今朝は、創世記6-9章、ノアの箱舟の物語をご一緒にお読みしたいと思います。
ノアの時代、世はどのような状況であったか。1節から12節を読みますと、その時代、地は暴虐で満ちていた(6:11)とあります。その意味するところは、強い民族が弱い民族の女性を奪うことに象徴されることと思われます(6:1-4)。
人の歴史の始まりの頃であります。倫理道徳などほとんどないと言って良い時代ではなかったかと思われます。強い者が弱い者から奪うなど、当然のことだったのかもしれません。しかし、この光景に、神様は心を痛められたのでありました。そして、人を地上に造ったことを後悔されたと、聖書は語っています(6節)。
天の父が思われた創造の業は、全ての被造物が、各々造られた目的にしたがって、互いに関係をもって、バランスを保って、平和に共存することを目的としたのではなかったかと思います。造られた天地そのものが神への讃美であります。しかしノアの時代には、神様がその業を後悔されるほどに、世は荒れ果ててしまっていたのでありました。
この時代の中にあって、ノアだけが、神様の御旨にかなって、まったき人であった(6:9)というのは、実に驚くべきことのように思われます。一体どのようにしてノアは本来あるべき神の前にある人としてのあり方を、たった一人、保つことができたのでありましょうか。当時は聖書はなく、また、倫理の模範となる人物もまたいなかった時代であります。
6節にあります、「ノアは神と共に歩んだ」の言葉から、ノアが特別な賜物を持った祈りの人であったであろうことを、想像して良いと思います。
人々は、力に任せて思いを遂げることに何の良心の呵責も感じない。お互いにそういう関係にあった。たとえて言うならば、遠慮していたら食べられてしまうのでありましょう。やってしまった者勝ち。やられる前にやってしまわなければ生き残れない。そのような感覚が正当化されるような世であったかもしれません。
けれども、ノアは、本能的にと申しますか、直感的にと申しましょうか、そのような感覚は良くないことだと感じたのでありましょう。そのような感覚は、互いの関係を良い方向には導かないからであります。
ノアは、持っている力を、むやみに振るわなかったということなのかもしれません。ノアは、弱い者から力づくで奪い取るような真似はしなかったのでありましょう。非常に感覚的に天の父の御旨を悟り、従ったのでありましょう。これは一種の祈りであります。祈りが、ノアをまったき人へと導いたのであります。生ける真の神に祈る祈りを、賜物として与えられていた人として、ノアを覚えたいと思います。
世は、長い者に巻かれ、弱い者にしわを寄せるものであります。表面上の平穏はそのようにして保たれるのであります。それは世にあっては正しいことのようにさえ思われます。今も昔も変わらない、人の群集心理のようなものでありましょう。けれども一面、信仰者の目で見るならば、これこそは世の荒波であります。弱い者がさらに弱いままにされる構造だからです。
祈りの人、ノアは、世にあって孤独であったかもしれません。他の人々の目には無駄に苦労を背負い込むようなところがあったかもしれません。けれどもノアは、決して孤独ではなかったでありましょう。人との関係の中にあっては孤独であったかもしれませんが、神と共に歩むという意味で、ノアは決して孤独ではなかったでありましょう。むしろ、真の平安を、ノアは与えられていたことでありましょう。
文字通りに洪水が起こり、箱舟によって救われる以前から、ノアは祈りという箱舟に乗って、人の世の荒波の渦中にあって、守られていたのであります。それが、ノアがまったき人であったという姿でありましょう。
私たちもまた、今、世にあって、祈るものとなりたいと思います。他の何ものよりも、主イエス・キリストを信じ、生ける真の神と共に歩む、祈りの人となりたいものであります。
主イエス・キリストを信じる信仰は、主と共にある箱舟であります。教会、教会の交わりは箱舟であります。日々の祈りと御言葉は私たち一人一人の箱舟であります。そうして私たちは共に、同じ箱舟に乗っているのであります。
雨は40日40夜降り続けたと聖書は記しています(7:4、12)。水は150日間、増え続けました(7:24)。箱舟に入ってから出るまでの間は丸一年であります。この間、ノアと一つがいずつの動物たちは、閉じ込められた空間の中に過ごすわけでありますが、文字通りに息の詰まる状況であります。
聖書には期間が記されています。けれども、最初から終わりがはっきりと知らされていたわけではありません。終わりの見えないままに閉じ込められた状態は、ノアにとっては大変大きな試みの時ではなかったでしょうか。いつ終わると知れない困難の中にあって、変わらずに平静を保ったノアの祈り、神様への信頼は、篤いものであります。
