日本バプテスト連盟 壱岐キリスト教会

玄界灘に浮かぶ壱岐の丘の上にある小さな教会です

2013年6月9日(日)主日礼拝説教 「あなたの罪はゆるされています」(ルカ7:36~50)

2013-06-09 14:48:06 | 礼拝説教
2013年6月9日 主日礼拝説教 
「あなたの罪はゆるされています」

ルカ7:36~50



「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイの福音書11章28~30節)イエスさまの言葉です。今日の聖書の箇所に登場する、「罪深い女」と書かれているこの女性は、イエスさまと出会って、またイエスさまの話される言葉にどれほど癒され、救われたのでしょうか。 

 この場面は、マタイによる福音書とマルコによる福音書には、イエスさまに香油を注いだ女の物語として記されています。またヨハネによる福音書には、ラザロの復活の場面に同じような物語が記されています。しかしルカだけは、この物語の焦点を「罪のゆるし」にあてました。そしてあえて「罪深い女」と書いています。この女がどうしてそのように呼ばれていたかは、いくつかの解釈もありますが、そこに特にこだわる必要はないと思います。聖書でいう「罪」とは、現代の私たちの考える一般的な犯罪や悪いことだけではありません。新約聖書のこの時代、ユダヤの律法を守れない人は「罪人」と呼ばれました。ユダヤ人ではない異邦人とよばれる外国人や、病を負っている人たち、人々から嫌われる仕事をしている人たちも「罪人」と呼ばれ、社会の片隅に追い遣られていたのです。しかし、イエスさまははっきりと言われました。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:13)

 ここに登場する「罪深い女」は、パリサイ派のシモンの家に行きイエスさまに会う以前に、すでにイエスさまに出会っていて、しかも「罪をゆるして」いただいています。そのことへの感謝の思いとして、今、この女はイエスさまの姿を見て涙を流し、その涙がイエスさまの足を濡らし、彼女は自分の髪の毛でその足を拭い、さらに持っていた香油(とても高価なものでしょう)で、イエスさまの足に塗ったのです。聖書の時代の食事の仕方は、寝そべるようにして、足を投げだして食事をしたとのことです。椅子に座っていたわけではないのです。ですから、イエスさまの後ろに立っていたこの女が、思わず涙があふれてきて、その涙がイエスさまの足の上に落ちてしまったということはそんなに不自然なことではありません。しかしその後に、彼女がした行為は、周りの人たちをとても驚かせました。一番、驚いたのは、イエスさまを食事に招いた家の主人シモンです。パリサイ人というのは、一種のニックネームであったようで「律法を守る人」、「真面目な人」というニュアンスがあるようです。そのパリサイ人は、イエスさまのお話を聞きたかったのでしょうか。自分の家に招いています。食事を一緒にしようとしています。その食事の席には、何人かの人(おそらく家族だけではなく、パリサイ人の知人)が集っていたことでしょう。また、他の福音書の箇所を参考に考えると、イエスさまの弟子たちも勿論近くにいたはずです。その驚きの場面において、目の前にいるイエスさまとこの女に、シモンはどういう視線を送っていたのでしょうか。
 彼は、心ひそかに思っていました。「この方が、もし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはず。この女は罪深い者なのだから」と。シモンは、パリサイ人ですから、律法をきちんと守り、本当に真面目に生きていたのだと思います。その価値観の中では、「罪人」とよばれる人が自分の家に来て、まして自分が招いたイエスさまに対して、こんなことをしているのは腹立たしいことでした。しかし言葉には出さずに、心の中でひそかに思っていたのです。
 イエスさまは、勿論、彼の心をご存知でした。そして彼に向かって、非常に短いたとえ話をされました。41節のところです。「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは5百デナリ(ある訳では、250万円)、ほかのひとりは50デナリ(50万円)借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。 では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか」シモンは、イエスさまからの質問に対して即答しました。しかもその答えは正解でした。それでも、彼はそのたとえの意味を理解することができなかったのです。
 47節のところで、『この女の多くの罪は赦されている』、それは彼女がよけい愛したから、とあります。ここで言われている愛するということは、「大切にすること、感謝をすること」と理解できるのです。イエスさまを大切にしたい、イエスさまに感謝をしたい、その思いが彼女のその行動となりました。
何があったのかはわかりませんが、彼女は今、「あなたの罪はゆるされています」とみんなの前で言ってもらい、その時から、「罪人」ではなくなったのです。「罪人」とよばれているために、肩身の狭い思いをし続け、顔をあげて町の中を歩けなかったのかもしれないこの人が、そのすべての重荷、心配、苦しみから解放されました。罪のゆるしとは、本来の自分をとりもどすことです。どんなに重荷を負っていたとしても、苦しい、人に言えないような悩みを抱えていたとしても、それはすべて昨日までのことです。今日から新しい人生が始まっていくのです。生まれかわって、堂々と前に進むことができる。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」と復活の主、活ける主、勝利の主が、背後から声援を送ってくださっています。臆することなく、たじろぐことなく、確信をもって歩むことが、できるのです。
 「罪がゆるされています」という言葉は、聖書が書かれた元々のギリシャ語では、完了形で書かれています。この女が、涙でイエスさまの足を濡らし、髪の毛で拭い、足に香油を塗ったから、その行いをしたから「罪がゆるされた」わけではありません。彼女が、イエスさまに出会い、自分の罪を悔い改め、本来の自分を取り戻したいと思って、イエスさまはそれができる神様だと信じたから、彼女は救われたのです。
 
