伊方原発の廃炉のために

2006年から「伊方原発のプルサーマル問題」として続けてきましたが、伊方原発の廃炉のために、に15年に改名しました。

東海村臨界事故から学ぶこと

2006-01-07 03:59:39 | 関係資料
 前回の読書の続きです。
---引用
 これまで東海村臨界事故へ至る道を三つの主たる要因を切り口にして見てきた。概略すれば、
①JCO転換試験棟改造時の安全構築の失敗
②動燃の発注の混乱とJCOの工程の逸脱
③JCOの組織としての安全管理体制の崩壊、であった。
 それは別の言い方をすると、事業者、発注者(パートナー)、国という、臨界が起こらないように力を合せて努力するはずの三つのセクターが、揃いも揃って行うべき義務を果たさなかった二十年に及ぶ歴史であった。
---引用ここまで (第5章 東海村臨界事故から学ぶこと)

「依頼主がどういおうとも、問題はかならずある。/一見どう見えようとも、それはつねに人の問題である。」(本「コンサルタントの秘密」より)と言われるように、人と人のコミュニケーションの失敗は普遍的な問題なのでしょう。

 著者は「安全崩壊」からの救済策 の中で、以下の要改善点を具体的に提言しています。
---引用
・市民の立場に立つ、独立した規制機関を
 …JCOに許認可や巡視で関わった規制当局者は、身内意識と、馴れ合いによって、本来国の規制官が持っている強い権限を骨抜きにしてしまった。… 

・規制官が足りない
 …アメリカのNRCの十分の1以下である。これではこれまで行ってきた書類審査以上の実のある調査、審査は期待できず、相変わらずの「追認」体質に留まっている。これが前述したように、規制を担当できる能力をもった人材が足りないことに起因しているのも事実である。…

・人間が動かす施設として安全を見る
 …本書では、83~84年にかけてのJCOの転換試験棟改造に際して国の安全審査に重大な問題があったことを指摘したが、日本の原子力界には「問題というほどのことはなかった」とする論調がいまだに根強くある。それを主張するのは、規制当局が行う安全審査は「あくまで基本設計を見るためのもの」という原則に立つ人々である。…
…仮に安全審査は基本設計に限定するとしても、後続の審査、検査がそこで決められた安全設計の現実性をチェックしないならば、段階的規制が機能したとはいえない。…
…(日本原子力学会JCO事故調査委員会のメンバーの一人)古田氏は、アメリカでは1979年のスリーマイル島原発事故の教訓などから、すでに常識となっているのに、安全審査におけるヒューマンファクターへの考慮が日本では全くなされていないことを批判している。…
…東海村臨界事故から6年がたったいまも、国は安全審査の対象はあくまで「基本設計」であることを変えていない。…
…一般市民の感覚としてどうしても腑に落ちないのは、「もんじゅ」やJCO転換試験棟のように実際に事故が起こったケースまで、「安全審査には問題がなかった」とされることだ。「安全審査を基本設計に限定する」ことは、監督官庁にとって体の良い責任逃れの道具であり、今後さらに事故が多発する可能性が予想されるだけに、ますます手放したくないのだろうと邪推したくなる。…

・危険性を見すえる
 …私がそれ以上に困惑したのが、転換試験棟改造に際した加工事業変更許可において「臨界事故は想定しなくてよい」とされていたことだ。海外の核燃料施設で起こった臨界事故21件のうち20件が溶液処理中に発生しており、形状管理されていない容器に溶液が入ることで起きていることを知ればなおのこと、転換試験棟で臨界の現実性を想定してなかったことは非常識に思えた。…

・情報が伝えられ共有される社会こそ、「安全」に近い
 …日本原子力委員会JCO事故調査委員会の田辺文也氏は…「発注者と事業者がゴールを共有して、そのゴールを実現する上で最低限守るべき制約は何か、安全上の制約、経済上の制約、その上でどういうやり方があるか、ということも含めて、対等な立場でコミュニケートしないと本来の安全は構築できません。まさに、下請けだから、言ったことさえやればいいという関係だったことで、お互いの状況にも疎く、意見が率直に交流できない悪い関係になってしまったのです。」

・みな応分の責任があることを認めよう
 …あえてなぜ本書を執筆したのかを問われれば、東海村臨界事故が起こった原因について応分の責任がありながら、それに無自覚であったり責任逃れをしたり、また責任がないことを組織ぐるみで強調する人々が多いから、と答える。
 政府の事故調や刑事裁判のように、JCOとその社員に責任のすべてを託したままでこの事故の記憶が風化していくとき、私たちはこの事故が発する最も重要なメッセージを未開封のままで捨ててしまうことになるからである。
---引用ここまで

 これらの条件が満たされれば原発を引き続き進めてよいのか、と問われれば、これらは必要条件であって十分条件ではない、と答えます。
がいずれにしても著者のいう「救済策」は全く行われていません。

 ちょうど第二次大戦中に大勝利、とか戦術的転進、とかの大本営発表をいろいろ聞かされていて、ほんまはちゃうやろ、と分かっていた人の気分です。でもこんなたぐいの本が発禁にされていた戦争中の時代と今では状況が違います。



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