またまた海外旅行のお話でございます。^^;)
3回目の家族旅行は、入社3年目の冬、クリスマスから正月明けの8日まで、約2週間の長旅でございます。
その当時、私は八王子の山奥の現場に常駐勤務しておりました。
12月中旬の竣工を迎え、11月からは土日も休み無く、毎晩深夜まで残業の毎日でございました。
年が明ければ又、東京支店勤務に戻ることが決まっておりましたので、時期的にもちょうど振り替え休暇を含めて、2週間の休暇が可能だったワケでございます。
10月の終わり頃、オフクロから電話が掛かってきました。
もしもし、ムネオ?
12月25日から来年の8日まで休みは取れるかねぇ?
エッ~?何でよ?
あのね、毎日新聞の主催でね、ロシア冬の芸術祭参加ツアーっていう企画があるのよぉ~!ウフフ
それでね、お兄ちゃんは休めないから行かないんだけどね・・・。
カバン持ちとして一緒に行ってくれない?
料金はママが払ってあげるからさぁ・・。ウフフ
エッ~~?ホントに払ってくれるのぉ~?ウシシ
うん、その代わりママの荷物もちゃんと運んでよね?ムフフ
ワカッタ!オレ行く~~っ!
ってことになりまして、今回はオフクロと二人旅となったワケでございます。(笑)
19XX年12月25日、出航の前日に新潟のホテルに宿泊です。
翌日の午後からいよいよロシアへのツアーが始まりますが、何と言っても格安ツアーなものですから、行きも帰りも途中までは船と汽車の旅が含まれるのでございます。(笑)
新潟からナホトカまで27時間の船旅です。
ナホトカからハバロスクまでは寝台特急に乗って移動です。
ハバロスクからやっと飛行機でモスクワまで13時間のフライトなのです。フーッ
今回のツアーは毎日新聞社主催で、ナント300人の団体旅行でございます。^^;)
12月26日正午、新潟港からソ連船プリアムーリエ号(4,000トン)に乗船です。
出国手続きやら、ツアーの説明会やら、何しろ300人の団体旅行ですから何かと時間を取られ、結局出港したのは午後3時を回った頃でございました。
出港してしばらくは波も穏やかで、夕日の美しさに見とれる余裕があったのでございました。
が、しかし、その3時間後から翌朝までの地獄の船旅を誰が予測できたでしょうか・・・。(笑)
午後、6時近くになると海はだんだんと荒れはじめ、夕食の予定時刻であった7時には暴風圏に突入してしまったのでございます。
私は腹が減ったので、母に食堂に行こうと誘ったのですが、母は顔面蒼白、洗面器を抱えたまま返事もしません。w
あぁ、これじゃ無理だな、オレ一人で食いに行くか?
と私は揺れる船内をフラフラと歩きながら船内の食堂へと行ったのでございます。(笑)
食堂に着くと、テーブルの上には何も用意されていません。
それもそのはず、船が揺れるので料理なんかとても並べることは出来ません!(確かにw)
と言う事は、「エッ~、食事抜きかよぉ~?」 o(`ω´*)oプンスカプンスカ!!
いやはや、もう船内はアッチコッチでゲェ~ッ、グェ~ッの大合唱でございます。^^;)
何しろ船員達でさえ何人かは、顔面蒼白のオレ吐きそう! 状態なのですから。(笑)
私は意外と船酔いには強い方でして、なんだよ~、もうハラヘリコプター(パクリw)だよぉ~!
と食い物を探していたような・・・。(笑)
海は更に荒れだし、立て揺れ、横揺れなんでもありのオンパレードでございました。(笑)
私は仕方なく、ベッドに潜り込んで寝ることにしました。
夜10時から明け方4時ぐらいまで、ますます海は荒れ狂い、
流石の私も、うぅ~っ、オレって気持ち悪り~~かも?(笑)
我々の格安ツアー組みは船底近くの船室だったので、揺れがモロに伝わってきます。
(我々のクラスは上から3番目(窓有)、貧乏学生用の船底クラスもあった。w)
特に立て揺れの時、ひゅ~~っと上体が持ち上がるのを感じて、次ぎにドッカ~~~ンと叩きつけられるのです。
それが一晩中延々と続いたワケですから、もう客も船員もヘトヘトヘロヘロでございます。(笑)
何とか死亡者ゼロで静かな朝を迎えたのですが・・・(笑)
オフクロから言われちゃいました。^^;)
オマエは本当に薄情だねぇ・・・。
ママが死にそうな目に合ってるのに、一度も声を掛けなかったでしょ?ヽ(`Д´)ノプンプン
イヤ、オレだって大変だったんだもん・・。(;´Д`)
オマエは薄情だ!って
その後もいつまでいつまでも言われつづけたのでございます。w
大変な目を見た我々ですが、
どうにか無事にナホトカ港に到着いたしました!(笑)