日本バプテスト連盟 壱岐キリスト教会

玄界灘に浮かぶ壱岐の丘の上にある小さな教会です

2012年10月14日(日)主日礼拝説教

2012-10-14 14:24:23 | 礼拝説教
本日の主日礼拝説教を掲載します。

礼拝は、毎週日曜日 午前10時30分~11時30分です。

※はじめての方も、どなたもおいでください。
 みなさまのお越しをお待ちしています。

2012年10月14日(日)主日礼拝説教
「罪人の身代わりになって下さった方」
マタイによる福音書12:9~14


 先週、イエス様がとても怒られた姿から、父なる神の愛を学びました。それは、空腹を抱える一人に
徹底的に共にあるという神の愛の現れでありました。主の怒りの矛先は、ファリサイ派の人々に向かい
ました。空腹の弟子たちに向かって、杓子定規な律法主義を振りかざし、高ぶっていたからです。この
人たちに対して、主は、あなた方は律法を読んだことがあるのかと、大変挑戦的な言葉を投げました。
 ファリサイ派の人々にとって、「律法を読んだことがありますか」などと言われることは、屈辱、侮
辱です。ファリサイ派の人々は怒り心頭になってしまいました。そして、ファリサイ派の人々は、その
当日か翌週かわかりませんが、そんなに時間が経っていない安息日に、イエス様に対する仕返しを実行
しました。
 それはこのような出来事でした。ある安息日、ある会堂に主が入られます。そこに、片手の不自由な
方がおられました。ファリサイ派の人々は、これはちょうど良いと、このように問いかけたのです。
「安息日に人を癒すことは許されているでしょうか」。もし、イエス様が、安息日に人を癒すことは許
されていると答えるならば、それは安息日に医療行為をしてもよいと言っていることになります。もし、
そう答えたら、イエス様が律法を遵守しない輩であると訴える。反対に、もしイエス様が、安息日に人
を癒すことは許されていないとお答えになるならば、その会堂にいた片手の不自由な人は、大変がっか
りするでしょう。そうなれば、イエス様への人々の信頼は失墜します。なんだ、イエスも所詮はその他
大勢と同じ、自己保身的で、愛がない。律法主義者と何も変わらないではないかと、こういうことにな
ります。ですから、イエス様がどうお答えになるとしても、イエス様をとっちめることができると、フ
ァリサイ派の人々は考えたのです。
イエス様の答えはこうでした。「あなた方のうち、誰かが一匹の羊を持っていて、それが安息日に落ち
たなら、捕まえて引き上げてやらないだろうか。人は羊よりはるかに大切ではないか。だから、安息日
に善を行うことは許されている」(マタイ12:11‐12)。
何かの拍子で羊が井戸に落ちてしまうことが、時々あったのでしょうか。井戸の底のほうで、羊が助け
を求める。メ~メ~と泣いている。「キョウハアンソクニチデスカラ」といって、丸一日ほったらかし
にする人はいないでしょう? それが自分の羊だったら、なおのこと、あなた、間違いなく助けるでし
ょう? イエス様はそう問い返されました。
この問答で、私は強調して覚えるべきことと感じていることがあります。それは、主は、経済上の損失
のことを言っているのではなく、羊の気持ちになって、お話になっているということです。羊も井戸も
だめになってしまったら、困るではないか、もったいないではないか、というのではなくて、うっかり
井戸の底に落ち込んでしまった羊が、どんなに心細い思いでいるか。そう思ったら、いてもたってもい
られないではないか、と言っておられるということです。飼い主目線ではなく、羊の目線に立っておら
れるということです。井戸の底では日中でも星が見えるそうですが、その光景を、イエス様もまた見て
おられるのです。羊が寒い思いでいることを可哀想に思っておられるのです。
このようにたとえられるということが、今日の場面の状況の中でどのような意味を持つでしょうか。そ
れは、片手が不自由な人が、井戸の底に落ちてしまった羊のようである、という意味を読み取ることが
できますでしょう。
この人は、おそらく、ただ神様を礼拝するために、この会堂にいたのではなかったでしょうか。ところ
が、おかしなことになってしまうのです。ファリサイ派の人たちは、自分のことをテーマにして、イエ
スという人をとっちめようとしている。イエスという人に対して、自分はなんのわだかまりもない。け
れども、自分が巻き込まれる形で、しかも自分とは関係のない話が目の前で始まっているのです。これ
はこの人にとって、身の置き場のない状況ではないでしょうか。
いきなり井戸のそこにぽんと放り込まれたようなものです。見上げると、井戸の口の周りで、人々が議
論をしているわけです。「今日、この人を助けるべきか、そうでないのか。今日は安息日であるが、ど
うしたものか」と。そんな議論をしている暇があったら助けてくれよと、実に情けないではありません
か。しかし、議論が決着して解放されるまでは、この人は井戸の底から出てくることもできないのです。
そして誰も自分の気持ちを察してくれているわけでないことだけが確かなのです。
イエス様は、この手の不自由な人に「手を伸ばしなさい」と言われます。そうしますと、この人は手を
伸ばし、その手はもう一方の手のように動くようになりました。イエス様は、井戸の底に落ちた羊を、
その外に出し、ほかの仲間と変わらない姿にして、自由にしてあげたのです。そして同時に、ファリサ
イ派の人たちの憤りを増し加える結果にもなってしまいました。
