2010年9月26日(日)壱岐教会主日礼拝説教
「異国の地にあって囚われた方々の物語として」
創世記を読み進めてまいりまして、いよいよ最後の場面にさしかかってまいりました。
アブラハム、イサク、ヤコブ、このヤコブは後にイスラエルの名となります。イスラエルには12人の息子が与えられ、この12人の息子は後のイスラエル12部族の先祖となります。12部族の中の一人がヨセフでありまして、このヨセフが創世記の最後の場面を飾る主人公のような立場と言えましょう。
ヨセフの物語をどのように読むか。私は、月に一回、拘置所にある方の面会の時間を与えられておりますが、その方との出会いの中で、非常に大きな祝福をいただいております。聖書の言葉や物語に込められたメッセージが、特別な輝きをもって響いてくる体験を与えられています。このヨセフの物語などは特にその思いを強くさせられるものであります。
旧約聖書は、バビロン捕囚と呼ばれる、イスラエルの国の存亡に関わる国難の時期に、神の民としてのアイデンティティーを支える必要から編纂されてきたという成立上の背景があります。国を追われ、外国で奴隷とされ、労につながれ、家族はばらばらにされ、しかしそれでもなお生ける真の神の民を、一つに保たせた書物が聖書であります。イスラエルが捕囚の民となっていた時、このヨセフの物語がどれほど力になったか、気づかされる思いがいたします。
ヨセフの物語がもつ力に打たれる思いがいたします。共感させられる感情描写は細やかで、そして理屈ぬきに痛快で、喜びがあって、夢があって、元気が出てくるような、そのような力があると思います。捕囚の神の民を、どこまでも勇気づけたのではなかろうかと想像します。
今日は、そのような視点から、ヨセフの物語をたどりつつ、そこに込められたメッセージを聞きたいと思います。
ヨセフは、兄弟たちの恨み妬みを買い込みまして、兄弟たちから捨てられるようにして奴隷として売られてしまいます。父ヤコブに対しては死んだことにされてしまいました。
まだ年も若かった頃のことです。一人外国で生きてゆくことに、ヨセフは大きな不安や寂しさを感じたことでありましょう。
エジプトに連れていかれ、高官ポティファルの家に雇われて働くことになりました。ヨセフの働きは大変優秀でした。あまりに優秀でありましたので、ポティファルは家の財産管理の全てをヨセフに任せてしまうほどでした。そうしますと、ポティファルの家はますます栄えます。
牢屋に入れられたときは、世話役を任せられます。よほど優秀だったのでありましょう。結局、ヨセフはエジプトで首相にまでなってしまうわけですが、国の運営を任されますと、これがまたますます力を増し加えることになります。
捕囚の時のイスラエルの民の多くの者にとって、ほとんど非現実的な話には違いないと思いますが、同胞の中に、歴史の中に、このような人物が一人でもいたという話は、イスラエルの民をどれほど勇気づけ、誇りを保たせたでしょうか。日本人にとってのメジャーリーグのイチロー選手やモンゴルの方々にとっての朝青龍や白鵬などを類似の例にあげることができるかもしれませんが、それらとは比較にならないほどにヨセフの物語はイスラエルの民の心の支えとなったことでありましょう。
ヨセフが受けた理不尽な扱いは、捕囚の人々から共感を持って受け入れられたでありましょう。
ポティファルの妻から恥ずべき濡れ衣を着せられ、投獄されてしまいます。外国の牢獄の不安は深いものがあることでありましょう。また、夢を解き明かしてことで解放されるはずが、うっかり忘れられて2年も待たなければならなかったくだりは、それでもなお忍耐するほかなかった捕囚の人々の心情に重なったことでしょう。
ヨセフの優秀さ、与えられた賜物の一つは、管理運営の面でありました。おそらく、仕事振りは丁寧で間違いがなく、他の人々への配慮も行き届いていたのでありましょう。ヨセフに長を任せると、皆が滞りなく働きやすくなるような、そのようなものだったのではなかったかと思います。また、周囲の人の心を開く、温かな謙虚さなど、人徳の面でも備わっていたのでありましょう。