以前に聖書の学びの時間に一度お話したことがありますが、今私が働いている西南学院大学の神学部の教授が定年退職される際に、研究室の片付けをお手伝いしたことがあります。その先生は、ユーモアにあふれているのですが、私に小さな壷のレプリカをくださいました。そのときに「この壷は、あなたが悲しくて涙を流すときに、その涙をためるためのものです。そしていつの日か、イエスさまにお会いしたときにそれでイエスさまの足を洗うのですよ」と言われました。まるで、今日の聖書箇所のような場面を想像しますが、そんなことは聖書に書いてありません。その先生は旧約聖書の先生で、それは冗談とわかりながらも、私は「はい、わかりました」といってその壷をいただきました。この壷を見るたびに、その先生の優しさにみちた言葉を思い出します。泣きたいほど辛いことがあったとしても、その涙は、イエスさまにお会いするために必要なのだと思えるということは、幸いなことです。
 
最近私は、「クリスチャンになりたい」という友達から、バプテスマを受けることについて相談されました。私は、その人に「バプテスマを受ける」ということは、イエスさまの愛に応答することだと思う、とこたえました。今の時代に、実際に、物理的にイエスさまにお会いすることはできないかもしれませんが、私自身のイエスさまへの感謝として、その愛に応答することとしてバプテスマを受けたのだと思っています。私は、小学校5年生で、バプテスマを受けましたので、「罪」の意味も、十字架の意味もわかっていなかったのかもしれません。それでも、イエスさまは私の気持ちを受け取ってくださったのだと信じています。十字架にかけられ、苦しまれたイエスさまの苦しみは、私自身の苦しみであり、まさにそれは私のためであったと。死に打ち勝ち、復活された主は、今も私と共にいてくださる神様であるという信仰を与えられています。
 私も、シモンのように、自分はこの女ほど「罪をおかしてはいない」と人を裁いてしまうようなことがあります。イエスさまは、それこそが罪なのだと教えてくださっています。その罪を悔い改め、またイエスさまを信じていきたいと思います。たとえ、その繰り返しであったとしても、イエスさまは今日また、語りかけてくださっています。「あなたの罪はゆるされています。安心していきなさい」と。 お祈りいたします。
(長尾なつみ 教育担当牧師)

