日本バプテスト連盟 壱岐キリスト教会

玄界灘に浮かぶ壱岐の丘の上にある小さな教会です

明日は日曜日 日曜日は教会へ 主日礼拝説教要約

2011-06-18 20:00:00 | 礼拝説教
6月12日(日)主日礼拝説教要約 
「大切なことは神様との関係である」 長尾知明 牧師


キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。
(エペソ4: 16)


 「からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、」建てられるとあります。ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者、全被造物、教会…あらゆる関係性の中で適用できる御言葉であります。
 神の作品として造られた被造物の一つ一つが、かけがえのないものです。互いが互いにの必要に応える存在であり、その造られた目的に従って生き、生かされる時、存在の喜びがあります。
 人間に適用して考えてみましょう。私たちは造られた目的に従って生き、また生かされているでしょうか。私たちは時に自分を見失うことがあります。自分の生きる意味、存在価値、何かの役に立っている感じなどなど。どうしたら良いのか、分からなくなることが誰にでもあると思うのです。けれども、そのような時こそ、静まって祈り、神の御手によって存在させられていることそのもののかけがえのない価値、喜びを思い出したいものです。

 今日の箇所で、「備えられたあらゆる結び目」、「しっかりと組み合わされ」「結び合わされ」というようにつなぎ合わされる意味合いの言葉が繰り返されています。特に強調されているメッセージでしょう。
 一つ一つの部分を人間にたとえるならば、つなぎ合わされることは人間関係の部分にあたります。一人一人は、かけがえもなく尊いものです。しかし、人間関係といいますと、私たちは絶えず難しさや困難を感じる課題ではないでしょうか。立場が違えば感じ方が違い、主張が対立するのは当然です。
 けれども、御言葉は「備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ」と語っています。今日の箇所の「キリストによって」は、罪赦されて父なる神と一つとなることを、その言葉の中に意味されていると、聞くことができるのではないでしょうか。
 人間関係が、本当に良いものであるためには、一人一人が父なる神の御旨に沿うことを第一とするとき以外にはあり得ません。神の国と神の義を第一とするようにとの主の御言葉がありますが、それ以外に、私たち人間同士の関係性が本当に整えられることはないのです。

 「成長して、愛のうちに建てられるのです。」とあります。キリストによって救われて、父なる神の子ら、兄弟姉妹となった一人一人が、今度はさらに結び合わされて、しかも、しっかりと組み合わされ、結び合わされて、からだ全体は建てられることになります。組み合わされる、結び合わされる、との御言葉が、人間関係にたとえられると理解されつつも、本当に大切なことは神様との関係であることが教えられるところです。被造物、一人一人がかけがえのないことを他の関係性から考えましたが、本当に大切なことは、神の御旨によって造られたということ、つまり神様との関係に、その根拠があることを教えられる思いがします。
 十字架の主に現された神の愛こそは、全体を一つにさせ、愛のうちに成長させる、この建物の設計図の主旨であります。私たちは父御子御霊の神を心から信じ、主の十字架に現された、神の愛と赦しに従って今週も歩んで参りましょう。

日曜日は教会へ 主日礼拝説教要約

2011-06-18 16:33:58 | 礼拝説教
6月5日(日)主日礼拝説教要約
「成熟した信仰者として歩む」 長尾知明 牧師


 それは、私たちが子どもではなくて、人の悪巧(だく)みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
(エペソ4: 14-15)

 
 初代教会時代、ユダヤ人キリスト者は異邦人キリスト者に律法と割礼を求めていました。信仰に入るには律法と割礼が主を信じる前の段階で必要、とする考え方は自然な感覚に違いなかったと思われます。ところが、その論理はユダヤ人キリスト者に圧倒的に優位な立場に立たせるもので、両者の間に隔ての壁を築き上げる論理でした。
 この主張に異邦人伝道に召されたパウロが異を唱えます。律法や割礼は主イエス・キリストを信じる信仰に必要な条件ではない、と主張するのです。今日の御言葉が「人の悪巧み」や「人を欺く悪賢い策略」などと語るその意味は、ユダヤ人キリスト者が異邦人キリスト者に対して、絶えず優位な立場にあり続けようとする、その内心の気持ちを指しているように思われます。当時全く正当な主張に思われる論理に、「吹き回されたり」「もてあそばれたり」することを御言葉は「子ども」にたとえています。

