その音楽がどれほど大きな音で演奏されるかということも考えてください。確かに,この点に関して人にはそれぞれの好みがあります。
聖書も道理にかなったボリュームの音楽を認めていないわけではありません。
ソロモンの神殿の奉献式では,ラッパを吹き鳴らす者だけで120人もいたのです。
「アサフ,ヘマン,エドトン,またその3人の子や兄弟たちが率いるレビ族の歌い手たち皆が,上等の織物を着て,シンバルや弦楽器やたて琴を持ち,祭壇の東に立っていた。
また,彼らと共に,120人の祭司がラッパを吹いていた」。
(歴代第二 5:12)
それはかなりの大音響だったに違いありません。しかし,神への賛美の大きな叫びと,耳をつんざくようなロック音楽とには雲泥の差があります。
ロック音楽の場合,気ままで奔放な精神を群衆にかき立てさせるためにしばしば非常に大きな音を用います。しかし,聖書は「浮かれ騒ぎ」,つまり「破廉恥なパーティー」を非としています。
「ねたみ,酩酊,ばか騒ぎなどです。こうした事柄について私はすでに警告しましたが,あらためて警告します。こうした事柄を習慣にする人が神の王国を授けられることはありません」。
(ガラテア 5:21)
そして自分の体に対する配慮の気持ちがあれば,聴覚を傷める恐れがあることを考えて,余りにも大きな音で音楽を聞くことはしないでしょう。
「そういう訳で,兄弟たち,神の思いやりに基づいて皆さんに強く勧めます。自分の体を,生きた犠牲,神に受け入れられる聖なる犠牲として差し出してください。理性を働かせて神聖な奉仕をするのです」。
(ローマ 12:1)
考えるべき別の点は,ヨブ 12章11節にあります。聖書はそこで,「耳は,言葉を試さないだろうか。上あごが食物を味わうように」と尋ねています。
この点と一致して,歌詞を『試す』ことが必要です。
あるクリスチャンの若者は,「自分が好きな幾つかの曲の歌詞を聴くようにしたんですが,驚いたことに,クリスチャンが聞くのには不適切なものでした。その音楽を取り払わなければならないことが分かりました」と認めています。
「兄弟たち,理解力の点で,幼い子供になってはなりません。悪に関しては幼い子供になり,理解力の点では大人になってください」。
(コリント第一 14:20)
「性的不道徳や,あらゆる汚れや貪欲については,皆さんの間で口に上ることさえあってはなりません。聖なる人として正しく振る舞うためです。恥ずべき行い,愚かな話,下品な冗談なども,聖なる人にふさわしくありません。代わりに,感謝を表しましょう」。
(エペソ・エフェソス 5:3,4)
さらに,前もって注意すべき点として,多くの演奏家は新曲を売り込むのにコンサートを利用しますが,その新曲の題材は,もしかすると,もっと健全だった以前の音楽とは,非常に違っているかもしれないのです。
加えて,その音楽には悪霊的な含みがないことを確かめなければなりません。特にヘビーメタルにはそうした含みが顕著に見られます。ヘビーメタルのバンドは,自分たちやアルバムのジャケットを悪霊的なシンボルや悪魔的な品で飾ることで知られています。
「そのような人の知恵は,天から来るものではなく,地上のもの,動物的なもの,悪魔的なものです」。
(ヤコブ 3:15)
そのようなグループのコンサートに行くなら,「悪魔に立ち向かいなさい」と命じている神を喜ばせることにはなりません。
「ですから,神に従ってください。悪魔に立ち向かってください。そうすれば,悪魔は逃げ去ります」。
(ヤコブ 4:7)
続く>>>>。