窓辺びより

毎日が平凡だなんてとんだ勘違い。カーテンを開けよう。ほら、今日も窓辺びより

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2010-10-25 00:09:15 | ひとりごと
旅先で古い木造建築を訪れると
ふと懐かしい思いに浸る事があって
思い出すのはおばあちゃん家だったりする
におい、というのは視覚や聴覚に引けを取らないくらい
深く人間の記憶と結びついていると思う
住み慣れた家のにおいとか
駅前のパン屋さんのにおいとか
場所とにおいの関連性ってとても強い
ランドスケープやサウンドスケープって言葉があるけど
スメルスケープもあっていいんじゃないの、と思うくらい

こんな事を書くのは
今日電車の中で隣の席だった人がミントガムを噛んでいて
その香りを嗅いだ瞬間
鮮明に実家の洗面所が思い浮かんだからだ
何故実家だったのか分からないけど
昔家で使っていた歯磨き粉と香料が同じなのかもしれない

… …

視覚や聴覚はいくらだって嘘がつけるのです
その場に実在しないのに、実在してるふりができる
テレビもパソコンも携帯電話も、みんなそう
話している相手はそこにはいない
本物はどこか別のところにある

でも一番極端なのは
どこかに本物があると思わせておいて
実はどこにもそんなものは存在しない、そういうやり口

その究極の形は、言葉だと思う



でも一方で温度とか、肌ざわりとか、においとか
そういうものは実物が無ければ感じえない訳で
偽ることなんて、できない訳で

経験とか記憶とかの話をすると
つい見ること聞くことに重点が置かれがち
でもちょっとにおいを嗅いだだけで懐かしい記憶が蘇るのって
人間の記憶の中で「偽れない感覚」の占めるウェイトが
意外と大きい証拠なんじゃないだろうか

… …

たとえば好きな人と一緒にいても
その人の話している内容はそんなに重要じゃなくて
2日経っても3日経ってもずっと強く印象に残るのは
握った手の感触とか
髪の香りとか
抱きしめたときのぬくもりとか

決して偽ることのできないそういう感覚なのだろうな

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2010-10-23 16:30:09 | ひとりごと
週末になると気分はだいぶ良くなる
やはり学校が原因だからか?
それとも週末はかえって忙しいからか?
よく分からないけど、どうせ週明けからまた落ち込むだろうから
それに対して対策しておかないとな、とは思う

……


感度を上げて生きるのは、ハイリスクハイリターンだと思う
些細なことにも一喜一憂
少しのことですぐ心が潤ったり乾いたりする
そういう生き方について苦言を呈する人はいるだろうが
でもやはり感度の高い生き方は素晴らしいと思う

昨日帰りの電車で一緒だった人から
小学生時代に育てたバケツ稲の話を聞いて
そうした「些細な話」をする時ですら
感じた事をいきいきとした表情で語るその人の様子を見て
そんなことを思ったのです

生きていて出会う全てのものと
この人は真剣に向き合ってるんだな、と
大袈裟な言い方かも知れないけれど、直感でそう思ったのです

その人は話していると次から次へと言葉がポンポン出て来るから
同じペースで話すにはこちらは熟考なんてできず
直感で出て来た言葉をどんどん口にするのだけど
それだけにかえって素直な事が言えて
口に出してから
「そうか、自分はそう感じてるんだ」
と初めて分かることもしばしば

「色んなことに冷めちゃったわ、もう大人だし」
と思っていても、感度の高い人といると知らぬ間に自分の感度も上がっていて
最近の自分は、自分自身で感度を低く設定してるだけなんだな
本当に自分が生まれ持った感度は今でも曇らずちゃんと手元にあるんだな
という事にも気付きました

……


微笑と物憂げな表情に終始する人生よりは
爆笑と号泣に溢れる人生の方がいいんじゃないのか
その分同じ時間を生きて何倍もパワーを必要とするかもしれないけど
もしかしたら寿命すら縮むかもしれないけど

