日本バプテスト連盟 壱岐キリスト教会

玄界灘に浮かぶ壱岐の丘の上にある小さな教会です

2010年6月20日(日)主日礼拝説教

2010-06-25 10:29:34 | 教会紹介
今朝は、創世記6-9章、ノアの箱舟の物語をご一緒にお読みしたいと思います。

 ノアの時代、世はどのような状況であったか。1節から12節を読みますと、その時代、地は暴虐で満ちていた(6:11)とあります。その意味するところは、強い民族が弱い民族の女性を奪うことに象徴されることと思われます(6:1-4)。

 人の歴史の始まりの頃であります。倫理道徳などほとんどないと言って良い時代ではなかったかと思われます。強い者が弱い者から奪うなど、当然のことだったのかもしれません。しかし、この光景に、神様は心を痛められたのでありました。そして、人を地上に造ったことを後悔されたと、聖書は語っています(6節)。

 天の父が思われた創造の業は、全ての被造物が、各々造られた目的にしたがって、互いに関係をもって、バランスを保って、平和に共存することを目的としたのではなかったかと思います。造られた天地そのものが神への讃美であります。しかしノアの時代には、神様がその業を後悔されるほどに、世は荒れ果ててしまっていたのでありました。

 この時代の中にあって、ノアだけが、神様の御旨にかなって、まったき人であった(6:9)というのは、実に驚くべきことのように思われます。一体どのようにしてノアは本来あるべき神の前にある人としてのあり方を、たった一人、保つことができたのでありましょうか。当時は聖書はなく、また、倫理の模範となる人物もまたいなかった時代であります。

 6節にあります、「ノアは神と共に歩んだ」の言葉から、ノアが特別な賜物を持った祈りの人であったであろうことを、想像して良いと思います。

人々は、力に任せて思いを遂げることに何の良心の呵責も感じない。お互いにそういう関係にあった。たとえて言うならば、遠慮していたら食べられてしまうのでありましょう。やってしまった者勝ち。やられる前にやってしまわなければ生き残れない。そのような感覚が正当化されるような世であったかもしれません。

けれども、ノアは、本能的にと申しますか、直感的にと申しましょうか、そのような感覚は良くないことだと感じたのでありましょう。そのような感覚は、互いの関係を良い方向には導かないからであります。

ノアは、持っている力を、むやみに振るわなかったということなのかもしれません。ノアは、弱い者から力づくで奪い取るような真似はしなかったのでありましょう。非常に感覚的に天の父の御旨を悟り、従ったのでありましょう。これは一種の祈りであります。祈りが、ノアをまったき人へと導いたのであります。生ける真の神に祈る祈りを、賜物として与えられていた人として、ノアを覚えたいと思います。

 世は、長い者に巻かれ、弱い者にしわを寄せるものであります。表面上の平穏はそのようにして保たれるのであります。それは世にあっては正しいことのようにさえ思われます。今も昔も変わらない、人の群集心理のようなものでありましょう。けれども一面、信仰者の目で見るならば、これこそは世の荒波であります。弱い者がさらに弱いままにされる構造だからです。

 祈りの人、ノアは、世にあって孤独であったかもしれません。他の人々の目には無駄に苦労を背負い込むようなところがあったかもしれません。けれどもノアは、決して孤独ではなかったでありましょう。人との関係の中にあっては孤独であったかもしれませんが、神と共に歩むという意味で、ノアは決して孤独ではなかったでありましょう。むしろ、真の平安を、ノアは与えられていたことでありましょう。

文字通りに洪水が起こり、箱舟によって救われる以前から、ノアは祈りという箱舟に乗って、人の世の荒波の渦中にあって、守られていたのであります。それが、ノアがまったき人であったという姿でありましょう。

私たちもまた、今、世にあって、祈るものとなりたいと思います。他の何ものよりも、主イエス・キリストを信じ、生ける真の神と共に歩む、祈りの人となりたいものであります。

主イエス・キリストを信じる信仰は、主と共にある箱舟であります。教会、教会の交わりは箱舟であります。日々の祈りと御言葉は私たち一人一人の箱舟であります。そうして私たちは共に、同じ箱舟に乗っているのであります。