外国で、一人の働き手として重用されることは、簡単なことではありません。けれども、弛(たゆ)まぬ努力によって、外国という不利な状況の中にあって、認められることもあるでしょう。ヨセフの成功の物語は、誠実に真面目に正直に一所懸命働く勇気を教えています。
ヨセフに与えられた賜物の中で、もう一つのものは、夢を解き明かす力でありました。ヨセフはこの賜物がきっかけでエジプトの首相に用いられることになったのであります。
「夢」ということでありますが、夢は誰にでも与えられているものであります。少年も夢を見ます。老年の方も夢を見ます。牢屋の中でも夢を見ます。囚われた人も夢を見れば、調理官や献酌官も夢を見ました。王も夢を見ました。夢は公平なものであります。また、夢は、物語の中では、神様から語りかけられるメッセージでもあります。神は人に、分け隔てなく語りかけていると、読むことができます。
また、「夢」という言葉は、「希望」や「ビジョン」を指し示すことがあります。外国で牢の中にあっても、夢を見ることはできるのであります。夢を持つことは出来ます。そして夢は、他の誰かから否定されたり、奪い取られる必要のないものであります。どんな夢や希望をもつことも自由であります。ここに限りない喜びがあります。
聖書にも夢があります。聖書の夢は、全ての人が生ける真の神と和解させられ、神との関係が築かれ、神の御旨からくる良心に従い、全ての人が互いに真の愛で結ばれて、完全な平和が地上に完成するという夢であります。現実が、どんなに実現に遠く思われても、この夢が儚(はかな)く消えてなくなってしまうことはないでしょう。クリスチャン一人一人の、皆の、夢でもあるのであります。
ヨセフがエジプトの首相となって後、ヨセフは兄弟たちはじめ家族との再会を果たします。ヨセフが家族と再会するなどとは、望むことさえ思いもしなかった夢でありました。捕囚時のイスラエルの民も、離散することになった家族も多かったに違いありません。再会することは無理と、諦めざるを得ない状況であります。
けれども、ヨセフは家族との再会を果たします。ヨセフの物語にあります家族再会の場面描写は細やかで、いかにもと思わせるものがあります。
兄弟たちが食料を求めてエジプトにやってきます。ヨセフはエジプトの首相として対面します。幼い頃に見た夢が、現実となります。
ヨセフは兄弟たちに対して、いろいろと仕掛けをして試します。愛情のこもった部分もありますし、かつての残酷な仕打ちに対する返礼の一撃のような気持ちを感じさせられる部分もあります。
その中で、ヨセフが兄弟たちを食卓に招く時に、思わず年の順を間違えずに正しく兄弟たちを並べてしまって、兄弟たちに怪訝(けげん)な思いを抱かせる場面は、とてもユーモラスであります。ヨセフは、その時はまだ素性を明かしていないわけですが、ヨセフの内心では喜びがはちきれて隠し切れていない様子を読み取ることができ、実に微笑ましいものであります。
ヨセフが兄弟たちに試みた仕掛けの中で、もっとも厳しいものは、ベニヤミンをエジプトに残して他の兄弟たちだけでカナンにいる父ヤコブのもとに帰るようにと命令したことであります。ヤコブにとって最愛の妻であったラケルの忘れ形見であるヨセフとベニヤミンは、12人の兄弟の中でも格別に大切な2人でありました。ヨセフは獣に食べられて死んでしまったものと思っている父ヤコブにとって、ベニヤミンまでもを失うなどは到底耐えることのできない悲しみであります。
4男のユダが、自分が奴隷となって身代わりになりますから、どうかベニヤミンを父の下に帰らせてくださいと、相手がヨセフとは知らず、必死に懇願します。捨て身の懇願でありました。このユダの姿に相対して、ヨセフはとうとうこらえきれなくなって、涙と共に、兄弟たちに自分だと明かします。
