『新潮日本文学 第11巻 山本有三集』
「書院」 →「書院造(づくり)」 室町末期から起こり江戸初期に完成した住宅建築の様式。接客空間を独立させ、立派に作る。主座敷を上段とし、床・棚・付書院(つけしょいん)・帳台構を設ける。角柱で、畳を敷きつめ、柱間には明り障子・襖を、外廻りには雨戸を用いる。和風住宅として現在まで影響を及ぼしている。」 『広辞苑 第六版』
「数寄屋」 茶室。(後略) 『同上』
“有三らは、
提出。”
『新潮日本文学 第11巻 山本有三集』(昭和四十四年八月十二日発行) 「解説 手塚富雄」
“制作以外で山本さんが日本文化のため最も大きい貢献をしたのは、国語国字の民主化と、現在の国語研究所の設立のためにつくした大きな努力である。なぜ、山本さんがこういう努力をしたかを端的に理解したい人は、「無事の人」の中で作者が盲人の主人公に語らせている述懐を聞くがいい。語と文字による国語の表現は、つねに生活と結びついた生きたものでなければならない。これは当用漢字の多寡(たか)を論議する以前に、万人が銘記すべき基本方針であるべきである。山本さんの努力は、その事を文章によって論ずるばかりでなく、現実の成果に結実させたのである。政治において何かの成果をおさめるのは、専門の政治家にとっても容易なことではないだろうが、山本さんの熱意は、よくこのことで文化と政治を結びつけたのである。日本の社会は、山本さんの数年間の参議院議員生活による芸術面でのロスが、これによって十分につぐなわれたことを思って感謝すべきである。”
『路傍の石』 「ペンを折る」(昭和十五年六月二十日) 山本有三
“ふり返ってみると、わたくしが「路傍の石」の想を構えたのは、昭和十一年のことであって、こんどの欧州大戦はさておき、日華事変さえ予想されなかった時代のことであります。本誌(主婦之友)の好意によって「新編路傍の石」を書きだした時でも、なお今日のような、けわしい時勢ではありませんでした。しかし、ただ今では、ご承知の通り、容易ならない時局に当面しております。従って、事変以前に構想した主題をもって、そのまま書き続けることは、さまざまな点において、めんどうをひき起しがちです。もちろん、この作そのものが、国策に反するものでないことは、わたくしは確信をもって断言いたします。資本主義、自由主義、出世主義、社会主義、なぞがあらわれてきますが、それを、どう扱おうとしているものであるかは、この作を読めば、だれにでも、すぐわかるはずです。
今日の日本は、あの作の中に書かれたような時代を通り、この作の中に出てくるような人たちによって、よかれ、あしかれ、築きあげられたのであって、日本の成長を考える時、それはけっして、無意味なものではないと思うのです。しかし、日一日と統制の強化されつつある今日の時代では、それをそのまま書こうとすると、特に、――これからの部分においては、不幸な事態をひき起こしやすいのです。その不幸を避けようとして、いわゆる時代の線にそうように書こうとすれば、いきおい、わたくしは途中から筆を曲げなければなりません。
けれども、筆を曲げて書く勇気は、わたくしにはありません。自分の作品に忠ならんとすれば、時代の認識に、遠ざかるかのごときうらみを残し、時代の認識に調子を合わせようとすれば、ゆがんだ形のものを書かなければなりません。そうとすれば、わたくしは断然、自分のペンを折る以外に、道はないのであります。”
※ 改行、彩色は、石川八十一。
※ “旧稿 東京大阪両朝日新聞に発表 一九三七年(昭和十二年)一月一日から同年六月十八日まで
改稿 「主婦之友」に発表 一九三八年(昭和十三年)十一月号から同十五年七月号まで
出版 岩波書店版 一九四一年(昭和十六年)八月一日発行” 『新潮日本文学 第11巻 山本有三集』