 雨は40日40夜降り続けたと聖書は記しています(7:4、12)。水は150日間、増え続けました(7:24)。箱舟に入ってから出るまでの間は丸一年であります。この間、ノアと一つがいずつの動物たちは、閉じ込められた空間の中に過ごすわけでありますが、文字通りに息の詰まる状況であります。

聖書には期間が記されています。けれども、最初から終わりがはっきりと知らされていたわけではありません。終わりの見えないままに閉じ込められた状態は、ノアにとっては大変大きな試みの時ではなかったでしょうか。いつ終わると知れない困難の中にあって、変わらずに平静を保ったノアの祈り、神様への信頼は、篤いものであります。

箱舟の中にある間、助かるのか助からないのか、不安や疑心暗鬼にさいなまれても何の不思議もない状況であります。湿気や臭気など、不快指数は極めて高かったでありましょう。けれども、祈りの人ノアがいることで、箱舟の中にはある種の静けさのようなものもまたあったようにも思われます。いつまでこの雨は降り続くのか、いつ水は引くのか、ここから出られるのか、そのような不安や疑心暗鬼に、動物たちやノアの家族が錯乱した様子は一切ありません。いつ止むとも知れない雨。揺れる箱舟の軋む音。薄暗い空間。しかしその中にある確かな平安。神様の目には、箱舟は、消えることのない平安のともし火のようにして、嵐の中、水の上にあったのであります。



水が次第に引き始め、箱舟から出て乾いた地に足を下ろすまでに、約半年かかっています。烏を放ったり、鳩を放ったりして、確かに乾いた地があるのか、ノアは丁寧に確かめます。この期間の忍耐もまた、それまでとは違った忍耐ではなかったかと思います。

もうそろそろいいのではないかと思われて、そこからさらに待たされる苦痛は、非常に大きいものがあるのではないでしょうか。箱舟の中の一年間の、特にこの後半の部分は、ノアの信仰は、丁寧な作業を伴うものであったことを読むことができると思います。他の人々に流されないで、まったき人であったノアの個性がよく表れた場面ではないでしょうか。



 地の上から水は引き、箱舟から出たノアはまず、祭壇を築き、神様に礼拝をささげました(8:20)。そして、神様は虹を契約の徴としてノアに指し示します(9:13-17)。虹は神様の守りの約束を示すものとなりました。聖書は大変古い書物でありますから、神様が直接人に語りかける場面は数多くありますが、この場面から、ノアが虹を通して、神様の御守りを思う、その瑞々(みずみず)しい信仰のあり方を読み取ってみても面白いかと思います。この信仰のあり方は、イエス様にも通じるものであります。

 主は、「空の鳥を見なさい」(マタイ6:26)、「野の花を見なさい」(同6:30)と言われました。そして、天の父なる神が、あなたをこの上なく大切に思っておられることがなぜ分からないのかと、人々を強く励ましました。ローマ人への手紙1:20、「神の、目に見えない本姓、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、」とあります。これは使徒パウロの言葉であります。同じことを言っております。

 美しい自然を見て、感動を覚えない人はいないでしょう。空に大きくかかる虹のように、スケールの大きな自然はもちろん、空の鳥や野の花といった、いつでも見ることのできる、自然の何気ない姿に、深い感動を感じることもまたできます。そしてここから更に、天地を造られた神様の深い、徹底的な愛を読み取るところに、神の人の言葉は紡がれております。

 一人の年輩のご婦人のお話をご紹介いたします。以前の教会でのお話です。

教会から車で1時間少々の場所に住んでおられました。私は月に1回、訪問させていただくようにしておりました。仮の住まいの周辺は、手入れの行き届いた緑豊かな公園などありまして、大変過ごしやすそうな良い場所でありました。

 家族で訪問させていただきまして、公園を散歩などいたしました。足元に若干の不安を覚えないではないわけでありますが、ご本人もたまには外を歩きたいということもあるでしょうし、転ばないことをひたすら祈りつつ歩いたのは良い思い出であります。

 散歩も終わろうかという時に、その方が私に、「見せたいものがある」と言われました。花が綺麗に咲いている、というのです。せっかくですから、見せていただこうと思いました。案内してくださる足が急に力強くなったように思われ、人間とは面白いものだと思いました。