うつっぽくなってすぐ心が荒れてしまうのも
感度を高く設定した弊害のような気もする
だからさ、甘く見てよ


……ってのは少し甘えすぎか

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2010-10-21 23:10:45 | ひとりごと
夜、外に出れば
少し霧のかかった街並み
真っ暗な都立病院のシルエット
雨こそ降っていないが
濡れた路面を傘提げた人たちがぽつりぽつりと歩いている



ここ数日の心の荒れ模様が半端ない
そして学校に行かなかったり、決めた予定をこなせなかったりする最近の日々
多分両者に本当の関連性は無い
ぐうたらしたい自分が心の不調を言い訳に使っているだけ
わかってはいるんだけどね
実験実習はさすがにこなすが
座学の出席率の低さが目もあてられない
友人たちが「あいつどうして来ないんだろう?」と不思議がっていたらしい
そう思われているうちが花、か
色んな気持ちに整理をつけて行動しないとな

しかし我慢が良いとも限らない
今回の「事件」にしろ我慢がかえって悪影響を招いたのであって
吐き気を催した時は吐いた方が良いと言うしね

多分自分は些細なことで悩みすぎなのだ
自分の悩んでいる事はたいした事無いのだと、いつも思うけれど
でもそうしてしまい込んで溜まりに溜まり
実はたいした事になってしまっている、そんな時もあるのだろうな
今回の「事件」にしても、実際にそうだったのだからな
裁判、という言葉が手続きの場でちらりと出た時それを思った
勿論それを実際にやらなければならないほど大事ではないが

だから時には、吐き出してしまった方が良いのだろうな
ただ良い吐き出し口が見つからない
ツイッターでそれをやるのは本当は良くないと、分かっている



怒り、というか、憎しみ、というか
むしろやるせなさ、閉塞感
なんだろう、もう自分の中で色んなことがごちゃまぜになって
よく分からなくなってきているのです
きっかけは今回の事件だが
これだけ気持ちの滅入る原因はそれだけではない
この数年間の
あまり幸せでなかった側面ばかりが強調されている
これからの数年間について
あまり明るくは無い側面ばかりが強調されている
視野狭窄、でしょうか

「両者に本当の関係性は無い」と言い切っておいてこんなこと言うのはなんだけど
端的に言えば今何もやる気が起きなくて
一日中ずっと寝ていたいような
何もしたくない、そんな感じなのです

でもその一方で理性は色々ToDoを立てて予定をこなそうとするから
うまく動かない自分の心や体にイライラしてしまって
それもまたやるせなさや閉塞感の中に加算されていく訳ですね
ここで一つ仕切り直し、と言っても
学校の課題をはじめ、その他有形無形の色々
過去にうまくこなせなかった分の負債を既に抱え込んでいるから
マイナスからのスタートになってしまう訳で
それにまた気が滅入ってしまって逆効果……



どうしよう、どうすればいいかなあ?

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2010-10-19 21:22:27 | ひとりごと
いつものように平日が始まり
また感情を押し殺す日々です
沸き起こる沸き起こる色んな気持ち
それをできる限り低く低く押しとどめている
ほんとはなんだか爆発してしまいそうなのだけど

自分を取り巻く事態と
自分自身の心理状態がくっついてしまいそう
混ぜるな危険、といった所でしょうか
目先の事件と自分の生活や人生まで絡めて考えるな
拡大解釈
ダメ、ゼッタイ。

だがしかし。
イライラから目を背けようとすると
不器用な僕の事ですから
うきうきからも目を背けてしまうのです

そのまま気持ちが平ぺったくなって
息苦しくなってしまいそう

だからせめて歌う時くらいは
思うが侭に歌ってかまわないだろうって

そんなのもどうせ、拡大解釈かなあ
… …

最近自分の気持ちの不連続性が半端ない
めちゃくちゃ苛立ったり鬱になったり
その一方で嬉しい時は大袈裟なくらい喜んで
異常なのは自分の方じゃないのかと

それでも理性は確かだし
やろうと決めた事は着実にこなして行かなくちゃね
自分のやろうとしている目標すら降ってわいた災難に邪魔されるようじゃ
いよいよイライラは募るばかりだし