かつては自分の泣き叫ぶ声を聞きながら見捨てた兄弟たちでありました。しかし、今、腹を同じくする弟のために、つまりこの時のヨセフにとっては自分のために、自分を投げ出して救おうとしたユダを見て、ヨセフの積年のわだかまりが、この時すーっと溶けていったのではないでしょうか。この時ヨセフは、兄弟たちを心から赦せる思いになったのではないでしょうか。ヨセフの心は恨めしい苦い思いから解放されたのであります。
この時ヨセフは泣きに泣きます。この涙にはヨセフの生涯の万感の思いが込められています。ヨセフの物語の苦しみや喜びを凝縮して象徴する涙であります。
ヨセフがベニヤミンの首を抱いて泣く。ベニヤミンもまた、ヨセフの首を抱いて泣きます。全ての兄弟たちと抱き合って泣き、語り合います。時が一気に埋まります。一度は散らされて、再び会うことの望みえないはずの兄弟たちが再会したのであります。幼い頃の愛しい気持ちがよみがえっています。
離散された家族にとって、この場面は憧れの思いを持って迎えられたでありましょう。
ヨセフは父ヤコブを迎えるために車を用意させます。エジプトの首相が、カナンの地の一介の羊飼いに車を用意したのであります。大袈裟すぎて、この光景はミスマッチであります。しかし、ヨセフの喜びの大きさを表しており、実に喜ばしく楽しい場面です。
兄弟たちがヤコブに対して、死んだと思っていたヨセフが、今、エジプトの首相となっていると説明するのですが、ヤコブにはその話がなかなか信じられず、きょとんとした表情をしばらく見せます。この場面も微笑ましく、ユーモラスであります。すぐに信じろというほうが無理なところでありましょう…。
話は少し前後しますが、エジプトから、父を迎えるために兄弟たちを送り出すときに、ヨセフは兄弟たちに「途中で言い争わないで下さい」と言います。この時、兄弟皆が笑っているように見えます。ほんの少し辛味の効いた冗談であります。しかし、そのような言葉を楽しめる間柄になっているのであります。本当に心打ち解けあったことがよく伝わってきます。とても素敵な場面であります。
エジプトの、ゴシェンという名の地で、ヨセフは父ヤコブとの再会を果たします。ヨセフは、「父に会うなり、首に抱きつき、首にすがって泣き続けた」と聖書は記します。泣き続けたのであります。止むことがないのではなかろうかと思われるほどに、ヨセフは泣き続けたのであります。この涙にもまたヨセフの万感の思いが込められています。この涙もまた、ヨセフの物語を象徴する涙でありましょう。
ヤコブの一族総勢70名がエジプトにやってきました。ゴシェンという土地は、エジプト人にとってはあまり魅力的な土地ではなかったようですが、羊飼いにとっては最上の地でありました。ヤコブは結局ここで生涯を終えることになります。ヤコブはここでヨセフに念を入れたお願いを一つ、いたします。それは、自分の亡骸(なきがら)を、必ず、カナンの地にもってかえって、先祖の墓に葬るようにとのことでありました。
エジプトが、ゴシェンが、どんなに素晴らしい国であり、素晴らしい環境であり、また、ヤコブは首相の父親家族として厚遇される身であったとしても、また、故郷の地が、今は飢饉で痩せ衰えていたとしても、ヤコブの心は故郷のものだったのであります。
外国に住み、生涯をそこで終えることになっても、心は故郷にある。この思いもまた、外国に散らされた神の民の共通の思いだったのではないでしょうか。主イエス・キリストを信じる者は、天の御国への希望を、重ねて思うところであります。
聖書を読む。神が自分に語られる言葉を聞くようにして読む。そのように聖書を読むことが、普段の信仰生活の中での聖書の読み方でありましょう。けれども、ヨセフの物語を通して、今も外国で労苦している方が世界中に、無数におられることに思いを馳(は)せつつ読むこともまた、ヨセフの物語を読む恵みではないでしょうか。
外国にあって大きな重荷を負うことになっている全ての方の上に、主の格別の御守り御導きが豊かにありますように。
