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デンタルクエスト ~後悔の日々~

基本的に日記ですが、人生で何度も辛酸を舐めさせられた、歯医者さんの通院記録

久々に大興奮!!

2009年09月27日 | 趣味(プロレス・格闘技)

本割も良い相撲だったけど、決定戦凄かったなー!!

白は本割で力を出し切ってしまったのかな?
つか、やはり青に2回連続で勝つのは至難だよな。
まわし取らさせてくれなくて右に左にやられちゃったもんな。

これで青は、僕が大好きだった大横綱北の湖と優勝回数が並んだのかぁ。





老害横審共(特にあのババァ)はさすがに気づけよ!









もう、お腹一杯><

2007年10月14日 | 趣味(プロレス・格闘技)


なんだけど、これだけはどーしても言いたい。

『プロレスぢゃないんだから~~』と言う言い方はプロレスをあまりにも
侮辱している。

『プロレス』はお客さんを『楽しませる』ことを目的にしているんだ。

今回の試合で一体誰が『楽しんだ』んだ?

本人と本人の身内以外、あらゆる関係者とお客さんと視聴者は不愉快な
思いをしただけ。



そりゃあ、確かに今の『プロレス』は面白くない。
ファンもどんどん離れて行ってる。まさに風前の灯火だ。

今までにも『プロレス』には煮え湯を飲まされた事も何度もあったけど、
それは『楽しませる』事が裏目に出てしまった結果だ。
それらを観て、ガッカリはしたが、今回のような『生理的な嫌悪』を抱いた事は
一度も無い。

反省しなくいて良いから(出来ないだろうし)二度と公共の電波には出て
こないで欲しい。

いずれこうなる事は去年の8月の騒動で十分判っていた事なんぢゃないのか?


近年だと『畑山VS坂本』や『薬師寺VS辰吉』等の世界戦日本人決戦は
とても見ごたえのある素晴らしい試合だった。
どちらもお互いに健闘を称え合い、清清しい思いをさせてくれた。
特に『薬師寺VS辰吉』の時は両陣営壮絶な『舌戦』を繰り広げていたが、
終了と同時にお互いを賞賛している。


昔だったら『戸塚ヨットスクール』にでも入った方が良いんぢゃないの?
この親子達は。






















ママでも金

2007年04月09日 | 趣味(プロレス・格闘技)
基本的に時事ネタは書かないようにしているんだけども、今回は(^^ゞ


谷亮子選手が、世界柔道の出場権を得た。
全日本選抜の決勝で敗れたにも係わらずだ。
優勝した福見友子選手ではなく、敗れた谷亮子選手が選ばれた。



色々な意見がTVやネット、その他メディアで語られているが、僕は当然だと思う。



反対派曰く、
『これでは選考会の意味が無い』
『このままでは若い選手が育たない(大舞台に立てない)』
『やる気を無くす(優勝したのに....)』
等等....。


反対派の意見はもっともだ。特に優勝した福見友子選手は悔しくて腹立たしくて
やるせない事だろう。


でもさ、2年のブランク、しかもその間に出産までして、3月に入ってからの2週間
ちょっとでしか調整出来ず、それでも決勝で一本を取らせない谷亮子選手はやはり
桁外れの強さだと思う。しかも年齢は30を過ぎているのにだ。


TVで観てた人は皆思ったと思う『全然衰えてないぢゃん??(@_@)』と。
←まぁ柔道家の人が観れば色々と指摘もあるのだろうけどサ。素人見でね。



これから半年後の世界大会に合わせて調整すれば、十分メダル、そして北京でも
メダルを取れるだろう。


真に反省すべきはこんな悪いコンディションでもさら、っと準優勝させてしまう、
他の選手や全日本柔道連盟なんぢゃないの?と思ってしまう僕はヘソ曲がりか?