 そして案内された場所は一面緑の土手でありました。「どうです、綺麗でしょう」とおっしゃいます。私は内心、「あれ、花じゃなかったかな」、「緑の土手も悪くはないか」と思いつつ、「お年を召されたということか…」などと不遜なことを考えもしました(内心では)。

 けれども、よくよく見て見ましたら、何と見事に花が、それこそ土手一面に咲いておりました。緑色の草の先に、これまた小さな小さな薄紫色の花がびっしりと咲いていたのです。これはなるほど大変美しい光景でありました。この美しい光景を私に見せたいと思ってくださったのかと思い、本当に嬉しく感動した次第です。

 その方の、視力そのものは良くなかったはずです。私はどちらかといいますと視力は良いほうです。当時はよかったと思います。けれども、単に視力の問題ではないですね。見える人には見える、見えない人には見えない、そういうことが事実あります。あの土手の小さな小さな花が見える、そして美しいと感動する心に、本当に教えられる思いがいたしました。私たちは一体どれだけのものが“見え”ているのでありましょうか。また、“見えていない”のでありましょうか。

 美しい自然に出会ったならば、感動を与えられるだけでなく、天地を造られた神様が、徹底的に私たち一人一人を愛し、守り導いてくださることを悟るまでに受け止めて感謝できるものでありたいと思います。ノアが虹を見たように、主が空の鳥や野の花を見たように、私たちも良い意味で目の開かれた者でありたいと思います。

 祈ります。

(牧師 長尾知明)

6月13日(日)の週報より 

2010-06-16 11:28:15 | 教会紹介
<2010年6月13日(日)の週報3ページ>

教会の5つの約束 「聖書・祈り・礼拝・献金・伝道」

 明日、ワールドカップ、日本の初戦はカメルーンです。カメルーンはチームに呪術師を帯同させるそうですね。強敵であります。日本には神主さんを帯同させる話は聞きません。おそらくこの違いが勝敗を決するでしょう。という冗談はさておき、スポーツを観戦してつくづく思うことがあります。
鍛え上げられた選手個人やチームプレーなどは一種のアートのようなもので、トップの選手やチーム同士がしのぎを削って生み出される名場面は感動的であります。生まれた名場面は、創造主への讃美のようであります。そこには勝者も敗者もありません。ですからベストを尽くしかつフェアーであってほしい。心からそう願います。今回のワールドカップはどのような物語を生むでしょうか。
スポーツは勝敗がつきます。勝利には名誉がついてきます。名誉には金がついてきます。名誉と金に、権力が絡んでいます。勝負の世界は、オール・オア・ナッシングの世界であります。だからこそ勝利に貪欲になるのでありましょう。勝利至上、勝利へのモチベーションこそが名場面を生むのでありましょう。
 ファンも勝敗を楽しむものです。結果だけ見て満足したりフラストレーションを感じるファンが、実は殆どではないでしょうか。ですから、プレーヤーは勝利こそを目指します。しかし不正や薬物など、勝利至上主義の行き過ぎに、虚しさを感じさせられることもまたしばしばです。
最近のスポーツでは、大リーグ、明らかな誤審で完全試合を逃したガララーガ投手の態度は感動的でした。審判を思い遣るコメントは人々に感動を与えました。誤審を認めて謝罪のコメントを公にした審判の態度も立派だと思います。
出来事を通して、全てのファンが温かい気持ちになったことが、マスコミを含めた関係者全員の勝利でありましょう。完全試合以上の完全試合として覚えたいゲームです。(牧師)

2010年6月6日(日)主日礼拝説教

2010-06-09 22:42:21 | 教会紹介
創世記1:1~3、イザヤ40:27~31



 今月から創世記を読みたいと思います。創世記1章の天地創造の物語の冒頭は、混沌とした闇に、神の声「光よ。あれ」が響いた時、光ができた、という場面です。ここに示されるものを覚えました。
 私たち壱岐教会の礼拝出席が減少しています(あまり声高に言うつもりはありませんが、一度はっきりさせたほうが、むしろ私たち自身に対して励みになるのではと期待しています)。お休みの方一人一人にそれぞれの事情がありますので、無理からぬものを理解しつつ、実際に目の前の光景が寂しくなりますと、私たちの気持ちは重くなるものであります。口からでてくる言葉も重々しくなってきてしまいます。つい、感謝と讃美の言葉が遠ざかってしまいがちであります。

