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新選組五兵衛新田始末

2006年11月02日 | 新選組
崙書房から出てる「新選組五兵衛新田始末」という本を読みました。薄くて文字も大きくて、お昼休みの1時間の間に読めてしまいました。でも中身はとても面白かったです。
この本の著者の方は、昔から綾瀬で歴史研究をされているらしく、新選組が綾瀬村に滞在していた約2週間の出来事を、金子家に残る覚書から推理してまとめた物です。その覚書は今で言うと家計簿という出納帳みたいなものなんですけど、新選組が購入した物などから、何故江戸城が官軍に明け渡されたこの次期に、五兵衛新田へ一体何の目的でやって来たのかというのが、解き明かされていて、うわーそうだったのかーと膝を打ちたくなるような感じでした。そして、この著者の方をこの謎解きへと突き動かしたのは大河ドラマ「新選組!」を見たからだそうで、何とも言えぬ親近感を感じてしまいますね。
こうやって、組!がきっかけとなり、今後もいろんなことが発見されるのでしょうか~ワクワク!

まず、新選組は金子家に来てから大量の炭を購入しています。当初、著者も暖をとるためなのかと推測していたようですが、すでにこの次期はもう桜も咲き始める頃で、ここまで大量の炭が必要なのだろうかと疑問に感じ始めます。(だって炭の購入量は徐々に増え、最終的に購入量は1トンもあったんですもん^^;)そして同様に大量のむしろも購入。これまた布団代わりなのかと最初は考えてみるものの、後に、むしろは袋とじにすると弾薬を運ぶのに最適なものだということがわかります。こうして購入した品物や量からこの文書を読み解いていくと、新選組は戦に備えて五兵衛新田で弾薬を作る作業をしていたのではないかという結論に行き当たるのでした。

もうひとつ興味深かったのは、この五兵衛新田を紹介したのが良順先生なのではないかということ。そしてその良順先生が幕府と勇達の間に立って伝達役として、五兵衛新田に来ているのです。
勇さんは武州足立郡淵江領代官の佐々井半十郎や、松平太郎らに再三手紙を送っています。その内容は「流山へ移動したい」。しかし、その嘆願は「当分の間は五兵衛新田に駐屯していてくれ」と何度もハネ返されるのです。著者も書いていますが、もしも、もっと早くこの勇の嘆願を幕府が受け入れていたら、流山に早く到着できていたら…官軍の包囲網をすり抜け、歳三とともに、組を率いて会津まで行けたのでは…?と思ってしまいます…。
そう、これを読んで思ったのは、勇は薩長土に殺されたのではなく、幕府に殺されたのでは…?ということ。いつまでも一カ所に留まっていたことにより、官軍に気付かれ、そして流山にようやく着いたその40時間後に勇が捕縛されてしまった。これではまるで新選組は官軍に差し出されたようなものではないですか!仮に弾薬作りが幕府からの命令で、何発分作るまでは五兵衛新田で作業しなければならなくて、その間に捕まっても幕府は責任を持たないよ~なーんてことだとしたら、なんだか新選組は悲しい下請け企業というか、本当に捨てゴマ扱いだったのだな~と思いました(T_T)
しかもその弾薬は量が多すぎて、一度に運ぶことができず、当時の宅配事業なんて、今のように大量運送はできないし、問屋場を経由しなければいけないという制度もあったそうなので、流山で抗戦したくても、せっかく作った弾薬の多くがまだ届いておらず、官軍と対決したくてもできなかったという見方もあるようです。あーもう本当に哀しい!あんなに一生懸命、五兵衛新田で作っていた弾薬が無駄になってしまったのか!?(後日、歳さんが宇都宮の闘いで使用したのではという可能性もあるようですが)
はぁ~なんだか、哀しくなりますよね。今まで「勇は闘いを諦めたふ抜け」だとか言われてきたけれども、こういう説もあることを知って嬉しくなったのと同時に、結果として幕府に見捨てられたのだという可能性も感じられてしまい、また更に哀しくなってしまいました。勇さんも歳さんも流山で包囲された時にどんなにかやり切れない思いだったんだろう…(T_T)

最後におまけとして書かれていた、勇の写真が撮られたいきさつの推測も面白かったです。当時、写真を撮る技術を持った人間は日本人は2人しか居なかったんですね~!そして、たった1枚の写真からまたしてもいろいろな事実が読み解かれ、それによって勇の性格分析なども少々あったりして、なんだかもうこの本は推理小説の謎解きのようなそんな面白さがありました。
是非皆様も読んでみてください!(^0^)

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