2012年10月14日(日)主日礼拝説教

2012-10-14 14:24:23 | 礼拝説教
本日の主日礼拝説教を掲載します。

礼拝は、毎週日曜日 午前10時30分~11時30分です。

※はじめての方も、どなたもおいでください。
 みなさまのお越しをお待ちしています。

2012年10月14日(日)主日礼拝説教
「罪人の身代わりになって下さった方」
マタイによる福音書12:9~14


 先週、イエス様がとても怒られた姿から、父なる神の愛を学びました。それは、空腹を抱える一人に
徹底的に共にあるという神の愛の現れでありました。主の怒りの矛先は、ファリサイ派の人々に向かい
ました。空腹の弟子たちに向かって、杓子定規な律法主義を振りかざし、高ぶっていたからです。この
人たちに対して、主は、あなた方は律法を読んだことがあるのかと、大変挑戦的な言葉を投げました。
 ファリサイ派の人々にとって、「律法を読んだことがありますか」などと言われることは、屈辱、侮
辱です。ファリサイ派の人々は怒り心頭になってしまいました。そして、ファリサイ派の人々は、その
当日か翌週かわかりませんが、そんなに時間が経っていない安息日に、イエス様に対する仕返しを実行
しました。
 それはこのような出来事でした。ある安息日、ある会堂に主が入られます。そこに、片手の不自由な
方がおられました。ファリサイ派の人々は、これはちょうど良いと、このように問いかけたのです。
「安息日に人を癒すことは許されているでしょうか」。もし、イエス様が、安息日に人を癒すことは許
されていると答えるならば、それは安息日に医療行為をしてもよいと言っていることになります。もし、
そう答えたら、イエス様が律法を遵守しない輩であると訴える。反対に、もしイエス様が、安息日に人
を癒すことは許されていないとお答えになるならば、その会堂にいた片手の不自由な人は、大変がっか
りするでしょう。そうなれば、イエス様への人々の信頼は失墜します。なんだ、イエスも所詮はその他
大勢と同じ、自己保身的で、愛がない。律法主義者と何も変わらないではないかと、こういうことにな
ります。ですから、イエス様がどうお答えになるとしても、イエス様をとっちめることができると、フ
ァリサイ派の人々は考えたのです。
イエス様の答えはこうでした。「あなた方のうち、誰かが一匹の羊を持っていて、それが安息日に落ち
たなら、捕まえて引き上げてやらないだろうか。人は羊よりはるかに大切ではないか。だから、安息日
に善を行うことは許されている」(マタイ12:11‐12)。
何かの拍子で羊が井戸に落ちてしまうことが、時々あったのでしょうか。井戸の底のほうで、羊が助け
を求める。メ~メ~と泣いている。「キョウハアンソクニチデスカラ」といって、丸一日ほったらかし
にする人はいないでしょう? それが自分の羊だったら、なおのこと、あなた、間違いなく助けるでし
ょう? イエス様はそう問い返されました。
この問答で、私は強調して覚えるべきことと感じていることがあります。それは、主は、経済上の損失
のことを言っているのではなく、羊の気持ちになって、お話になっているということです。羊も井戸も
だめになってしまったら、困るではないか、もったいないではないか、というのではなくて、うっかり
井戸の底に落ち込んでしまった羊が、どんなに心細い思いでいるか。そう思ったら、いてもたってもい
られないではないか、と言っておられるということです。飼い主目線ではなく、羊の目線に立っておら
れるということです。井戸の底では日中でも星が見えるそうですが、その光景を、イエス様もまた見て
おられるのです。羊が寒い思いでいることを可哀想に思っておられるのです。
このようにたとえられるということが、今日の場面の状況の中でどのような意味を持つでしょうか。そ
れは、片手が不自由な人が、井戸の底に落ちてしまった羊のようである、という意味を読み取ることが
できますでしょう。
この人は、おそらく、ただ神様を礼拝するために、この会堂にいたのではなかったでしょうか。ところ
が、おかしなことになってしまうのです。ファリサイ派の人たちは、自分のことをテーマにして、イエ
スという人をとっちめようとしている。イエスという人に対して、自分はなんのわだかまりもない。け
れども、自分が巻き込まれる形で、しかも自分とは関係のない話が目の前で始まっているのです。これ
はこの人にとって、身の置き場のない状況ではないでしょうか。
いきなり井戸のそこにぽんと放り込まれたようなものです。見上げると、井戸の口の周りで、人々が議
論をしているわけです。「今日、この人を助けるべきか、そうでないのか。今日は安息日であるが、ど
うしたものか」と。そんな議論をしている暇があったら助けてくれよと、実に情けないではありません
か。しかし、議論が決着して解放されるまでは、この人は井戸の底から出てくることもできないのです。
そして誰も自分の気持ちを察してくれているわけでないことだけが確かなのです。
イエス様は、この手の不自由な人に「手を伸ばしなさい」と言われます。そうしますと、この人は手を
伸ばし、その手はもう一方の手のように動くようになりました。イエス様は、井戸の底に落ちた羊を、
その外に出し、ほかの仲間と変わらない姿にして、自由にしてあげたのです。そして同時に、ファリサ
イ派の人たちの憤りを増し加える結果にもなってしまいました。
今日、この場面から、罪について、少し考えてみたいと思います。今日の場面で言えば、ファリサイ派