 私は以前牧会させていただいておりました教会でのこと、4年5ヶ月の牧会生活でありましたが、その記憶がよみがえるものがありました。その記憶とは、3年目の春、急に状況が苦しくなったことであります。そしてそれが2年続きました。5年目の春、こんどは状況が急に上向いたのでありますが、その5年目の5ヶ月目には教会を離れることが決まっており、悔しい思いをいたしました。
 この春は、私にとって壱岐教会に牧師として着任して、3年目なのです。以前の教会とは、状況の苦しさの内容はかなり違いますが、これから2年間は苦しい時期を過ごすことになっているのではと、いささかの覚悟を決めているところであります。苦しいならば苦しいなりに、良い時間にしたいと願っています。以前の経験を生かす時機がやってきたのだと感謝しております。
 ある意味では、混沌とした闇に、これから入るのでありましょう。混沌とした闇の中に放り込まれて、そこから見える世界とはどのようなものなのでしょうか。
先が見えない。どちらに進んだら良いか分からない。もがくにしても、どのようにもがいたら良いのか分からない。じっとしていたら良いのか、それもはっきりしない。そしてこの状態がいつまで続くか分からない。混沌とした闇とは、そのようなものではないでしょうか。
箴言13:12、「期待が長引くと心は病む。望みがかなうことは命の木である」とあります。この心の病みは、光がいつ差し込んでくるのか分からない、この苦しみがいつ終わるのか分からない、一つには、この“時間”という問題が大きく働きます。期間がはっきりしていたならば、相当程度の苦しみも耐えやすいことがあります。
私は預言者ではありませんが(笑)、大胆に預言させていただきたいと思います。今から2年間、この混沌とした状況は続くつもりでおります。3年後、状況は上向くでありましょう。そのつもりでこの2年間を大切に過ごしたいと思います。状況が上向いた時に、その時機を上手に捕まえられるように、今を大切にしたいと思います。
鷲が天空高く上る様子が、聖書にたとえられています。イザヤ40:31です。少し前の節から読みたいと思います。
イザヤ40:27-31。「ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。『私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている』と。あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、弛むことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、弛み、若い男も躓き倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって昇ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」。
この箇所にあります苦悩の叫び、「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている」は、苦しみが“いつ終わるのか分からない苦しみ”ではないでしょうか。周囲の無理解を嘆いております。そしてその悔しさのゆえでしょうか、神を責めてさえいます。
本人は自分が義であることの前提に立っているようです。罪の自覚をもっていません。「私の道は隠れている」のであり、「私の正しい訴え」であり、「私は見過ごしにされている」との自己理解でいます。この人に対して、「なぜ、言い張るのか」と御言葉は応じているのでありますが、この言葉には神様の側の苦悩が滲み出ています。
箴言21:2、「人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値打ちをはかられる」とあります。どんなに誠実な人であったとしても、この御言葉に示される限界を、人間は誰しもがもっています。真面目に誠実に歩もうとすればするほどに、人は自分の道を正しいと思うかもしれません。けれども、かなりいい加減な思考の方が自分を正しいと思い込んでいる場合も珍しくありません。人間は本当に、大変弱いものであります。言い張ってしまうわけです。罪を認めることができない、謙虚になれないという弱さであります。
そしてさらに、「若者も疲れ、弛み、若い男も躓き倒れる」とあります。若者とは、力が内側から湧いて仕方がない存在のたとえでありましょう。恐いもの知らずの勇気に満ち溢れて、驚くほどに力強いわけです。常識外れに元気が良いことがあります。これは若者の特権であります。
けれども、その若者もまた、疲れることはある、たゆむことはある、つまずき倒れることがあると、聖書は語っているのであります。これは事柄に対して粘り強くないという弱さであります。意外と脆いという弱さであります。この面でも私たちは決して強くはないのであります。