箱舟の中にある間、助かるのか助からないのか、不安や疑心暗鬼にさいなまれても何の不思議もない状況であります。湿気や臭気など、不快指数は極めて高かったでありましょう。けれども、祈りの人ノアがいることで、箱舟の中にはある種の静けさのようなものもまたあったようにも思われます。いつまでこの雨は降り続くのか、いつ水は引くのか、ここから出られるのか、そのような不安や疑心暗鬼に、動物たちやノアの家族が錯乱した様子は一切ありません。いつ止むとも知れない雨。揺れる箱舟の軋む音。薄暗い空間。しかしその中にある確かな平安。神様の目には、箱舟は、消えることのない平安のともし火のようにして、嵐の中、水の上にあったのであります。
水が次第に引き始め、箱舟から出て乾いた地に足を下ろすまでに、約半年かかっています。烏を放ったり、鳩を放ったりして、確かに乾いた地があるのか、ノアは丁寧に確かめます。この期間の忍耐もまた、それまでとは違った忍耐ではなかったかと思います。
もうそろそろいいのではないかと思われて、そこからさらに待たされる苦痛は、非常に大きいものがあるのではないでしょうか。箱舟の中の一年間の、特にこの後半の部分は、ノアの信仰は、丁寧な作業を伴うものであったことを読むことができると思います。他の人々に流されないで、まったき人であったノアの個性がよく表れた場面ではないでしょうか。
地の上から水は引き、箱舟から出たノアはまず、祭壇を築き、神様に礼拝をささげました(8:20)。そして、神様は虹を契約の徴としてノアに指し示します(9:13-17)。虹は神様の守りの約束を示すものとなりました。聖書は大変古い書物でありますから、神様が直接人に語りかける場面は数多くありますが、この場面から、ノアが虹を通して、神様の御守りを思う、その瑞々(みずみず)しい信仰のあり方を読み取ってみても面白いかと思います。この信仰のあり方は、イエス様にも通じるものであります。
主は、「空の鳥を見なさい」(マタイ6:26)、「野の花を見なさい」(同6:30)と言われました。そして、天の父なる神が、あなたをこの上なく大切に思っておられることがなぜ分からないのかと、人々を強く励ましました。ローマ人への手紙1:20、「神の、目に見えない本姓、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、」とあります。これは使徒パウロの言葉であります。同じことを言っております。
美しい自然を見て、感動を覚えない人はいないでしょう。空に大きくかかる虹のように、スケールの大きな自然はもちろん、空の鳥や野の花といった、いつでも見ることのできる、自然の何気ない姿に、深い感動を感じることもまたできます。そしてここから更に、天地を造られた神様の深い、徹底的な愛を読み取るところに、神の人の言葉は紡がれております。
一人の年輩のご婦人のお話をご紹介いたします。以前の教会でのお話です。
教会から車で1時間少々の場所に住んでおられました。私は月に1回、訪問させていただくようにしておりました。仮の住まいの周辺は、手入れの行き届いた緑豊かな公園などありまして、大変過ごしやすそうな良い場所でありました。
家族で訪問させていただきまして、公園を散歩などいたしました。足元に若干の不安を覚えないではないわけでありますが、ご本人もたまには外を歩きたいということもあるでしょうし、転ばないことをひたすら祈りつつ歩いたのは良い思い出であります。
散歩も終わろうかという時に、その方が私に、「見せたいものがある」と言われました。花が綺麗に咲いている、というのです。せっかくですから、見せていただこうと思いました。案内してくださる足が急に力強くなったように思われ、人間とは面白いものだと思いました。
そして案内された場所は一面緑の土手でありました。「どうです、綺麗でしょう」とおっしゃいます。私は内心、「あれ、花じゃなかったかな」、「緑の土手も悪くはないか」と思いつつ、「お年を召されたということか…」などと不遜なことを考えもしました(内心では)。
けれども、よくよく見て見ましたら、何と見事に花が、それこそ土手一面に咲いておりました。緑色の草の先に、これまた小さな小さな薄紫色の花がびっしりと咲いていたのです。これはなるほど大変美しい光景でありました。この美しい光景を私に見せたいと思ってくださったのかと思い、本当に嬉しく感動した次第です。
その方の、視力そのものは良くなかったはずです。私はどちらかといいますと視力は良いほうです。当時はよかったと思います。けれども、単に視力の問題ではないですね。見える人には見える、見えない人には見えない、そういうことが事実あります。あの土手の小さな小さな花が見える、そして美しいと感動する心に、本当に教えられる思いがいたしました。私たちは一体どれだけのものが“見え”ているのでありましょうか。また、“見えていない”のでありましょうか。
美しい自然に出会ったならば、感動を与えられるだけでなく、天地を造られた神様が、徹底的に私たち一人一人を愛し、守り導いてくださることを悟るまでに受け止めて感謝できるものでありたいと思います。ノアが虹を見たように、主が空の鳥や野の花を見たように、私たちも良い意味で目の開かれた者でありたいと思います。