の人々の光景は、罪の現れといえるでしょう。自分を正しいとし、他人を裁く。見下している。高慢。
傲慢。これらは罪の現れです。今日の場面、この罪に対して、主は一歩も引かずに立ち向かった姿とし
て見ることもできるでしょう。
私もいくらかクリスチャンでない方との接点を持っております。皆様、素晴らしい方々、立派な方々だ
と思います。けれども、教会にある人間関係とは何となく雰囲気は違います。一度は良く考えてみない
ことには、この違いの原因はなかなかつかめないところでありますが、何がどう違うのかといろいろと
考えてみますと、罪の自覚という点は、一つ原因として考えられるのではないかと思います。
クリスチャンは、主イエス・キリストを信じる者でありますが、もう少し進めて言えば、主イエス・キ
リストの十字架の購いを信じてクリスチャンになっております。主が十字架で流された血は、自分の罪
の購いであることを信じて受け入れた人が、クリスチャンです。ですから、クリスチャンは、自分の罪
を認めて悔い改め、しかし、神に赦されていることを知っている、愛されていること、受け入れられて
いることを知っているのです。教会は、この信仰の心を同じくする者の集いです。
クリスチャンが集まる教会、世とは違う雰囲気が生じるのは、この主イエス・キリストの十字架の購い
を自分のこととして受け入れているのかいないのか、という違いだといえるのではないでしょうか。自
分の罪を認める。悔い改める。自分のために十字架にまでかかってくださる方がいることを知っている。
そうして、このことから生まれる、愛、赦し、また、感謝や、喜び、讃美に生かされるのです。主イエ
ス・キリストの十字架によって、この祝福にあずかるのです。
罪の自覚や、赦しの確信がない関係の中で、自分の存在を確かなものにしようとしますと、そつのなさ
などが重要な要件になっているように感じます。そつがない。隙がない。こういうことが評価されるの
です。ですから、与えられている役割に対して、感謝と喜びを持って前進するというよりも、減点され
ないことにより気を配るのです。さて、このこと自体は何も悪いことではないでしょう。
けれども、他人の隙をうかがうような心理が働くことがあるようにも思われます。裁く心理が働きやす
いのです。他人と比べる心理が働きやすい。他人よりも優れていると自覚できたら優越感が生まれるで
しょう。その反対ならば、劣等感が生まれるかもしれません。同じくらいかと思えれば、友達のように
感じられるかもしれません。いずれにしましても、他人との比較の中で自分の存在を確認しているとい
うところが、クリスチャンとの大きな違いです。
クリスチャンは、罪赦され、義とされ、今は神の子とされているので、地上で与えられる役割もまた、
喜びと感謝と讃美の思いを持って、全てを神様にささげる気持ちで、その役割に前進しようとします。
他人との比較ではありません。世の集まりの中では当然ながらそつなく役割を果たすことが求められる
のですし、それは当然すべきことでありますが、与えられている役割をなすことは、他人との関係だけ
でなく、つまりは全てを神様にささげているのです。ですから、ここに感謝がある、讃美がある、喜び
があるのです。
罪の現われは、この、神様に向かう気持ちを忘れ、他人との比較の中から生まれるものです。他人との
比較は、結局は、真の喜びを人にもたらすことはないでしょう。傲慢になるか、劣等感に苦しむか、そ
の間で漂うことができれば比較的平穏なのかもしれませんが、安定しません。本当の安心がありません。
真の喜びは、真の平安は、変わらない神の愛と赦し、この生ける真の神様に出会うところからしか与え
られることはありません。ここに真の救いがあります。
今日の場面で言えば、ファリサイ派の人々は、自分たちを偉い人間だと感じて、優越感を持っていたの
です。主に対しては怒り、手の萎えた人に対しては、この人の人格を丸ごと見過ごすほどに見下してお
りました。自分たちが正しいと思っておりますので、自分たちを怒らせる相手が間違っている、手の萎
えた人の気持ちなど、思いもよらないのです。そして結果、彼らに平安はありません。
ただし、私たちもまたファリサイ派の人々の姿を見て、自分には彼らを裁く資格がないことを、私もま
た神様の前では罪人の一人であることを、忘れてはならないでしょう。
かつては私たちもまた、神様を知りませんでした。他人との比較の中で、一喜一憂しておりました。傲
慢になって他人を見下し、親しい友人にさえも不遜な態度を取ることもありました。劣等感に苛(さい
な)まれれば、いじけて弱音を吐いてみたり、または頑(かたく)なになってみたりしたものでありま
す。
けれども、主に出会い、信じて救われて、他人との比較の波に振り回される必要がない理解へと導かれ
ます時に、真に平安が与えられました。すべてを神様にささげて、感謝と讃美と喜びを持って、与えら
れた役割に勤(いそ)しむことができるようになったのです。それはまるで、萎えていた手が自由に動
くようになり、他の人々の視線を気にしなくても良くなって、すなわち、天地を造られた生ける真の神
様に出会うことによる、真の解放、真の平安を得たのであります。
今日の場面の登場人物になぞらえるならば、片手のなえた人が、まるで自分の姿に思われるようにして、
主の救いにあずかっている喜びを、この姿こそ自分自身であったことを思い出し、今日も神様の救いを
感謝したいと思うのであります。(牧師 長尾知明)

