今日の一貫

ブログ空間と自分が自分であること

感性で、自分の世界を切り取っていくのは、ある種、おたく化でもある。
ブログは、個人的な感覚を書き続け、パーソナルな意見を社会に発信することになる。中島義道は、発言していいのは昔から権力、というが、従来公共空間だった言論の世界が、大量なパーソナル言辞の中に埋没してしまっているのが今日的状況なのだろう。「私」の氾濫といったらいい。公共空間があると、それとの関係で個人は自分を地図上におくことができるのに。
ブログは、RSSなどによって、同好の士が集まって、それぞれのテリトリーを創っているようだ。
だが、それが公空間なのだろうか?
公共空間は、既にマスコミに占拠されているが、やはり大衆化、分衆化して見えなくなっている。社会は、「あなたでなくてもいい」、という個人の流動化がますますすんできている。「あなたがあなたであるのは、家族や相互に交際する人間関係においてのみ」でしかなくなってきている。それさえあやしくなっている。
公共空間は、結局人と人とがあって会話できる実空間しかないのかもしれない。
身体性の確保というか、実際に感じて、関係を持つ。またそんな空間でしか人は自分を実感できないのではないだろうか。
スローフードも、遅く食べるというのではない。「代わりのきく誰か」ではなく、「代わりのきかない自分」を認識する場として提案しているのだろう。自然や、悠久なモノとの関係で自分を再定義する。人間関係も、自分を再定義できる人間関係を作れるかであろう。それはコミュニティ活動などの「自発性」なのかもしれないし、ある意味コミュニティなのだろう。
個人の過剰代替可能化する社会では、自分自身の自発性が発揮しやすい環境が必要になる。広場やコミュニケーションの場、ふるさと商店街、等々が必要とされるゆえんであろう。コミュニティでの生きるスキルが要請される。
地域興しや地域経済の活性化も、マニュアル化して代替可能性を拡大するのではない方向が私は好きだ。
  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「個の時代」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
2023年
2022年
人気記事