祈りましょう。 (牧師 長尾知明)
「異国の地にあって囚われた方々の物語として」
創世記を読み進めてまいりまして、いよいよ最後の場面にさしかかってまいりました。
アブラハム、イサク、ヤコブ、このヤコブは後にイスラエルの名となります。イスラエルには12人の息子が与えられ、この12人の息子は後のイスラエル12部族の先祖となります。12部族の中の一人がヨセフでありまして、このヨセフが創世記の最後の場面を飾る主人公のような立場と言えましょう。
ヨセフの物語をどのように読むか。私は、月に一回、拘置所にある方の面会の時間を与えられておりますが、その方との出会いの中で、非常に大きな祝福をいただいております。聖書の言葉や物語に込められたメッセージが、特別な輝きをもって響いてくる体験を与えられています。このヨセフの物語などは特にその思いを強くさせられるものであります。
旧約聖書は、バビロン捕囚と呼ばれる、イスラエルの国の存亡に関わる国難の時期に、神の民としてのアイデンティティーを支える必要から編纂されてきたという成立上の背景があります。国を追われ、外国で奴隷とされ、労につながれ、家族はばらばらにされ、しかしそれでもなお生ける真の神の民を、一つに保たせた書物が聖書であります。イスラエルが捕囚の民となっていた時、このヨセフの物語がどれほど力になったか、気づかされる思いがいたします。
ヨセフの物語がもつ力に打たれる思いがいたします。共感させられる感情描写は細やかで、そして理屈ぬきに痛快で、喜びがあって、夢があって、元気が出てくるような、そのような力があると思います。捕囚の神の民を、どこまでも勇気づけたのではなかろうかと想像します。
今日は、そのような視点から、ヨセフの物語をたどりつつ、そこに込められたメッセージを聞きたいと思います。
ヨセフは、兄弟たちの恨み妬みを買い込みまして、兄弟たちから捨てられるようにして奴隷として売られてしまいます。父ヤコブに対しては死んだことにされてしまいました。
まだ年も若かった頃のことです。一人外国で生きてゆくことに、ヨセフは大きな不安や寂しさを感じたことでありましょう。
エジプトに連れていかれ、高官ポティファルの家に雇われて働くことになりました。ヨセフの働きは大変優秀でした。あまりに優秀でありましたので、ポティファルは家の財産管理の全てをヨセフに任せてしまうほどでした。そうしますと、ポティファルの家はますます栄えます。
牢屋に入れられたときは、世話役を任せられます。よほど優秀だったのでありましょう。結局、ヨセフはエジプトで首相にまでなってしまうわけですが、国の運営を任されますと、これがまたますます力を増し加えることになります。
捕囚の時のイスラエルの民の多くの者にとって、ほとんど非現実的な話には違いないと思いますが、同胞の中に、歴史の中に、このような人物が一人でもいたという話は、イスラエルの民をどれほど勇気づけ、誇りを保たせたでしょうか。日本人にとってのメジャーリーグのイチロー選手やモンゴルの方々にとっての朝青龍や白鵬などを類似の例にあげることができるかもしれませんが、それらとは比較にならないほどにヨセフの物語はイスラエルの民の心の支えとなったことでありましょう。
ヨセフが受けた理不尽な扱いは、捕囚の人々から共感を持って受け入れられたでありましょう。
ポティファルの妻から恥ずべき濡れ衣を着せられ、投獄されてしまいます。外国の牢獄の不安は深いものがあることでありましょう。また、夢を解き明かしてことで解放されるはずが、うっかり忘れられて2年も待たなければならなかったくだりは、それでもなお忍耐するほかなかった捕囚の人々の心情に重なったことでしょう。
ヨセフの優秀さ、与えられた賜物の一つは、管理運営の面でありました。おそらく、仕事振りは丁寧で間違いがなく、他の人々への配慮も行き届いていたのでありましょう。ヨセフに長を任せると、皆が滞りなく働きやすくなるような、そのようなものだったのではなかったかと思います。また、周囲の人の心を開く、温かな謙虚さなど、人徳の面でも備わっていたのでありましょう。