明日は日曜日 日曜日は教会へ 主日礼拝説教要約

2011-06-18 20:00:00 | 礼拝説教
6月12日(日)主日礼拝説教要約 
「大切なことは神様との関係である」 長尾知明 牧師


キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。
(エペソ4: 16)


 「からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、」建てられるとあります。ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者、全被造物、教会…あらゆる関係性の中で適用できる御言葉であります。
 神の作品として造られた被造物の一つ一つが、かけがえのないものです。互いが互いにの必要に応える存在であり、その造られた目的に従って生き、生かされる時、存在の喜びがあります。
 人間に適用して考えてみましょう。私たちは造られた目的に従って生き、また生かされているでしょうか。私たちは時に自分を見失うことがあります。自分の生きる意味、存在価値、何かの役に立っている感じなどなど。どうしたら良いのか、分からなくなることが誰にでもあると思うのです。けれども、そのような時こそ、静まって祈り、神の御手によって存在させられていることそのもののかけがえのない価値、喜びを思い出したいものです。

 今日の箇所で、「備えられたあらゆる結び目」、「しっかりと組み合わされ」「結び合わされ」というようにつなぎ合わされる意味合いの言葉が繰り返されています。特に強調されているメッセージでしょう。
 一つ一つの部分を人間にたとえるならば、つなぎ合わされることは人間関係の部分にあたります。一人一人は、かけがえもなく尊いものです。しかし、人間関係といいますと、私たちは絶えず難しさや困難を感じる課題ではないでしょうか。立場が違えば感じ方が違い、主張が対立するのは当然です。
 けれども、御言葉は「備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ」と語っています。今日の箇所の「キリストによって」は、罪赦されて父なる神と一つとなることを、その言葉の中に意味されていると、聞くことができるのではないでしょうか。
 人間関係が、本当に良いものであるためには、一人一人が父なる神の御旨に沿うことを第一とするとき以外にはあり得ません。神の国と神の義を第一とするようにとの主の御言葉がありますが、それ以外に、私たち人間同士の関係性が本当に整えられることはないのです。

 「成長して、愛のうちに建てられるのです。」とあります。キリストによって救われて、父なる神の子ら、兄弟姉妹となった一人一人が、今度はさらに結び合わされて、しかも、しっかりと組み合わされ、結び合わされて、からだ全体は建てられることになります。組み合わされる、結び合わされる、との御言葉が、人間関係にたとえられると理解されつつも、本当に大切なことは神様との関係であることが教えられるところです。被造物、一人一人がかけがえのないことを他の関係性から考えましたが、本当に大切なことは、神の御旨によって造られたということ、つまり神様との関係に、その根拠があることを教えられる思いがします。
 十字架の主に現された神の愛こそは、全体を一つにさせ、愛のうちに成長させる、この建物の設計図の主旨であります。私たちは父御子御霊の神を心から信じ、主の十字架に現された、神の愛と赦しに従って今週も歩んで参りましょう。

日曜日は教会へ 主日礼拝説教要約

2011-06-18 16:33:58 | 礼拝説教
6月5日(日)主日礼拝説教要約
「成熟した信仰者として歩む」 長尾知明 牧師


 それは、私たちが子どもではなくて、人の悪巧(だく)みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
(エペソ4: 14-15)

 
 初代教会時代、ユダヤ人キリスト者は異邦人キリスト者に律法と割礼を求めていました。信仰に入るには律法と割礼が主を信じる前の段階で必要、とする考え方は自然な感覚に違いなかったと思われます。ところが、その論理はユダヤ人キリスト者に圧倒的に優位な立場に立たせるもので、両者の間に隔ての壁を築き上げる論理でした。
 この主張に異邦人伝道に召されたパウロが異を唱えます。律法や割礼は主イエス・キリストを信じる信仰に必要な条件ではない、と主張するのです。今日の御言葉が「人の悪巧み」や「人を欺く悪賢い策略」などと語るその意味は、ユダヤ人キリスト者が異邦人キリスト者に対して、絶えず優位な立場にあり続けようとする、その内心の気持ちを指しているように思われます。当時全く正当な主張に思われる論理に、「吹き回されたり」「もてあそばれたり」することを御言葉は「子ども」にたとえています。