けれども、イザヤ40:31、「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって昇ることができる。走っても弛まず、歩いても疲れない」のであります。
鷲のように上る、とはどのような光景でありましょうか。
鷲は、日が上り、空気が温まってくると、谷底から谷の入り口付近まで上ってくるのだそうです。そして翼を広げ、遠心力に任せて30分ほど旋回を続けます。そしてある時、舞い上がるのですが、それは瞬時に大空の点になるほどなのだそうです。そのような仕方で、空高く昇るのだそうです。主を待ち望む者は、鷲のように昇る。御言葉はそのようにたとえています。
自分の力で羽ばたくのではありません。上昇気流を上手に捕らえるのであります。昇るためには上昇気流が生まれる朝を待たなければなりません。日が昇ってからも、しばらくは低空を旋回するのであります。そしてその風の流れが生まれて、それを捕らえた時、一気に上るのであります。
主を待ち望む者の祈りは、空高くに舞い上がるための準備を整えている鷲の姿に似ているのでありましょう。
さて、創世記冒頭に戻ります。
混沌とした闇に、神様の「光よ。あれ」の言葉が響いた時、光が生まれます。光が生まれた時、光に対して闇が区別されました。光と闇が区別された状態、光がある状態だと、考えてみたいと思います。反対に、光と闇が混ざった状態を、混沌とした闇だと、考えてみたいと思います。区別された状態が光、混ざった状態が闇であります。
この世のあらゆるものは表裏一体ということでしょうか、光の面と闇の面を同時に持ってしまっています。ですから、混沌とした闇のようであります。たとえば今、大変な問題であります、沖縄は普天間の米軍基地。あれこれと議論は百出しているようでありますが、良い面と悪い面が同居しておりますので、議論は終わることがありません。混沌としています。闇であります。
経済性や便利さと引き換えに、環境破壊もしくは公害さえもが看過される。これもまた光と闇が混ざり合って混沌としているようであります。便利で結構な世の中かもしれませんが、混沌とした闇であります。
では、このような混沌とした闇に、光が生まれ、光と闇が区別されるとはどのようなことでありましょうか。神様の喜ばれることは良いこと、神様が忌み嫌われることは悪いこと、この区別がはっきりつけられることだと、考えてみたいと思います。光と闇が区別されるのであります。良いことと悪いことが同居して混濁するのではなく、良いことは良いこと、悪いことは悪いことと、区別がなされるということであります。
天地創造の物語でありますが、光と闇とが区別されて、そこから物語りは始まりました。神様の創造の御業としての秩序の始まりは、光と闇が区別されることだったのであります。
私たちの個人の人生におきましても、教会ということがらにおきましても、建設的な創造は、光と闇が区別されることが、その土台となるのではないでしょうか。私たちは、自分の中でこの光と闇の区別をつけて、そして光に生きるならば、自分自身としては光の中を歩んでいる、そのような体験を持つことがあるのではないでしょうか。
エペソ5:8、「あなた方は、以前は暗闇でしたが、今は主にあって光となりました。光の子どもらしく歩みなさい」とあり、続く9節には「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです」とあります。
主の御前にあって、良いことと悪いこととの区別を自分のものとして、光と闇とをわけて、光の下を歩むならば、ここから主の創造の御業としての秩序が生まれるでありましょう。教会が立てられるとは、主に救われた私たち一人一人が、光と闇とを区別し、光の下を歩むことによって、成長発展させられるものでありましょう。私たちに光と闇とを区別させるものは、聖霊であります。主が、日々の祈りと御言葉を通して、私たちを通して、教会を立てるのであります。日々の祈りと御言葉の積み重ねは、クリスチャンの命であり、さらには教会の命であります。
壱岐教会の歩みが、これから2年間ほど混沌とした状態が続くならば、祈って光を待ちましょう。祈りと御言葉に深められて、光と闇とを区別し、光の中を歩みましょう。一つ一つの祈りは小さな光であります。この光こそが主の物語の始まりであります。鷲が天空の点になるように、私たちもまた、時が来れば昇ることを信じて感謝したいと思います。そして同時に、祈りに生かされる時、私たちは既に高き天にいるのであります。
祈ります。
(説教 長尾知明牧師)

主日礼拝のご案内

2010-06-04 20:43:38 | 教会紹介
2010年6月6日(日)

主日礼拝 午前10時30分より

     説教 長尾知明牧師

     創世記1章1~3節


はじめての方も、歓迎いたします。
キリスト教、聖書、讃美歌にご興味のある方もお気軽においでください。


郷ノ浦町片原触218   ℡0920-47-0892