祈ります。
(牧師 長尾知明)
ノアの時代、世はどのような状況であったか。1節から12節を読みますと、その時代、地は暴虐で満ちていた(6:11)とあります。その意味するところは、強い民族が弱い民族の女性を奪うことに象徴されることと思われます(6:1-4)。
人の歴史の始まりの頃であります。倫理道徳などほとんどないと言って良い時代ではなかったかと思われます。強い者が弱い者から奪うなど、当然のことだったのかもしれません。しかし、この光景に、神様は心を痛められたのでありました。そして、人を地上に造ったことを後悔されたと、聖書は語っています(6節)。
天の父が思われた創造の業は、全ての被造物が、各々造られた目的にしたがって、互いに関係をもって、バランスを保って、平和に共存することを目的としたのではなかったかと思います。造られた天地そのものが神への讃美であります。しかしノアの時代には、神様がその業を後悔されるほどに、世は荒れ果ててしまっていたのでありました。
この時代の中にあって、ノアだけが、神様の御旨にかなって、まったき人であった(6:9)というのは、実に驚くべきことのように思われます。一体どのようにしてノアは本来あるべき神の前にある人としてのあり方を、たった一人、保つことができたのでありましょうか。当時は聖書はなく、また、倫理の模範となる人物もまたいなかった時代であります。
6節にあります、「ノアは神と共に歩んだ」の言葉から、ノアが特別な賜物を持った祈りの人であったであろうことを、想像して良いと思います。
人々は、力に任せて思いを遂げることに何の良心の呵責も感じない。お互いにそういう関係にあった。たとえて言うならば、遠慮していたら食べられてしまうのでありましょう。やってしまった者勝ち。やられる前にやってしまわなければ生き残れない。そのような感覚が正当化されるような世であったかもしれません。
けれども、ノアは、本能的にと申しますか、直感的にと申しましょうか、そのような感覚は良くないことだと感じたのでありましょう。そのような感覚は、互いの関係を良い方向には導かないからであります。
ノアは、持っている力を、むやみに振るわなかったということなのかもしれません。ノアは、弱い者から力づくで奪い取るような真似はしなかったのでありましょう。非常に感覚的に天の父の御旨を悟り、従ったのでありましょう。これは一種の祈りであります。祈りが、ノアをまったき人へと導いたのであります。生ける真の神に祈る祈りを、賜物として与えられていた人として、ノアを覚えたいと思います。
世は、長い者に巻かれ、弱い者にしわを寄せるものであります。表面上の平穏はそのようにして保たれるのであります。それは世にあっては正しいことのようにさえ思われます。今も昔も変わらない、人の群集心理のようなものでありましょう。けれども一面、信仰者の目で見るならば、これこそは世の荒波であります。弱い者がさらに弱いままにされる構造だからです。
祈りの人、ノアは、世にあって孤独であったかもしれません。他の人々の目には無駄に苦労を背負い込むようなところがあったかもしれません。けれどもノアは、決して孤独ではなかったでありましょう。人との関係の中にあっては孤独であったかもしれませんが、神と共に歩むという意味で、ノアは決して孤独ではなかったでありましょう。むしろ、真の平安を、ノアは与えられていたことでありましょう。
文字通りに洪水が起こり、箱舟によって救われる以前から、ノアは祈りという箱舟に乗って、人の世の荒波の渦中にあって、守られていたのであります。それが、ノアがまったき人であったという姿でありましょう。
私たちもまた、今、世にあって、祈るものとなりたいと思います。他の何ものよりも、主イエス・キリストを信じ、生ける真の神と共に歩む、祈りの人となりたいものであります。
主イエス・キリストを信じる信仰は、主と共にある箱舟であります。教会、教会の交わりは箱舟であります。日々の祈りと御言葉は私たち一人一人の箱舟であります。そうして私たちは共に、同じ箱舟に乗っているのであります。
雨は40日40夜降り続けたと聖書は記しています(7:4、12)。水は150日間、増え続けました(7:24)。箱舟に入ってから出るまでの間は丸一年であります。この間、ノアと一つがいずつの動物たちは、閉じ込められた空間の中に過ごすわけでありますが、文字通りに息の詰まる状況であります。
聖書には期間が記されています。けれども、最初から終わりがはっきりと知らされていたわけではありません。終わりの見えないままに閉じ込められた状態は、ノアにとっては大変大きな試みの時ではなかったでしょうか。いつ終わると知れない困難の中にあって、変わらずに平静を保ったノアの祈り、神様への信頼は、篤いものであります。