外国で、一人の働き手として重用されることは、簡単なことではありません。けれども、弛(たゆ)まぬ努力によって、外国という不利な状況の中にあって、認められることもあるでしょう。ヨセフの成功の物語は、誠実に真面目に正直に一所懸命働く勇気を教えています。
ヨセフに与えられた賜物の中で、もう一つのものは、夢を解き明かす力でありました。ヨセフはこの賜物がきっかけでエジプトの首相に用いられることになったのであります。
「夢」ということでありますが、夢は誰にでも与えられているものであります。少年も夢を見ます。老年の方も夢を見ます。牢屋の中でも夢を見ます。囚われた人も夢を見れば、調理官や献酌官も夢を見ました。王も夢を見ました。夢は公平なものであります。また、夢は、物語の中では、神様から語りかけられるメッセージでもあります。神は人に、分け隔てなく語りかけていると、読むことができます。
また、「夢」という言葉は、「希望」や「ビジョン」を指し示すことがあります。外国で牢の中にあっても、夢を見ることはできるのであります。夢を持つことは出来ます。そして夢は、他の誰かから否定されたり、奪い取られる必要のないものであります。どんな夢や希望をもつことも自由であります。ここに限りない喜びがあります。
聖書にも夢があります。聖書の夢は、全ての人が生ける真の神と和解させられ、神との関係が築かれ、神の御旨からくる良心に従い、全ての人が互いに真の愛で結ばれて、完全な平和が地上に完成するという夢であります。現実が、どんなに実現に遠く思われても、この夢が儚(はかな)く消えてなくなってしまうことはないでしょう。クリスチャン一人一人の、皆の、夢でもあるのであります。
ヨセフがエジプトの首相となって後、ヨセフは兄弟たちはじめ家族との再会を果たします。ヨセフが家族と再会するなどとは、望むことさえ思いもしなかった夢でありました。捕囚時のイスラエルの民も、離散することになった家族も多かったに違いありません。再会することは無理と、諦めざるを得ない状況であります。
けれども、ヨセフは家族との再会を果たします。ヨセフの物語にあります家族再会の場面描写は細やかで、いかにもと思わせるものがあります。
兄弟たちが食料を求めてエジプトにやってきます。ヨセフはエジプトの首相として対面します。幼い頃に見た夢が、現実となります。
ヨセフは兄弟たちに対して、いろいろと仕掛けをして試します。愛情のこもった部分もありますし、かつての残酷な仕打ちに対する返礼の一撃のような気持ちを感じさせられる部分もあります。
その中で、ヨセフが兄弟たちを食卓に招く時に、思わず年の順を間違えずに正しく兄弟たちを並べてしまって、兄弟たちに怪訝(けげん)な思いを抱かせる場面は、とてもユーモラスであります。ヨセフは、その時はまだ素性を明かしていないわけですが、ヨセフの内心では喜びがはちきれて隠し切れていない様子を読み取ることができ、実に微笑ましいものであります。
ヨセフが兄弟たちに試みた仕掛けの中で、もっとも厳しいものは、ベニヤミンをエジプトに残して他の兄弟たちだけでカナンにいる父ヤコブのもとに帰るようにと命令したことであります。ヤコブにとって最愛の妻であったラケルの忘れ形見であるヨセフとベニヤミンは、12人の兄弟の中でも格別に大切な2人でありました。ヨセフは獣に食べられて死んでしまったものと思っている父ヤコブにとって、ベニヤミンまでもを失うなどは到底耐えることのできない悲しみであります。
4男のユダが、自分が奴隷となって身代わりになりますから、どうかベニヤミンを父の下に帰らせてくださいと、相手がヨセフとは知らず、必死に懇願します。捨て身の懇願でありました。このユダの姿に相対して、ヨセフはとうとうこらえきれなくなって、涙と共に、兄弟たちに自分だと明かします。