 私たちの今日の世においても、世の論理がまことしやかに語られています。その基本となるものは、地位と名誉と財産に価値がある、という座標軸によって築かれる論理です。誰もが、この類の論理、常識などと呼ばれる考え方にまで世の論理は食い込んでいます。クリスチャンもこの世の感覚の波にいくばくかの感化を受けざるを得ません。「子ども」のようであってはならない、と語る御言葉に、いよいよ深く耳を傾けたいと思うのです。
 御言葉の指し示す「子ども」の反対にあるところの「おとな」の有り様を考えてみましょう。それは「愛をもって真理を語る」ことであります。「真理」との御言葉をどのように聞くべきでしょうか。聖書の創造の物語に「真理」の根拠を求めたいと思います。被造物は、その造られた目的に従って生きる、互いに関連づけられているという意味では、互いに造られた目的に従って生かされるとき、被造物はいわば幸せなのです。人間一人一人も各人から与えられた神からの賜物に沿って生き、生かされているとき、幸せであります。地位や名誉や財産は、その幸せと関係はありません。神の御心にかなう歩みを自分の喜びとして歩むことが、御言葉の語る「おとな」です。

 「あらゆる点において成長し」を、世にあっても教会の中においても一貫した信仰者の有り様、「おとな」であるように、と聞きたいと思います。教会の中と外では別の顔、ではクリスチャンの在り方ではありません。その先には「頭なるキリストに達することができるため」とあります。キリストに達するとは恐れ多いことではありますが、私たちはキリストを見上げつつ歩むように召されているのです。私たちは「おとな」であることへ召されています。

9月26日(日)礼拝説教です 

2010-09-29 13:15:10 | 礼拝説教
2010年9月26日(日)壱岐教会主日礼拝説教 

「異国の地にあって囚われた方々の物語として」

 創世記を読み進めてまいりまして、いよいよ最後の場面にさしかかってまいりました。
アブラハム、イサク、ヤコブ、このヤコブは後にイスラエルの名となります。イスラエルには12人の息子が与えられ、この12人の息子は後のイスラエル12部族の先祖となります。12部族の中の一人がヨセフでありまして、このヨセフが創世記の最後の場面を飾る主人公のような立場と言えましょう。

ヨセフの物語をどのように読むか。私は、月に一回、拘置所にある方の面会の時間を与えられておりますが、その方との出会いの中で、非常に大きな祝福をいただいております。聖書の言葉や物語に込められたメッセージが、特別な輝きをもって響いてくる体験を与えられています。このヨセフの物語などは特にその思いを強くさせられるものであります。
旧約聖書は、バビロン捕囚と呼ばれる、イスラエルの国の存亡に関わる国難の時期に、神の民としてのアイデンティティーを支える必要から編纂されてきたという成立上の背景があります。国を追われ、外国で奴隷とされ、労につながれ、家族はばらばらにされ、しかしそれでもなお生ける真の神の民を、一つに保たせた書物が聖書であります。イスラエルが捕囚の民となっていた時、このヨセフの物語がどれほど力になったか、気づかされる思いがいたします。
ヨセフの物語がもつ力に打たれる思いがいたします。共感させられる感情描写は細やかで、そして理屈ぬきに痛快で、喜びがあって、夢があって、元気が出てくるような、そのような力があると思います。捕囚の神の民を、どこまでも勇気づけたのではなかろうかと想像します。
今日は、そのような視点から、ヨセフの物語をたどりつつ、そこに込められたメッセージを聞きたいと思います。

ヨセフは、兄弟たちの恨み妬みを買い込みまして、兄弟たちから捨てられるようにして奴隷として売られてしまいます。父ヤコブに対しては死んだことにされてしまいました。
まだ年も若かった頃のことです。一人外国で生きてゆくことに、ヨセフは大きな不安や寂しさを感じたことでありましょう。

エジプトに連れていかれ、高官ポティファルの家に雇われて働くことになりました。ヨセフの働きは大変優秀でした。あまりに優秀でありましたので、ポティファルは家の財産管理の全てをヨセフに任せてしまうほどでした。そうしますと、ポティファルの家はますます栄えます。
牢屋に入れられたときは、世話役を任せられます。よほど優秀だったのでありましょう。結局、ヨセフはエジプトで首相にまでなってしまうわけですが、国の運営を任されますと、これがまたますます力を増し加えることになります。
捕囚の時のイスラエルの民の多くの者にとって、ほとんど非現実的な話には違いないと思いますが、同胞の中に、歴史の中に、このような人物が一人でもいたという話は、イスラエルの民をどれほど勇気づけ、誇りを保たせたでしょうか。日本人にとってのメジャーリーグのイチロー選手やモンゴルの方々にとっての朝青龍や白鵬などを類似の例にあげることができるかもしれませんが、それらとは比較にならないほどにヨセフの物語はイスラエルの民の心の支えとなったことでありましょう。

