夢を見る理由
研究によると,日中の活動や興奮また考えた事柄によって引き起こされる夢もあります。「夢は何を意味するか」と題する本の中で,アン・ファラデーは,「夢の多くには,一日か二日前に頭の中を占めていた事柄が何らかの形で表われている」と述べています。
一方,爆弾性ショックを受けた兵士は戦いから戻った後何年もの間,恐ろしい悪夢に悩まされることが少なくありません。
興味深いことに,幾つかの実験は次の点を明らかにしています。「わたしたちは皆夢を見ることが必要で,年齢が下がるにつれてその必要は大きくなるようである。……REM睡眠だけを妨げる薬を用いて実験したところ,成人は夢を見ないで長時間過ごしても大丈夫であることが証明された。しかし同時に,いわば夢に飢えたそれらの人は性格が幾分変わる。いら立ったり心配する度合いが次第に増え,集中力を失うことも少なくない」。夢が人間の生活の中で間違いなく重要な役割を果たしていることを確証して,別の研究者は次のように述べました。「REM期(したがって夢)は,一つもしくは幾つかの理由で存在する。そして,身体との関連の程度から判断するなら,それが重要なものであることはほぼ間違いない」。
夢の解釈
夢に関係のある諸要素を総合して考えると,自分の見た夢に特別な意味があると考えるのは賢明でないことが一層明らかになります。どんな人でもほとんど毎晩夢を見るのであれば,自分の夢は例外的なものでそれには特別な意味があると考えるべきでしょうか。「睡眠」と題する本の中で,何人かの執筆者は,「夢の内容を文字通りトラック1台分ほど分析し,科学的な手法を用いても,夢を素早く理解する公式のようなものを導き出すことはまず無理である」とはっきり述べています。
人の夢を解釈する人は確かに少なくありません。しかし,そうした人々の間で意見が一致していないことは,夢に意味を付そうとすることに異議をはさむ強力な根拠の一つになっています。ロザリンド・カートライト博士ははっきりとこう述べました。
「明らかになった事柄のうち一番印象的なことは,恐らく,[夢を解釈する人々の間で]人により意見が非常に異なっていることだろう」。同女史はさらに次のように書きました。
「夢を正確に解釈できると主張する精神療法医は依然として少なくない……自分の仲間が同じ夢を全く異なって解釈する可能性があるという事実を全く気にとめていないからであろう」。
今日一部の調査者たちの間に見られる傾向は,他の人の夢をその人に代わって解釈しようとするのではなく,自分で夢を解釈する方法を教えることです。人はそれぞれ自分の経験や問題をよく知っているので,夢の意味を推論するのに夢を見た本人が一番有利な立場にあると考えられているのです。ところで,読者は,シュールレアリズムの画家が1枚の絵を描いたとき何を念頭に置いていたかを突き止めようとしたことがありますか。
一つのグループの中で,何人の人が全く同じ解釈をするでしょうか。カルビン・ホール博士によれば,種々の夢の解釈についてもそれと同様のことが言えます。
言うまでもなく,そのように考える理由の一つは,夢に現れる象徴の解釈が夢を解釈する人の文化的背景によって全く異なることにあります。例えば,ギリシャ人は夢に出てくる蛇は病気を意味すると信じていましたが,エジプト人はそれを解決された論争の恵みの前兆と考えました。ですから,普通に見る夢を過度に深刻に考えるのは賢明ではありません。むしろ,夢は楽しめるものです。
事実,夢は大変おかしいことが多いので,「人々が自分の笑い声で目を覚まさないのが不思議に思えることがよくある」と,ある著述家は述べました。
一方,悪夢にうなされることが多いなら,それに何か意味があるのではないかと考えるよりも,生活の仕方の中に悪夢の原因となるものがないかどうか調べたほうがよいでしょう。
聖書はいみじくも『多くの営みがあるために夢がある』と述べています。
「心配事が多いと夢を見ることになり,同じく,言葉が多いとむなしい結果に至る。真の神を畏れなさい」。
(コヘレトの言葉・伝道の書 5:7)
神が人に見させた夢
夢の意味を知ろうとする人々は,聖書の中に記されている,神が霊感によってお与えになった夢を引合いに出して,『今日でも神の霊感によって夢を見ることがあるのではないか』と言うことがよくあります。確かに,聖書時代に神は,ご自分の僕と交信するために夢をお用いになりました。そのよく知られている例は,妻のマリアと息子のイエスを連れてエジプトへ逃れるようにと警告を与えられたとき,ヨセフが見た夢です。神は,また,ご自分に献身していない人々にも夢を送られました。エジプトのファラオに預言的な夢を見させて,エジプトに7年の間飢きんがあることをお告げになった場合がそれです。
『占星術師たちが去った後,神(エホバ,ヤハウェ)の天使が夢の中でヨセフに現れて,言った。「起きて,この子とその母親を連れてエジプトに逃げ,私が知らせるまでとどまりなさい。ヘロデがこの子を捜して殺そうとしています」』。
(マタイ 2:13)
「丸2年がたった頃,ファラオは夢を見た。夢の中で,ファラオはナイル川の近くに立っていた。するとその川から,肉付きの良い美しい7頭の雌牛が上がってきて,川のそばで草を食べた。その後,痩せ細った醜い7頭の雌牛がナイル川から上がってきて,川岸にいる肉付きの良い雌牛の横に立った。それから,痩せ細った醜い雌牛が,肉付きの良い美しい7頭の雌牛を食い尽くしていった。ここでファラオは目が覚めた。ファラオは再び眠り,別の夢を見た。穀物の1本の茎から,実の詰まった立派な穂が7つ出ていた。その後,東からの熱風で干からびた細い穂が7つ出てきた。それから,その細い穂が,実の詰まった7つの立派な穂をのみ込んでいった。ここでファラオは目が覚め,夢だと気付いた」。
(創世記 41:1~7)
これら神が送られた夢はいずれも,神の僕を保護したり導いたりする目的で与えられました。あるいは,神のご意志と目的を成し遂げるよう物事を運ぶために与えられたものです。
ところが,使徒パウロはこう書いています。
「神は,昔には,多くの場合に,また夢を含む多くの方法で,預言者たちによってわたしたちの父祖に語られましたが,これらの日の終わりには,み子によってわたしたちに語られました」。
(ヘブライ 1:1,2)
神が『み子によってわたしたちに語られた』事柄は聖書に収められています。ですから神がわたしたちに語るために夢をお用いになる必要はありません。
それで,将来がどうなるかと考えたり,問題の解決を見いだそうとしたりしておられるなら,その答えは夢の解釈からではなく,神のみ言葉聖書の中から得られるのです。