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【ジャイアント馬場】と言うプロレスラーは全盛期が極めて短い人だった。
日本人離れどころか、人類離れした長身(209㎝)が主な原因。
純粋に長身、と言う観点だけで見れば、世界中にはもっと背の高い人は居るし、
プロレスラーにも結構いる。
だけどその人達の殆どは30過ぎにはまともに動く事が出来なくなっている。
しかも短命だ。
【ジャイアント馬場】は元々、プロ野球の選手(巨人に居た事もある)
だったけど、ケガで野球が出来なくなり、サーカスや見世物小屋から声が
掛かる中、力道山にスカウトされてプロレスの世界に入ったんだよね。
全盛期(多分、20代後半~30代前半)の5~6年の間は物凄い早い動きだった。
あのでかさで、飛ぶわ跳ねるわすれば、そりゃ人気も出るわな。
全日本プロレスを旗揚げした頃から昭和53年辺りまではそれなりに動いて
いたけど、40歳を境にみるみる動きが遅くなっていった。
それでもあの身長でプロレスのリングに上がるだけでも大したものだったんだ。
だけど、その頃からものまね芸人に『アポー』とか言われて、
ネタにされだした。←本人は最初、物凄く嫌がっていた。
そんな【ジャイアント馬場】率いる全日本プロレスは【アントニオ猪木】の
良くも悪くもスキャンダラスなプロレスとは対照的に純粋なプロレスを興行
していた。
大体、年間6シリーズくらいで、その度に前述した通り、全米各地から豪華な
外人を参加させて、まぁ言っちゃなんだが、新日本プロレスよりずっと
プロレス的には豪華絢爛だったんだ。
昭和49年の12月には日本人で初めて、当時世界最大のプロレス団体、NWAの
世界チャンピオンにもなった。
相手はジャック・ブリスコ。
因みに【ジャイアント馬場】はこの後、更に2回、NWA世界チャンピオンになる。
相手は2回ともハーリー・レイス。
んで、その頃は、猪木も馬場もどっちがどうでも無く、漠然とプロレスを見て
いた僕なんだけど、昭和52年の12月に従兄弟に連れて行って貰った、蔵前国技館
の【オープンタッグ選手権決勝戦】で決定的に全日本プロレスのファンになった。
<<アメリカ代表>>
ザ・ファンクス(ドリー・ファンク・Jr、テリー・ファンクの
元NWAチャンピオン兄弟。ベビーフェイス)
VS
<<中近東・アラブ代表>>
アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク(とんでもない悪い奴ら。ヒール)
まぁ、4人が4人とも【プロ根性】丸出しで、とにかく観客を喜ばす試合をした。
今のへたれレスラー共に爪の垢でも煎じて飲め、つーくらいエキサイトさせて
くれたし、この4人の因縁ストーリーはその後3年間、全日本プロレスの
看板カードだった。
特にザ・ファンクスの人気は凄まじく、テキサス州アマリロと言う、日本人
なんか絶対に観光に行かないド田舎(この2人のホームタウン)にプロレス
ファンが大挙し、会場では女の子のファンがチアガールの格好をしてボンボンを
振って応援したくらい。
僕も【テンガロンハット】を被り、【ウエスタンブーツ】を履いて会場に応援
しに行く、と言う、今考えると顔から火が出るどころか、放射能が飛び出す
くらい恥ずかしい事を当然のようにしていたんだ。
このように【アントニオ猪木】以外、客を呼べるレスラーが居ない新日本プロレスに比べ、
【ジャイアント馬場】以外にも客を呼べる外人レスラーがゴロゴロしてたのさ、
全日本プロレスには。
そこで【アントニオ猪木】が次にとった作戦は.....。