日本バプテスト連盟 壱岐キリスト教会

玄界灘に浮かぶ壱岐の丘の上にある小さな教会です

2013年2月3日(日)主日礼拝説教要旨

2013-02-03 16:43:55 | 教会紹介
2013年2月3日(日)主日礼拝説教 

「主の喜びを共に喜ぼう」(マタイ16:1~12) 


 先週の箇所、異邦人の女性の熱心な願いに応え、その女性の娘が癒された場面は、とても印象に残る場面ではないかと思われます。今日はそこから少し進みまして、「パリサイ派やサドカイ派のパン種に気をつけなさい」との主の御言葉を通して、思いを巡らせたいと思います。
 パリサイ派とサドカイ派のパン種とは何か。それは、「パリサイ派とサドカイ派の人々が、イエスを試みようとして近寄ってきて、天からの徴を見せてほしいと願った」(マタイ16:1)との言葉に現れています。
 「天からの徴」と限定的に注文をしている点に、傲慢さが象徴的に表れています。あなたが神様からの特別な人物であるならば、ぜひその証拠を見せて欲しい。そしてその証拠は、天からのものでなければならない。彼らはそう言っているのです。
 口調は丁寧だったかもしれませんが、内容は大変傲慢で不遜な態度であります。主はもうすでに多くの素晴らしい業をなしています。目に見える証拠ならば、見たければいくらでも見ることができます。何よりも、主の癒しの業によって、多くの人々が生きる喜びを与えられ、新しく人生を歩み直し始めたことが神の奇跡であります。なぜ、彼らはその奇跡を見ようとしないのでしょう。
彼らはその奇跡を見ません。どのような奇跡が証拠になるのか、それは彼らが決めるというわけです。そしてその判定も彼らがするのでしょう。彼らは、主の出来事に対する判定者、裁き主になろうとしているのです。これは傲慢や不遜以外の何ものでもないのであります。
「イエスは答えて仰せになった、『あなた方は、夕方には、「夕焼けだから、明日は晴れる」と言い、朝には「朝焼けでどんよりしているから、今日は嵐だ」と言う。あなた方はこのように空模様を見分けることを知っていながら、時の徴を見分けることができないのか。邪(よこしま)で神を捨てた時代は徴を求める。しかしヨナの徴のほかには、どんな徴も与えられない』。そして、イエスは彼らを後に残して、立ち去られた」(マタイ16:2‐4)。
空を見て天気を予測することは、すべての人に身近なことではないでしょうか。私たちもそういうことをします。壱岐教会の庭に広く広がる空は、もし私たちがその景色に注意深くありさえすれば、天候に関するたくさんの情報を語っていると思います。明日の天気を予測することは、楽しいことでもあります。
イエス様は、あなた方には読み解く力があるではないか、と言っておられます。しかし、なぜ、神の業に対してのみ、不遜な態度を取るのかと、嘆いておられるのです。
主は彼らに対し、「邪で神を捨てた時代は徴を求める」と言われました。一見、神様を求めるがゆえに徴を求めているように見えるのですが、実は、神を捨てた邪な時代が、徴を求めるのです。あなた方は邪であると、かなり皮肉の聞いた主の言葉であります。
今、ニュースを見ておりますと、不穏な時代に生きていることを感じます。皆様はどのように感じておられますでしょうか。アルジェリアで邦人に被害が集中するような形でテロに襲われますと、自衛隊を国防軍になどという主張にも、勢いがついてしまいそうです。原発の危険は去ったのでしょうか? とんでもないことです。東京電力福島原発からは、今も放射能汚染物質は撒き散らされています。にもかかわらず、「国際競争力」という大義名分が、より強く主張されているように思われます。また、デフレ脱却が叫ばれています。が、デフレにも良い面はあるのではないでしょうか? 低所得者層にとっては、有難い傾向ではないでしょうか? その関連でしょうか、生活保護の受給額が切り下げられることになりそうですが、長い目で見たときに、これが私たちの互いの気持ちをどのようなものにしてゆくのか、案じなければなりません。国際競争力の名の下に、弱者が切り捨てられてゆく方向に、大きく舵は切られているように思われます。私たちは今、互いが愛し合う方向へと導かれているのでしょうか?
「証拠を見せてみろ」という考え方があります。証拠がなければ納得しないぞ、という主張の仕方ですね。今日の箇所に出てくる、徴を求めるという考え方です。けれども、証拠として白日の下に提出することができなくても、目に見えなくても、事実としてあるものはある、ということもあるでありましょう。私たちは、謙虚な姿勢を失ってしまったら、見えるはずのものさえも見えなくなってしまうのであります。
イエス様は弟子たちに、「パリサイ派やサドカイ派のパン種に注意し、警戒しなさい」と言われました(マタイ16:6)。弟子たちは、パンを持ってくることを忘れてしまっていました。また、お腹も空いていたのでしょう。パンを手元にもっておくようにと注意されたと勘違いして、慌ててしまいました。弟子たちは「(イエス様がそういうことを言うのは)私たちがパンを持ってこなかったからだ」と論じ始めたとのことです(マタイ16:7)が、弟子たちの反応はいくらか滑稽で、思わず苦笑を誘われます。互いに責任を擦り合ったのでしょうか? 私たちに良くあることでもありましょうが、傍から見たら滑稽なものと心得たいと思います。
「イエスは仰せになった。『信仰の薄い者たちよ、どうしてパンを持っていないことを論じ合っているのか。まだ分からないのか。覚えていないのか。五つのパンを五千人に与えたとき、残りをいく籠に集めたか。七つのパンを四千人に与えたとき、残りをいく籠に集めたか。私があなた方に言ったのは、パンのことではないことが、どうして分からないのか。パリサイ派やサドカイ派のパン種に注意しなさいと言っているのだ』」(マタイ16:8‐11)。
イエス様の嘆きのため息が聞こえてきそうな場面です。五千人の共食。四千人の共食。あなた方は目の当たりにしたではないか、と。あの光景を目の当たりにして、悟ることができないということはないはずだと、言っておられます。貧しい人々、苦みの中にいる人々が、あんなにも喜んで食事を共にしたではないか。あの光景こそは父なる神の御心なのだ。見れば分かるだろう、とですね。あれ以上の「徴」はないのです。あの徴を見て悟らないなどということは受け入れられないのです。
「そこで、弟子たちは、イエスが警戒するように仰せになったのは、パン種のことではなく、パリサイ派やサドカイ派の人々の教えであると悟った」(マタイ16:12)。
今日の箇所、パリサイ派やサドカイ派のパン種、つまり教えのことですが、それを「証拠を見せてもらう」という言い方にたとえてみましたが、この言葉に込められた、高慢さ、傲慢さを、私たちはよくよく覚えておきたいと思います。まるで裁き主にでもなったかのような、謙虚さを忘れた態度でありますから、クリスチャンのものではありません。そのようなパン種には気をつけなければならないのであります。
そうではなくて、五千人の共食、四千人の共食に見られた光景、苦しんでいる人々、痛んでいる人々に、必要が満たされて、喜びが与えられること、希望が与えられること、そういうことを共に喜ぶことが、主イエス・キリストというパン種を受ける者の心であります。主の心と共に、私たちも共に祈りたいと思います。
祈りましょう。
 (説教:長尾知明牧師)