 私たちの今日の世においても、世の論理がまことしやかに語られています。その基本となるものは、地位と名誉と財産に価値がある、という座標軸によって築かれる論理です。誰もが、この類の論理、常識などと呼ばれる考え方にまで世の論理は食い込んでいます。クリスチャンもこの世の感覚の波にいくばくかの感化を受けざるを得ません。「子ども」のようであってはならない、と語る御言葉に、いよいよ深く耳を傾けたいと思うのです。
 御言葉の指し示す「子ども」の反対にあるところの「おとな」の有り様を考えてみましょう。それは「愛をもって真理を語る」ことであります。「真理」との御言葉をどのように聞くべきでしょうか。聖書の創造の物語に「真理」の根拠を求めたいと思います。被造物は、その造られた目的に従って生きる、互いに関連づけられているという意味では、互いに造られた目的に従って生かされるとき、被造物はいわば幸せなのです。人間一人一人も各人から与えられた神からの賜物に沿って生き、生かされているとき、幸せであります。地位や名誉や財産は、その幸せと関係はありません。神の御心にかなう歩みを自分の喜びとして歩むことが、御言葉の語る「おとな」です。

 「あらゆる点において成長し」を、世にあっても教会の中においても一貫した信仰者の有り様、「おとな」であるように、と聞きたいと思います。教会の中と外では別の顔、ではクリスチャンの在り方ではありません。その先には「頭なるキリストに達することができるため」とあります。キリストに達するとは恐れ多いことではありますが、私たちはキリストを見上げつつ歩むように召されているのです。私たちは「おとな」であることへ召されています。

先週の主日礼拝説教要約

2011-06-04 15:16:42 | 教会紹介
2011年5月29日(日)の主日礼拝説教要約(抜粋)です。
(礼拝に出席されている方が要約してくださいました。)



 「(良い意味で)『大人』になる」
  説教 長尾知明牧師

  エペソ人への手紙4:11-13


 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。(エペソ4:13 新改訳)
 
 初代教会時代の教会の中で、「おとなになる」とはどのようなことでしょうか?
 初代教会は、ある人を使徒として、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として立てられました。お互いに教え合い、自由な語らいの中で、皆が心一つとなって、父御子御霊の神のもとにある兄弟姉妹、家族でした。
言いたいことを言いたいように言って、人の言葉には耳を傾けない、言い争い、優劣、実りのない議論を楽しむというのは「子ども」でしょう。何が父なる神の御心であり、何がそうではないのか、真摯に祈り、思いをめぐらせ、神の御心に心を一つとする姿勢は「おとな」でしょう。
 寛容は「おとな」、親切は「おとな」、妬まないことは「おとな」…。聖書が語るところの「愛」は、今日の箇所で言うところの「おとな」でもあります。
 私たちは直感的に、「おとなである」ことと、「子どもである」ことを知っています。それは、聖霊によって日々教えられている、ということであります。良い意味での「おとな」であるために、日々の祈りとみことばは、その示唆の源です。
 「おとな」であることの、みことばが指し示すその先に、主の十字架があるならば、「おとなである」ことの目標は愛と赦しでありましょう。
 私たちはこの目標に向かって歩んでいます。愛と赦しは、誰にとっても困難な課題です。成熟した「おとな」こそができることでしょう。そして、私たち自身、主の十字架に現された神の愛と赦しにあずかっている者でもあります。主の十字架のもとにあります、教会に召し集められているのです。この十字架を、世にあって、高くかかげましょう。