ヨセフが受けた理不尽な扱いは、捕囚の人々から共感を持って受け入れられたでありましょう。
ポティファルの妻から恥ずべき濡れ衣を着せられ、投獄されてしまいます。外国の牢獄の不安は深いものがあることでありましょう。また、夢を解き明かしてことで解放されるはずが、うっかり忘れられて2年も待たなければならなかったくだりは、それでもなお忍耐するほかなかった捕囚の人々の心情に重なったことでしょう。

ヨセフの優秀さ、与えられた賜物の一つは、管理運営の面でありました。おそらく、仕事振りは丁寧で間違いがなく、他の人々への配慮も行き届いていたのでありましょう。ヨセフに長を任せると、皆が滞りなく働きやすくなるような、そのようなものだったのではなかったかと思います。また、周囲の人の心を開く、温かな謙虚さなど、人徳の面でも備わっていたのでありましょう。
外国で、一人の働き手として重用されることは、簡単なことではありません。けれども、弛(たゆ)まぬ努力によって、外国という不利な状況の中にあって、認められることもあるでしょう。ヨセフの成功の物語は、誠実に真面目に正直に一所懸命働く勇気を教えています。

ヨセフに与えられた賜物の中で、もう一つのものは、夢を解き明かす力でありました。ヨセフはこの賜物がきっかけでエジプトの首相に用いられることになったのであります。
「夢」ということでありますが、夢は誰にでも与えられているものであります。少年も夢を見ます。老年の方も夢を見ます。牢屋の中でも夢を見ます。囚われた人も夢を見れば、調理官や献酌官も夢を見ました。王も夢を見ました。夢は公平なものであります。また、夢は、物語の中では、神様から語りかけられるメッセージでもあります。神は人に、分け隔てなく語りかけていると、読むことができます。
また、「夢」という言葉は、「希望」や「ビジョン」を指し示すことがあります。外国で牢の中にあっても、夢を見ることはできるのであります。夢を持つことは出来ます。そして夢は、他の誰かから否定されたり、奪い取られる必要のないものであります。どんな夢や希望をもつことも自由であります。ここに限りない喜びがあります。
聖書にも夢があります。聖書の夢は、全ての人が生ける真の神と和解させられ、神との関係が築かれ、神の御旨からくる良心に従い、全ての人が互いに真の愛で結ばれて、完全な平和が地上に完成するという夢であります。現実が、どんなに実現に遠く思われても、この夢が儚(はかな)く消えてなくなってしまうことはないでしょう。クリスチャン一人一人の、皆の、夢でもあるのであります。

ヨセフがエジプトの首相となって後、ヨセフは兄弟たちはじめ家族との再会を果たします。ヨセフが家族と再会するなどとは、望むことさえ思いもしなかった夢でありました。捕囚時のイスラエルの民も、離散することになった家族も多かったに違いありません。再会することは無理と、諦めざるを得ない状況であります。
けれども、ヨセフは家族との再会を果たします。ヨセフの物語にあります家族再会の場面描写は細やかで、いかにもと思わせるものがあります。

兄弟たちが食料を求めてエジプトにやってきます。ヨセフはエジプトの首相として対面します。幼い頃に見た夢が、現実となります。
ヨセフは兄弟たちに対して、いろいろと仕掛けをして試します。愛情のこもった部分もありますし、かつての残酷な仕打ちに対する返礼の一撃のような気持ちを感じさせられる部分もあります。
その中で、ヨセフが兄弟たちを食卓に招く時に、思わず年の順を間違えずに正しく兄弟たちを並べてしまって、兄弟たちに怪訝(けげん)な思いを抱かせる場面は、とてもユーモラスであります。ヨセフは、その時はまだ素性を明かしていないわけですが、ヨセフの内心では喜びがはちきれて隠し切れていない様子を読み取ることができ、実に微笑ましいものであります。