大相撲(笑)

2007年03月25日 | 趣味(プロレス・格闘技)
連続で変化かよ、やれやれ(^_^;)


横綱も横綱なら大関も大関だ。


久しぶりに大相撲、しかも決定戦になりそう、って事で観たけど、
これはひどいなぁ。


北の湖VS輪島とか、輪島VS貴乃花とか、千代の富士VS隆の里とか、
あーゆーホントに【大相撲】ってもう観れないの??(@_@)



プロレスも大相撲もボクシングも、もう僕の好きだった頃のとは
全然違うものになってしまったんだなぁ、としみじみ(^^ゞ




横審の、あのうるせぇキチ○イババァがまたなんか言うんだろうな、っと。




酷さはまさにダイナマイッ!!

2007年01月09日 | 趣味(プロレス・格闘技)
大晦日に放送されたK-1 Dynamiteをやっと観た(^^ゞ

なんだか5時間半くらい放送してたけど、まぁ、四分の三くらいは
例の如く再放送だったから、実質1時間半くらいで見終わったのだけど。

ネットとかでも散々言われていた秋山VS桜庭も、そりゃあ酷いモンだった
けど、その他の試合もホントーに酷かった><


実際に観に行った人達って、やっぱりTV放送と同じく、会場のスクリーン
に映し出される昔の試合を延々と観させられる訳?(@_@)
で、しかもやってる試合があんなでも楽しめるのかな??


もう、7年近く前になるけどPRIDEがGWに東京ドームで興行した、
【PRIDE GRANDPRIX2000】はメチャクチャ面白かったケド。


あの時、桜庭は間違い無くスーパースターだった。
『あの』ホイス・グレィシーに何もさせなかった、正に完全勝利だった。



総合格闘技なんか2度と観に行く事は無いだろうけど、あの興行だけはホントーに
行って良かったと、つくづく思う。


TV放送無くなっちゃったし、UFCに選手が流れていきそうだけど、やっぱり
桜庭はPRIDEのリングに立たなきゃダメだと思うな~~(+_+)











PRIDE

2006年06月20日 | 趣味(プロレス・格闘技)
PRIDEって格闘技のイベントは何度か行った事がある。

桜庭とホイスが1.5時間闘った、東京ドームにも行った。

まぁ、以前にも書いたけど、僕にとっては『格闘技』は『プロレス』の
代わりにはならなかったので、もっぱらTV観戦(地上波)になったけど。


そのPRIDEがフジTVとの契約を破棄されたのはもう1ヶ月くらい前の話。

詳しくは知らないし、知ってもしょうがないから、どうでも良いのだけど、
ヒョードルやノゲイラ、ミルコ等が観れなくなるのは寂しいな(/_;)


どこかのTV局が新しいタニマチになる事は無いのだろうか??(@_@)

あっ、DVDをレンタルすれば良いのか!!
でも、その前にDSEはやっぱり倒産しちゃうンだろうなぁ。




格闘技バブルもとうとう終焉か?(笑)







ビックリ!!(@_@)

2006年01月04日 | 趣味(プロレス・格闘技)
今日からお仕事再開。
でも、電車もガラガラだし、街もまだ本格始動ではなかった。
まぁ、明日からだね。


で、午後から新年会だった♪


そこでびっくりする話を聞いた。


『大晦日や正月の2日や3日の日に秋葉原とかで新日本プロレスの東京ドーム
大会のチケットをタダでばら撒いていた』って話。


いくらなんでも、と思ったけど、帰宅してから某匿名巨大掲示板とかカフェ
とか見ると、どうやらホントーの話らしい。


そこまで落ちたか、新日本プロレス!!
もう、最悪だな。


確か10年くらい連続で1月4日に東京ドーム大会をしてた筈。
新日本プロレスはあまり好きぢゃないから、あまり良く覚えてないんだけどさ。



平成2年の2月10日の東京ドーム大会は素晴らしい興行だった。
でも、それも15年も前の話だな。
栄枯盛衰、盛者必衰とは言うけれど、15年も経てばここまで落ちぶれるか。

いくらなんでもちょっと寂しいゾ!!
ダメでもガンガレ!!