さあ、頑張ろう。

写真を撮るということ

2010-10-18 22:57:21 | 雑記
中学以来使ってきたデジタルカメラが、とうとう使えなくなる日がやってきた
修理に出したら「直せない」とのメーカーの返事
重病患者が手の施しようが無いと宣告を受けるような、そんな感じ
古すぎる機種だからもうメーカーに部品が残っていないらしい

実はその連絡を受けたのは日曜日で
バイトやら飲み会やらで色々ばたばたしていたからそんなに深く考える時間が無かったけど
やはりそれはとても悲しいことなのだった
そうか、もうあいつで撮ることはできないんだな
撮るときのボタンの感触とか、もうすっかり指が覚えているというのに
まる7年間も使ってきたというのに

今手元にあるもう1台のデジカメは、例の自転車旅行中ピンチヒッターで購入したもので
主力として使うのにはあまりにもクオリティが低い
それだから新しいのを買わなくてはならないのです
あちこちのパンフを集めて、あれこれ、吟味しなければ


僕のカメラの使い方はちょっと普通の人と違うのかもしれない
7年間の間に撮りためた写真は3万5千枚を超えている
もちろんその中には連写して同じ写真なのに削除していないものや
一時の備忘録として本やメモを大量撮影したものなんかも含まれているが
単純計算で1日10枚以上撮っている計算になる

「息をするように写真を撮ってきた」と書けばそれが一番イメージに近い気がするな

中学時代や高校時代、カメラは常に通学カバンの中に入っていて
少しでも面白いものやピンときたものがあればすぐシャッターを切っていた
そのおかげ、というか
今でも中学時代のバカやってた友人たちの記録なんかが
フォルダの中にたくさん残っていたりして

写真を撮るのはちょうど日記をつけるようなものだったのかもしれない
その日その日の瞬間を撮りためて、撮りためて
日々見たもの聞いたもの感じたもの
そんなものはいずれ消えていくだろうと予感していたから
それらをちゃんと繋ぎ止めておきたかった
そういえば昔はちゃんと文章の日記も書いていたな
きっと同じ理由だったんだろうな

3万5千枚の写真を見れば今でも当時考えてた事とか色々思い出されて
普通の人からみれば「なんで撮ったの」みたいに言われる写真が
そうそう、ここで確かこういうことを思ったからとりあえず1枚撮ったんだよねって
そんな感じで撮った瞬間の思考まで蘇らせるきっかけになったりして
その枚数は異常かもしれないけれど
今の僕としてはその行為は間違っていなかったと思うのです

旅行先の景色からごく普通の日常まで含めて本当に何回も何回もシャッターを切った
そしてあのカメラはその全てに立ち会っていたのです


――その時の僕が「残したい」と思った瞬間の全てに


言ってみるなら、あのカメラは10代の僕の伴走者だったのかもしれない




新しいカメラを買ってもまた僕はそれをずっと持ち歩くだろうし
撮る価値の無いようなものもまたたくさん撮ってしまうのだと思います

でもそれで良いんです

写真はその場に出向いてシャッターを切るものである以上
写ったものは必ずその人の経験の範囲内に収まるものです

これから20代の僕が経験することの大半は
もしかしたら撮る価値の無いようなことばかりかもしれない
でも、だからこそ
ほんの少しでも「残したい」と思った瞬間を逃したくはないのです

「息をするように」これからも写真の数は増えていくはずです

但し撮った写真が単なるライフログとして溜まるだけ、ってのは切ないとも思う
個人の経験を超えて意味のある、力のある写真が撮れるかどうか
それは紛れも無くシャッターを切る自分の実力と
良い瞬間との巡り合わせ、つまり運ですね
そしてあと、カメラが良くなければ話にならない

さあ、じっくり考えて次の伴走者を選ぼうか