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2007.1.19 鎌倉鶴岡八幡宮牡丹園の冬牡丹。1.5秒間隔で10枚、代わりながらの画面上の散歩です。
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2007.1.10 武田信玄の墓(信玄公の菩提寺.)マウスオン。
山梨県指定史跡 武田晴信(信玄)の墓:信玄公は大永1年(1521)11月3日、信虎の嫡男として甲府・積翠寺の要害城に生まれ、幼名を太郎といい、長じて元服のとき、将軍足利義晴より一字を賜って晴信と名乗った。のち入道して信玄と号し、また法性院、徳栄軒とも号した。 信玄公は青年時代から詩歌に長じ、とくに寸暇を惜しんで宗派を問わず知識、英衲とうたわれた名僧、高僧に私淑し、五山派文学をはじめ、中国古代の兵法家孫子の兵法などにも熟通、とくに臨済禅の奥義を極め、これによって得た心機、修養を軍略外交、内政面に応用した。信玄が戦国期における武将、軍略家であったと同時に、すぐれた民政家であったというのもこうした青年時代の努力があったからなのである。 天文10年(1541)6月14日、信玄公は父・信虎を駿河・今川義元のもとに追放し、信虎の戦費調達による重税に苦しむ甲斐国内に起こりかかった反乱を、父親追放という大きな代償を払うことにより未然に防いだのである。このため長い間、諸国の武将から“最大の親不孝者”というそしりを受けながらも「大儀親をも滅す」の故事を理解する多くの優れた武将たちに励まされ、国力を強め、領民の生活安定、民心の収攬につとめた。(信玄公宝物館資料より) |