U-COSMOS (その2) 

2005年11月30日 | 趣味(プロレス・格闘技)
続き

まぁ、それでも当日は、何時ものメンバー+会社の大勢で、東京ドームに行った訳。
【札幌中島体育センター】の事を気にしつつも....。


この日は全試合が異種格闘技戦だったと思う。
正直、内容が凄くつまらなさ過ぎて、良く覚えてない(^^ゞ
首都圏での【U.W.F】の興行は殆ど総て観に行ったけど、この日は抜きん出て詰まらなかった。
それでも、一緒に行った会社の人達は初めてのプロレス観戦だし、東京ドームと言う
雰囲気もあってか、一様に満足してたみたい。



会場を後にして、何時もの4人組はそのまま何時も通りの居酒屋に入った。
会社の人達は、そのまま帰ったり、別の居酒屋に入っていったり。


居酒屋で一通り注文を済ませ、んぢゃ、『かんぱーい!』と生ビールを飲んで一息つくと、
僕は店先の公衆電話に向かった。


「俺、ちょっと東スポか週プロに電話してくる」

『なんで?』

「今日の中島のメインの結果を知りたいから」

『まだ言ってんの?(@_@) ラッシャーがピンだって!!』

「まぁ、まぁ」



実際に東スポだったか週プロだったかは忘れたけど、編集部に電話した。
ラッキーな事に一発で繋がった。※多分週プロだったと思う。

~~~~~~~~~

「お忙しいところ申し訳ありません。今日の札幌中島での全日本プロレスの
メインの結果、お判りでしたら教えて頂けますか?」
『あぁ、もう判ってますよ、ちょっとお待ち下さいね』


受話器の向こうから、
ガヤガヤガヤガヤ
○△□さーん、今日の中島の試合結果だけど~



『お待たせしましたー』

「お忙しいところ有難う御座います」

『ぇーっと、天龍選手が馬場選手からピンフォールですね』

「え!馬場がピンを取ったンですか?」

『違いますよ。馬場選手がピンを取られたんです、天龍選手に』



「ええっ!!(;゜д゜)」



『・・・・・・・』

「・・・・・・・」

「あ、ありがとう御座いました」



電話を切ると同時に物凄い後悔をしだした。
やっぱり無理してでも行くべきだったんだ。

席に戻って結果を言うと、他の3人共、やはり物凄く驚いていた。
タッグとは言え、ジャイアント・馬場が日本人からピンフォールを取られる、なんて事は
あっちゃいけない事だったんだ。←それが【プロレス】ってもんだからさ。



後日、この試合はTV中継でノーカットで放送された。
今でもたまに、ビデオに撮っておいたこの試合は観るけど、ラッシャー・木村と
ジャイアント・馬場の頑張りには観る度にヲイヲイ泣いてしまう。



当時、人気絶頂だったこの天龍源一郎というプロレスラーはこの試合の約半年後、
全日本プロレスを脱退する。
まぁ、この試合の時点で既に色々とあったのかな、とも思うが、何があったにせよ、
この時の居酒屋での驚きとその試合の面白さの前にはどうでも良い事だ。








U-COSMOS (その1) 

2005年11月29日 | 趣味(プロレス・格闘技)
平成元年11月29日は人生の中でもかなり後悔した一日だと思う。



前年(つまり昭和63年)の5月に旗揚げしたプロレス団体、【U.W.F】が大ブレイクし、
この日、とうとう東京ドームで興行を行なう日だったのさ。
TVでの放送が無いにも係わらず、月1回の興行のチケットは軒並みソールドアウトで、
【プラチナチケット】と言われるくらいだった。
各種マスコミにも取上げられ、ちょっとしたブームになっていた。



 --今の【格闘技ブーム】の下地を造ったのは間違い無く、この団体--



それまでのプロレスのイメージを払拭する為に、場外乱闘や反則攻撃、ロープに振ったり