今日、この場面から、罪について、少し考えてみたいと思います。今日の場面で言えば、ファリサイ派
の人々の光景は、罪の現れといえるでしょう。自分を正しいとし、他人を裁く。見下している。高慢。
傲慢。これらは罪の現れです。今日の場面、この罪に対して、主は一歩も引かずに立ち向かった姿とし
て見ることもできるでしょう。
私もいくらかクリスチャンでない方との接点を持っております。皆様、素晴らしい方々、立派な方々だ
と思います。けれども、教会にある人間関係とは何となく雰囲気は違います。一度は良く考えてみない
ことには、この違いの原因はなかなかつかめないところでありますが、何がどう違うのかといろいろと
考えてみますと、罪の自覚という点は、一つ原因として考えられるのではないかと思います。
クリスチャンは、主イエス・キリストを信じる者でありますが、もう少し進めて言えば、主イエス・キ
リストの十字架の購いを信じてクリスチャンになっております。主が十字架で流された血は、自分の罪
の購いであることを信じて受け入れた人が、クリスチャンです。ですから、クリスチャンは、自分の罪
を認めて悔い改め、しかし、神に赦されていることを知っている、愛されていること、受け入れられて
いることを知っているのです。教会は、この信仰の心を同じくする者の集いです。
クリスチャンが集まる教会、世とは違う雰囲気が生じるのは、この主イエス・キリストの十字架の購い
を自分のこととして受け入れているのかいないのか、という違いだといえるのではないでしょうか。自
分の罪を認める。悔い改める。自分のために十字架にまでかかってくださる方がいることを知っている。
そうして、このことから生まれる、愛、赦し、また、感謝や、喜び、讃美に生かされるのです。主イエ
ス・キリストの十字架によって、この祝福にあずかるのです。
罪の自覚や、赦しの確信がない関係の中で、自分の存在を確かなものにしようとしますと、そつのなさ
などが重要な要件になっているように感じます。そつがない。隙がない。こういうことが評価されるの
です。ですから、与えられている役割に対して、感謝と喜びを持って前進するというよりも、減点され
ないことにより気を配るのです。さて、このこと自体は何も悪いことではないでしょう。
けれども、他人の隙をうかがうような心理が働くことがあるようにも思われます。裁く心理が働きやす
いのです。他人と比べる心理が働きやすい。他人よりも優れていると自覚できたら優越感が生まれるで
しょう。その反対ならば、劣等感が生まれるかもしれません。同じくらいかと思えれば、友達のように
感じられるかもしれません。いずれにしましても、他人との比較の中で自分の存在を確認しているとい
うところが、クリスチャンとの大きな違いです。
クリスチャンは、罪赦され、義とされ、今は神の子とされているので、地上で与えられる役割もまた、
喜びと感謝と讃美の思いを持って、全てを神様にささげる気持ちで、その役割に前進しようとします。
他人との比較ではありません。世の集まりの中では当然ながらそつなく役割を果たすことが求められる
のですし、それは当然すべきことでありますが、与えられている役割をなすことは、他人との関係だけ
でなく、つまりは全てを神様にささげているのです。ですから、ここに感謝がある、讃美がある、喜び
があるのです。
罪の現われは、この、神様に向かう気持ちを忘れ、他人との比較の中から生まれるものです。他人との
比較は、結局は、真の喜びを人にもたらすことはないでしょう。傲慢になるか、劣等感に苦しむか、そ
の間で漂うことができれば比較的平穏なのかもしれませんが、安定しません。本当の安心がありません。
真の喜びは、真の平安は、変わらない神の愛と赦し、この生ける真の神様に出会うところからしか与え
られることはありません。ここに真の救いがあります。
今日の場面で言えば、ファリサイ派の人々は、自分たちを偉い人間だと感じて、優越感を持っていたの
です。主に対しては怒り、手の萎えた人に対しては、この人の人格を丸ごと見過ごすほどに見下してお
りました。自分たちが正しいと思っておりますので、自分たちを怒らせる相手が間違っている、手の萎
えた人の気持ちなど、思いもよらないのです。そして結果、彼らに平安はありません。
ただし、私たちもまたファリサイ派の人々の姿を見て、自分には彼らを裁く資格がないことを、私もま
た神様の前では罪人の一人であることを、忘れてはならないでしょう。
かつては私たちもまた、神様を知りませんでした。他人との比較の中で、一喜一憂しておりました。傲
慢になって他人を見下し、親しい友人にさえも不遜な態度を取ることもありました。劣等感に苛(さい
な)まれれば、いじけて弱音を吐いてみたり、または頑(かたく)なになってみたりしたものでありま
す。
けれども、主に出会い、信じて救われて、他人との比較の波に振り回される必要がない理解へと導かれ
ます時に、真に平安が与えられました。すべてを神様にささげて、感謝と讃美と喜びを持って、与えら
れた役割に勤(いそ)しむことができるようになったのです。それはまるで、萎えていた手が自由に動
くようになり、他の人々の視線を気にしなくても良くなって、すなわち、天地を造られた生ける真の神
様に出会うことによる、真の解放、真の平安を得たのであります。
今日の場面の登場人物になぞらえるならば、片手のなえた人が、まるで自分の姿に思われるようにして、
主の救いにあずかっている喜びを、この姿こそ自分自身であったことを思い出し、今日も神様の救いを
感謝したいと思うのであります。(牧師 長尾知明)