かつては自分の泣き叫ぶ声を聞きながら見捨てた兄弟たちでありました。しかし、今、腹を同じくする弟のために、つまりこの時のヨセフにとっては自分のために、自分を投げ出して救おうとしたユダを見て、ヨセフの積年のわだかまりが、この時すーっと溶けていったのではないでしょうか。この時ヨセフは、兄弟たちを心から赦せる思いになったのではないでしょうか。ヨセフの心は恨めしい苦い思いから解放されたのであります。
この時ヨセフは泣きに泣きます。この涙にはヨセフの生涯の万感の思いが込められています。ヨセフの物語の苦しみや喜びを凝縮して象徴する涙であります。
ヨセフがベニヤミンの首を抱いて泣く。ベニヤミンもまた、ヨセフの首を抱いて泣きます。全ての兄弟たちと抱き合って泣き、語り合います。時が一気に埋まります。一度は散らされて、再び会うことの望みえないはずの兄弟たちが再会したのであります。幼い頃の愛しい気持ちがよみがえっています。
離散された家族にとって、この場面は憧れの思いを持って迎えられたでありましょう。
ヨセフは父ヤコブを迎えるために車を用意させます。エジプトの首相が、カナンの地の一介の羊飼いに車を用意したのであります。大袈裟すぎて、この光景はミスマッチであります。しかし、ヨセフの喜びの大きさを表しており、実に喜ばしく楽しい場面です。
兄弟たちがヤコブに対して、死んだと思っていたヨセフが、今、エジプトの首相となっていると説明するのですが、ヤコブにはその話がなかなか信じられず、きょとんとした表情をしばらく見せます。この場面も微笑ましく、ユーモラスであります。すぐに信じろというほうが無理なところでありましょう…。
話は少し前後しますが、エジプトから、父を迎えるために兄弟たちを送り出すときに、ヨセフは兄弟たちに「途中で言い争わないで下さい」と言います。この時、兄弟皆が笑っているように見えます。ほんの少し辛味の効いた冗談であります。しかし、そのような言葉を楽しめる間柄になっているのであります。本当に心打ち解けあったことがよく伝わってきます。とても素敵な場面であります。
エジプトの、ゴシェンという名の地で、ヨセフは父ヤコブとの再会を果たします。ヨセフは、「父に会うなり、首に抱きつき、首にすがって泣き続けた」と聖書は記します。泣き続けたのであります。止むことがないのではなかろうかと思われるほどに、ヨセフは泣き続けたのであります。この涙にもまたヨセフの万感の思いが込められています。この涙もまた、ヨセフの物語を象徴する涙でありましょう。
ヤコブの一族総勢70名がエジプトにやってきました。ゴシェンという土地は、エジプト人にとってはあまり魅力的な土地ではなかったようですが、羊飼いにとっては最上の地でありました。ヤコブは結局ここで生涯を終えることになります。ヤコブはここでヨセフに念を入れたお願いを一つ、いたします。それは、自分の亡骸(なきがら)を、必ず、カナンの地にもってかえって、先祖の墓に葬るようにとのことでありました。
エジプトが、ゴシェンが、どんなに素晴らしい国であり、素晴らしい環境であり、また、ヤコブは首相の父親家族として厚遇される身であったとしても、また、故郷の地が、今は飢饉で痩せ衰えていたとしても、ヤコブの心は故郷のものだったのであります。
外国に住み、生涯をそこで終えることになっても、心は故郷にある。この思いもまた、外国に散らされた神の民の共通の思いだったのではないでしょうか。主イエス・キリストを信じる者は、天の御国への希望を、重ねて思うところであります。
聖書を読む。神が自分に語られる言葉を聞くようにして読む。そのように聖書を読むことが、普段の信仰生活の中での聖書の読み方でありましょう。けれども、ヨセフの物語を通して、今も外国で労苦している方が世界中に、無数におられることに思いを馳(は)せつつ読むこともまた、ヨセフの物語を読む恵みではないでしょうか。
外国にあって大きな重荷を負うことになっている全ての方の上に、主の格別の御守り御導きが豊かにありますように。
祈りましょう。 (牧師 長尾知明)