箱舟の中にある間、助かるのか助からないのか、不安や疑心暗鬼にさいなまれても何の不思議もない状況であります。湿気や臭気など、不快指数は極めて高かったでありましょう。けれども、祈りの人ノアがいることで、箱舟の中にはある種の静けさのようなものもまたあったようにも思われます。いつまでこの雨は降り続くのか、いつ水は引くのか、ここから出られるのか、そのような不安や疑心暗鬼に、動物たちやノアの家族が錯乱した様子は一切ありません。いつ止むとも知れない雨。揺れる箱舟の軋む音。薄暗い空間。しかしその中にある確かな平安。神様の目には、箱舟は、消えることのない平安のともし火のようにして、嵐の中、水の上にあったのであります。
水が次第に引き始め、箱舟から出て乾いた地に足を下ろすまでに、約半年かかっています。烏を放ったり、鳩を放ったりして、確かに乾いた地があるのか、ノアは丁寧に確かめます。この期間の忍耐もまた、それまでとは違った忍耐ではなかったかと思います。
もうそろそろいいのではないかと思われて、そこからさらに待たされる苦痛は、非常に大きいものがあるのではないでしょうか。箱舟の中の一年間の、特にこの後半の部分は、ノアの信仰は、丁寧な作業を伴うものであったことを読むことができると思います。他の人々に流されないで、まったき人であったノアの個性がよく表れた場面ではないでしょうか。
地の上から水は引き、箱舟から出たノアはまず、祭壇を築き、神様に礼拝をささげました(8:20)。そして、神様は虹を契約の徴としてノアに指し示します(9:13-17)。虹は神様の守りの約束を示すものとなりました。聖書は大変古い書物でありますから、神様が直接人に語りかける場面は数多くありますが、この場面から、ノアが虹を通して、神様の御守りを思う、その瑞々(みずみず)しい信仰のあり方を読み取ってみても面白いかと思います。この信仰のあり方は、イエス様にも通じるものであります。
主は、「空の鳥を見なさい」(マタイ6:26)、「野の花を見なさい」(同6:30)と言われました。そして、天の父なる神が、あなたをこの上なく大切に思っておられることがなぜ分からないのかと、人々を強く励ましました。ローマ人への手紙1:20、「神の、目に見えない本姓、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、」とあります。これは使徒パウロの言葉であります。同じことを言っております。
美しい自然を見て、感動を覚えない人はいないでしょう。空に大きくかかる虹のように、スケールの大きな自然はもちろん、空の鳥や野の花といった、いつでも見ることのできる、自然の何気ない姿に、深い感動を感じることもまたできます。そしてここから更に、天地を造られた神様の深い、徹底的な愛を読み取るところに、神の人の言葉は紡がれております。
一人の年輩のご婦人のお話をご紹介いたします。以前の教会でのお話です。
教会から車で1時間少々の場所に住んでおられました。私は月に1回、訪問させていただくようにしておりました。仮の住まいの周辺は、手入れの行き届いた緑豊かな公園などありまして、大変過ごしやすそうな良い場所でありました。
家族で訪問させていただきまして、公園を散歩などいたしました。足元に若干の不安を覚えないではないわけでありますが、ご本人もたまには外を歩きたいということもあるでしょうし、転ばないことをひたすら祈りつつ歩いたのは良い思い出であります。
散歩も終わろうかという時に、その方が私に、「見せたいものがある」と言われました。花が綺麗に咲いている、というのです。せっかくですから、見せていただこうと思いました。案内してくださる足が急に力強くなったように思われ、人間とは面白いものだと思いました。
そして案内された場所は一面緑の土手でありました。「どうです、綺麗でしょう」とおっしゃいます。私は内心、「あれ、花じゃなかったかな」、「緑の土手も悪くはないか」と思いつつ、「お年を召されたということか…」などと不遜なことを考えもしました(内心では)。
けれども、よくよく見て見ましたら、何と見事に花が、それこそ土手一面に咲いておりました。緑色の草の先に、これまた小さな小さな薄紫色の花がびっしりと咲いていたのです。これはなるほど大変美しい光景でありました。この美しい光景を私に見せたいと思ってくださったのかと思い、本当に嬉しく感動した次第です。
その方の、視力そのものは良くなかったはずです。私はどちらかといいますと視力は良いほうです。当時はよかったと思います。けれども、単に視力の問題ではないですね。見える人には見える、見えない人には見えない、そういうことが事実あります。あの土手の小さな小さな花が見える、そして美しいと感動する心に、本当に教えられる思いがいたしました。私たちは一体どれだけのものが“見え”ているのでありましょうか。また、“見えていない”のでありましょうか。
美しい自然に出会ったならば、感動を与えられるだけでなく、天地を造られた神様が、徹底的に私たち一人一人を愛し、守り導いてくださることを悟るまでに受け止めて感謝できるものでありたいと思います。ノアが虹を見たように、主が空の鳥や野の花を見たように、私たちも良い意味で目の開かれた者でありたいと思います。
祈ります。
(牧師 長尾知明)