ハニカム薔薇ノ神殿

西南戦争の現地記者の話他、幕末〜明治維新の歴史漫画を描いてます。歴史、美術史、ゲーム、特撮などの話も。

コレラ退治の錦絵を描いた木村竹次郎って誰??

2021年07月20日 | 文学・歴史・美術および書評
明治19年 8/17 「虎列刺退治」の錦絵

これを描いた絵師、木村竹次郎って誰??


この絵は昨今の新型コロナ流行からかよく出てくるんですが
描いた人がわからない。

「木村竹堂」と言う名でも出てくる。

ここまで絵が有名なのに作者が全く謎だなんて;


明治19年で神田で絵師もやって版元と兼ねていたというと
大倉書店の大倉孫兵衛?
でも住所が違う。
孫兵衛は後に陶器の「ノリタケ」を創業した人で
息子さんはトイレのTOTOの社長となった。
関東大震災で営業していた書店が焼けてしまい、復興できなかったようだけど
それ以前に、孫兵衛はなぜか「錦絵」の事業を黒歴史にでもしたいのか
研究者も「孫兵衛自身があまり語らない;…」
と言っており、よく知られていない。

夏目漱石の「吾輩は猫である」の単行本を出したり
小林清親のや西南戦争の錦絵も多く扱っていて
神田の書店は右と左で絵と文書に分けていた、
海外客向けに浮世絵を(美術品として)売りたくて、その時自分でも描いた
とか逸話はいくつかある。


「木村竹堂」画であったとして
画家なら他にも何か描いているはずなんだが
それが…全く出てこない。

「竹堂」という雅号で有名なのは
幕末〜明治の虎図で有名な京都画壇、



岸派の岸竹堂。

岸竹堂はもともとは狩野派に学んだものの、手本でテンプレ化する画風を嫌い
革新的なものも模索していたらしい。

なら竹堂が新聞絵にトライしたとか?
しかし、浮世絵、錦絵のメッカはやはり江戸だし
日本画壇、それも京画壇が当時のサブカルである新聞絵に挑戦したかどうか。

おそらく、虎で有名な竹堂の雅号にあやかったのではなかろうか。


幕末〜明治期の浮世絵、錦絵の画家で
作者不明のものは実は多いのだが
逆に「版元」「作者」を明記していながら、その作者が不明というのは…
震災も空襲も通り抜けて残ったのは奇跡と偶然なのか…
それとも保全された理由があるとか?


この新聞風の絵、よく見ると新聞でもないし。
ならば1枚500円(現在価格で)ほどで販売したとして
売れたのか?
その辺のニーズもよくわからない。


「宝丹」の字が見える。
宝丹は西南戦争時に兵士にも配られたコレラ薬だけど
この薬の販売をしていた守田治兵衛(現在も絶賛販売中)

この守田は広告にやたら力を入れていた。
岸田吟香とは知り合いであり、岸田の「精錡水」広告は参考になったという。

守田の広告を「くすりの博物館」からお借りした。
例えば



雑誌や新聞を使った広告をやっている。
岸田吟香と知り合いなら、小林清親に絵を頼む事もできたはず。
しかも、守田は書家としても有名だった様子。
そして…「戯画」も少し残っている。

もしかして本人が描いた事も考えられたりして…

もしかして「宝丹の広告」であったとは考えられないかね?
どうなん?

コレラ退治の図を作成された版元住所は


「神田区ヌシ丁七バンチ」
とあるのだけど…この住所もちょっと謎。
「ヌシ丁」=主町?→神田明神?
神田明神は平将門を祀っていたけど、明治7年に将門では敵になるというので
少彦名(すくなひこな)になったそう。
神田明神の大己貴(おおなむち)と少彦名、共に医薬品の神でもある。


住所も謎、作者も謎、目的も謎;

それとも一発屋か無名の絵師?(ならなぜわざわざ版元兼と名前を記したのか…)

守田治兵衛、こちらももう少し追ってみます。
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