日本バプテスト連盟 壱岐キリスト教会

玄界灘に浮かぶ壱岐の丘の上にある小さな教会です

2013年6月9日(日)主日礼拝説教 「あなたの罪はゆるされています」(ルカ7:36~50)

2013-06-09 14:48:06 | 礼拝説教
2013年6月9日 主日礼拝説教 
「あなたの罪はゆるされています」

ルカ7:36~50



「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイの福音書11章28~30節)イエスさまの言葉です。今日の聖書の箇所に登場する、「罪深い女」と書かれているこの女性は、イエスさまと出会って、またイエスさまの話される言葉にどれほど癒され、救われたのでしょうか。 

 この場面は、マタイによる福音書とマルコによる福音書には、イエスさまに香油を注いだ女の物語として記されています。またヨハネによる福音書には、ラザロの復活の場面に同じような物語が記されています。しかしルカだけは、この物語の焦点を「罪のゆるし」にあてました。そしてあえて「罪深い女」と書いています。この女がどうしてそのように呼ばれていたかは、いくつかの解釈もありますが、そこに特にこだわる必要はないと思います。聖書でいう「罪」とは、現代の私たちの考える一般的な犯罪や悪いことだけではありません。新約聖書のこの時代、ユダヤの律法を守れない人は「罪人」と呼ばれました。ユダヤ人ではない異邦人とよばれる外国人や、病を負っている人たち、人々から嫌われる仕事をしている人たちも「罪人」と呼ばれ、社会の片隅に追い遣られていたのです。しかし、イエスさまははっきりと言われました。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:13)

 ここに登場する「罪深い女」は、パリサイ派のシモンの家に行きイエスさまに会う以前に、すでにイエスさまに出会っていて、しかも「罪をゆるして」いただいています。そのことへの感謝の思いとして、今、この女はイエスさまの姿を見て涙を流し、その涙がイエスさまの足を濡らし、彼女は自分の髪の毛でその足を拭い、さらに持っていた香油(とても高価なものでしょう)で、イエスさまの足に塗ったのです。聖書の時代の食事の仕方は、寝そべるようにして、足を投げだして食事をしたとのことです。椅子に座っていたわけではないのです。ですから、イエスさまの後ろに立っていたこの女が、思わず涙があふれてきて、その涙がイエスさまの足の上に落ちてしまったということはそんなに不自然なことではありません。しかしその後に、彼女がした行為は、周りの人たちをとても驚かせました。一番、驚いたのは、イエスさまを食事に招いた家の主人シモンです。パリサイ人というのは、一種のニックネームであったようで「律法を守る人」、「真面目な人」というニュアンスがあるようです。そのパリサイ人は、イエスさまのお話を聞きたかったのでしょうか。自分の家に招いています。食事を一緒にしようとしています。その食事の席には、何人かの人(おそらく家族だけではなく、パリサイ人の知人)が集っていたことでしょう。また、他の福音書の箇所を参考に考えると、イエスさまの弟子たちも勿論近くにいたはずです。その驚きの場面において、目の前にいるイエスさまとこの女に、シモンはどういう視線を送っていたのでしょうか。
 彼は、心ひそかに思っていました。「この方が、もし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはず。この女は罪深い者なのだから」と。シモンは、パリサイ人ですから、律法をきちんと守り、本当に真面目に生きていたのだと思います。その価値観の中では、「罪人」とよばれる人が自分の家に来て、まして自分が招いたイエスさまに対して、こんなことをしているのは腹立たしいことでした。しかし言葉には出さずに、心の中でひそかに思っていたのです。
 イエスさまは、勿論、彼の心をご存知でした。そして彼に向かって、非常に短いたとえ話をされました。41節のところです。「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは5百デナリ(ある訳では、250万円)、ほかのひとりは50デナリ(50万円)借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。 では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか」シモンは、イエスさまからの質問に対して即答しました。しかもその答えは正解でした。それでも、彼はそのたとえの意味を理解することができなかったのです。
 47節のところで、『この女の多くの罪は赦されている』、それは彼女がよけい愛したから、とあります。ここで言われている愛するということは、「大切にすること、感謝をすること」と理解できるのです。イエスさまを大切にしたい、イエスさまに感謝をしたい、その思いが彼女のその行動となりました。
何があったのかはわかりませんが、彼女は今、「あなたの罪はゆるされています」とみんなの前で言ってもらい、その時から、「罪人」ではなくなったのです。「罪人」とよばれているために、肩身の狭い思いをし続け、顔をあげて町の中を歩けなかったのかもしれないこの人が、そのすべての重荷、心配、苦しみから解放されました。罪のゆるしとは、本来の自分をとりもどすことです。どんなに重荷を負っていたとしても、苦しい、人に言えないような悩みを抱えていたとしても、それはすべて昨日までのことです。今日から新しい人生が始まっていくのです。生まれかわって、堂々と前に進むことができる。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」と復活の主、活ける主、勝利の主が、背後から声援を送ってくださっています。臆することなく、たじろぐことなく、確信をもって歩むことが、できるのです。
 「罪がゆるされています」という言葉は、聖書が書かれた元々のギリシャ語では、完了形で書かれています。この女が、涙でイエスさまの足を濡らし、髪の毛で拭い、足に香油を塗ったから、その行いをしたから「罪がゆるされた」わけではありません。彼女が、イエスさまに出会い、自分の罪を悔い改め、本来の自分を取り戻したいと思って、イエスさまはそれができる神様だと信じたから、彼女は救われたのです。
 
