修行を始めるのだ。この特権的世襲システムは現代の社会には合はないと考へる方もゐるかもしれないが、私はさうは思はない。日本国憲法の時代はまだ六十九年間であり、大日本帝国憲法の五十八年間に比べてもう十年以上も長く続いてゐるけれど、徳川時代の二百六十五年間には到底及ばない。よく観察すれば私達の意識下をくつきりと規定してゐる徳川時代は、表面に見へる違ひはあれど、当憲法の時代と親和性が高いと私は直感してゐる。これは今後二百年間の課題であらう。
 理屈はさておき、めでたい口上は役者衆と見物客で手締めとなり、幼く可愛らしい和史くんが手を振ると、客席の女性たちも手を振り返す。まことにめでたく観てゐて幸せな気分になるこの舞台、『勢獅子音羽花籠(きほひじしおとはのはなかご)』はめでたく幕となる。


 同じ名を持つ三人の数奇な因果を描く『三人吉三巴白浪(さんにんきちさともゑのしらなみ)』の後が、眼目の『時今也桔梗旗揚(ときはいまききやうのはたあげ)』である。この芝居は、明智光秀(劇中は武智光秀)が織田信長(同じく小田春永)への謀反に至る過程の史実を借りた物語だ。家臣たちがずらりと微塵も動かずに緊張して正座してゐる本能寺に、春永が入つてきて、一段高い二畳台に座る。この春永が当代九世市川團蔵である。

※ 題字の左、青い着物が小田春永。






※ 参考文献 『名作歌舞伎全集 第九巻』 (東京創元新社) 昭和四十四年四月二十五日 発行


 春永が座る台はこれらの図よりも二倍以上高いやうに私には見へた。この場所から目通りを許した光秀(尾上松緑)に対し、馬の盥で酒を飲ませるのをはじめ、数々の屈辱的な仕打ちを春永は満座の注視の中で与へる。このぎりぎりと限界以上に弓矢の弓を引き絞つてゆくやうな状況を、ひたすらに光秀は耐へ抜く。この時の春永の心理は、かつての隷下が政敵になる恐怖か、自分にない気質を持つ光秀への憎しみからか、苛烈である。
 後半は光秀が宿してゐる愛宕山の場へ移る。そこに春永の使者達から、光秀がどうしても飲めない命令を伝へられ、彼は切腹を決意し「時は今、天(あめ)が下(した)知る皐月かな」と辞世の句を詠む。この後が圧巻なのだけれど、これから観る方の興を殺いでしまふのも悪いので止めておくが、尾上松緑の熱演である。

 この「愛宕山連歌の場」でひとつ、登場人物が花道から出てくる時の三味線の曲が、八代目林家正蔵の出囃子と同じ節だと思つたが、今は舞台の記憶がはつきりしないので判明したら追記する。

 さて、この鶴屋南北作の『時今也桔梗旗揚』について、劇場プログラムに市川團蔵の談話が載つてをり、「昭和六十二年の團菊祭で、團蔵を襲名し、武智光秀を演じ」たとある。このプログラムには当該演目の戦後全ての上演記録が記されてゐる。昭和六十二年五月の歌舞伎座の公演は、銀之助改め團蔵が武智光秀で、小田春永は亡くなつた十二世市川團十郎だつたのだ。ここで急激に私の中であの番組、『影の名優』の語りの一節が再生される。
 「そして(坂東八重之助は、)銀之助が團蔵を継ぐまで長生きして、その襲名披露公演で黒衣を務めたいと望んでゐる。」
 銀之助と実の親同様に暮らし、教育をした八重之助は、その襲名披露公演に間に合つたのであらうか。急いで資料を見ると、“明治42(1909)年03月25日 ~ 昭和62(1987)年08月05日” とある。黒衣を務めたかどうかはともかく、坂東八重之助は銀之助の市川團蔵襲名をしつかりと見届けてからほどなく、その年の八月に亡くなつたのだ。もうひとつの物語も此処に終はる。












※ 歌舞伎座の通路にて撮影。






 この日の最後の演目は『男女道成寺(めをとだうじやうじ)』だ。舞台いつぱいに咲き誇る満開の桜。その書割に溶けこむやうな桜色の上下を着た楽師たち。この色彩と音楽の素晴らしさはちよつと言葉にはならない。尾上菊之助の踊りはどこまでも優美だし、市川海老蔵の端正な踊りは作家の丸谷才一氏が晩年の随筆でその才能をとても褒めてゐた理由がよくわかる、いつまでも観ていたい夢のやうな舞台だつた。
(終はり)


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