ヨセフが兄弟たちに試みた仕掛けの中で、もっとも厳しいものは、ベニヤミンをエジプトに残して他の兄弟たちだけでカナンにいる父ヤコブのもとに帰るようにと命令したことであります。ヤコブにとって最愛の妻であったラケルの忘れ形見であるヨセフとベニヤミンは、12人の兄弟の中でも格別に大切な2人でありました。ヨセフは獣に食べられて死んでしまったものと思っている父ヤコブにとって、ベニヤミンまでもを失うなどは到底耐えることのできない悲しみであります。
4男のユダが、自分が奴隷となって身代わりになりますから、どうかベニヤミンを父の下に帰らせてくださいと、相手がヨセフとは知らず、必死に懇願します。捨て身の懇願でありました。このユダの姿に相対して、ヨセフはとうとうこらえきれなくなって、涙と共に、兄弟たちに自分だと明かします。
かつては自分の泣き叫ぶ声を聞きながら見捨てた兄弟たちでありました。しかし、今、腹を同じくする弟のために、つまりこの時のヨセフにとっては自分のために、自分を投げ出して救おうとしたユダを見て、ヨセフの積年のわだかまりが、この時すーっと溶けていったのではないでしょうか。この時ヨセフは、兄弟たちを心から赦せる思いになったのではないでしょうか。ヨセフの心は恨めしい苦い思いから解放されたのであります。
この時ヨセフは泣きに泣きます。この涙にはヨセフの生涯の万感の思いが込められています。ヨセフの物語の苦しみや喜びを凝縮して象徴する涙であります。

ヨセフがベニヤミンの首を抱いて泣く。ベニヤミンもまた、ヨセフの首を抱いて泣きます。全ての兄弟たちと抱き合って泣き、語り合います。時が一気に埋まります。一度は散らされて、再び会うことの望みえないはずの兄弟たちが再会したのであります。幼い頃の愛しい気持ちがよみがえっています。
離散された家族にとって、この場面は憧れの思いを持って迎えられたでありましょう。

ヨセフは父ヤコブを迎えるために車を用意させます。エジプトの首相が、カナンの地の一介の羊飼いに車を用意したのであります。大袈裟すぎて、この光景はミスマッチであります。しかし、ヨセフの喜びの大きさを表しており、実に喜ばしく楽しい場面です。
兄弟たちがヤコブに対して、死んだと思っていたヨセフが、今、エジプトの首相となっていると説明するのですが、ヤコブにはその話がなかなか信じられず、きょとんとした表情をしばらく見せます。この場面も微笑ましく、ユーモラスであります。すぐに信じろというほうが無理なところでありましょう…。

話は少し前後しますが、エジプトから、父を迎えるために兄弟たちを送り出すときに、ヨセフは兄弟たちに「途中で言い争わないで下さい」と言います。この時、兄弟皆が笑っているように見えます。ほんの少し辛味の効いた冗談であります。しかし、そのような言葉を楽しめる間柄になっているのであります。本当に心打ち解けあったことがよく伝わってきます。とても素敵な場面であります。

エジプトの、ゴシェンという名の地で、ヨセフは父ヤコブとの再会を果たします。ヨセフは、「父に会うなり、首に抱きつき、首にすがって泣き続けた」と聖書は記します。泣き続けたのであります。止むことがないのではなかろうかと思われるほどに、ヨセフは泣き続けたのであります。この涙にもまたヨセフの万感の思いが込められています。この涙もまた、ヨセフの物語を象徴する涙でありましょう。

ヤコブの一族総勢70名がエジプトにやってきました。ゴシェンという土地は、エジプト人にとってはあまり魅力的な土地ではなかったようですが、羊飼いにとっては最上の地でありました。ヤコブは結局ここで生涯を終えることになります。ヤコブはここでヨセフに念を入れたお願いを一つ、いたします。それは、自分の亡骸(なきがら)を、必ず、カナンの地にもってかえって、先祖の墓に葬るようにとのことでありました。
エジプトが、ゴシェンが、どんなに素晴らしい国であり、素晴らしい環境であり、また、ヤコブは首相の父親家族として厚遇される身であったとしても、また、故郷の地が、今は飢饉で痩せ衰えていたとしても、ヤコブの心は故郷のものだったのであります。
外国に住み、生涯をそこで終えることになっても、心は故郷にある。この思いもまた、外国に散らされた神の民の共通の思いだったのではないでしょうか。主イエス・キリストを信じる者は、天の御国への希望を、重ねて思うところであります。

聖書を読む。神が自分に語られる言葉を聞くようにして読む。そのように聖書を読むことが、普段の信仰生活の中での聖書の読み方でありましょう。けれども、ヨセフの物語を通して、今も外国で労苦している方が世界中に、無数におられることに思いを馳(は)せつつ読むこともまた、ヨセフの物語を読む恵みではないでしょうか。
外国にあって大きな重荷を負うことになっている全ての方の上に、主の格別の御守り御導きが豊かにありますように。
祈りましょう。                         (牧師 長尾知明)