以前に聖書の学びの時間に一度お話したことがありますが、今私が働いている西南学院大学の神学部の教授が定年退職される際に、研究室の片付けをお手伝いしたことがあります。その先生は、ユーモアにあふれているのですが、私に小さな壷のレプリカをくださいました。そのときに「この壷は、あなたが悲しくて涙を流すときに、その涙をためるためのものです。そしていつの日か、イエスさまにお会いしたときにそれでイエスさまの足を洗うのですよ」と言われました。まるで、今日の聖書箇所のような場面を想像しますが、そんなことは聖書に書いてありません。その先生は旧約聖書の先生で、それは冗談とわかりながらも、私は「はい、わかりました」といってその壷をいただきました。この壷を見るたびに、その先生の優しさにみちた言葉を思い出します。泣きたいほど辛いことがあったとしても、その涙は、イエスさまにお会いするために必要なのだと思えるということは、幸いなことです。
 
最近私は、「クリスチャンになりたい」という友達から、バプテスマを受けることについて相談されました。私は、その人に「バプテスマを受ける」ということは、イエスさまの愛に応答することだと思う、とこたえました。今の時代に、実際に、物理的にイエスさまにお会いすることはできないかもしれませんが、私自身のイエスさまへの感謝として、その愛に応答することとしてバプテスマを受けたのだと思っています。私は、小学校5年生で、バプテスマを受けましたので、「罪」の意味も、十字架の意味もわかっていなかったのかもしれません。それでも、イエスさまは私の気持ちを受け取ってくださったのだと信じています。十字架にかけられ、苦しまれたイエスさまの苦しみは、私自身の苦しみであり、まさにそれは私のためであったと。死に打ち勝ち、復活された主は、今も私と共にいてくださる神様であるという信仰を与えられています。
 私も、シモンのように、自分はこの女ほど「罪をおかしてはいない」と人を裁いてしまうようなことがあります。イエスさまは、それこそが罪なのだと教えてくださっています。その罪を悔い改め、またイエスさまを信じていきたいと思います。たとえ、その繰り返しであったとしても、イエスさまは今日また、語りかけてくださっています。「あなたの罪はゆるされています。安心していきなさい」と。 お祈りいたします。
(長尾なつみ 教育担当牧師)