振られたりを一切せず、【キック・サブミッション・スープレックス】を前面に打ち出した、
今風に言えば【ガチっぽいプロレス】でプロレスファンからも絶大な人気を誇っていた。


当時、僕の会社には僕を含めて4人のプロレス大好き!!、な人間が居た。
2ヶ月に3回は間違い無くプロレス会場に足を運んで、終了後は居酒屋でその日の
試合内容を熱く熱く語っていた。
そんなんだから、当然この東京ドームも「こりゃ、行くべー」と盛り上がっていたんだね。
しかも、前述した通り、各種マスコミにも取上げられていたので、プロレスに全く興味の無い、
同僚や先輩や上司も行きたい、と言い出した。
挙句、女の子まで行きたい、と言い出し、15人の大所帯で行くことになったのね。
まぁ、それはそれでとても嬉しい事だったんだけど、僕はどうにも一つ引っかかる事があった。

プロレスファンにとって年末行事と言えば、全日本プロレスの【世界最強タッグ決定リーグ戦】だ。
例外は幾つかあるが、開幕戦が後楽園ホールで最終戦が蔵前国技館だったり武道館だったり。
で、ちょうどリーグ戦の真中辺りで【札幌中島体育センター】で行なわれる。
この年は運良く、開幕戦と最終戦のチケットは入手出来たので、とても楽しみだった。

んでもってその年【札幌中島体育センター】でどんな公式試合が組まれていたかと言うと、
















【ジャイアント・馬場&ラッシャー・木村 VS
天龍源一郎&スタン・ハンセン】





















これが物凄く気になった。つうか生で観たくてしょうがなくなった。



「俺さぁ、29日はU.W.F行かないで、札幌行こうかと思ってるンだけど?」

『え?なんで??』

「いや、メインの試合がどうも気になるンだよねぇ~~」

『いや、普通にラッシャーがハンセンのラリアットでピンぢゃないの?』

「うん、まぁそうなんだけどさぁ。なんかさぁ、気になるンだよねぇ」

『最強タッグは開幕と優勝戦と2回行くからいいぢゃん。札幌はTV放送するし。
U.W.FはTV無いから、観れないぜ?』

「うん、でもなぁ」

『考え過ぎだって。新日みたいな事件は起きないよ(笑)』


結局、札幌に行くとなれば、チケットの入手以外にも飛行機代やら、宿代やら、
当日も翌日も会社を休まなきゃいけないやらで、諦めた。


ここで札幌に行っていれば、生涯忘れられない思い出になったのだけど、
行かなかった事で生涯悔やむ事となる(-_-;)





~~しないで後悔するよか、して後悔~~




続く







若き狼の肖像(その7) 

2005年11月15日 | 趣味(プロレス・格闘技)
前回はこちら♪



そんな訳で昭和50年代の中頃から昭和60年代になるくらいの間は本来の意味での
【プロレスファン】には肩身の狭い時代だった。


なんたって一般の週刊誌にまでその人気振りが記事になる程の所謂【業界の顔】とも
言えるトップ団体新日本プロレスの【アントニオ猪木】と【アントニオ猪木ファン】が
『プロレスは真剣勝負』等と、とんでもない事を言い出したものだから、
【一般のプロレスファン】は大迷惑をこうむった。



『八百長でしょ?』
『なんでロープに振ると返ってくるの?』
『お前、本気で信じてるの??』



いや、あのね『プロレスは真剣勝負』って言ってるのは【アントニオ猪木】と
【アントニオ猪木ファン】だけで、普通の【プロレスファン】や【ジャイアント馬場】
はそんな事は言ってません、と説明した所で、
焼け石に水っていうか、もう、まるっきり無駄無駄無駄無駄無駄無駄ァァァァァァァァ!!!!


そんな迫害期間が2年くらい続いたのだけど、少しずつ事態は好転していった。


新日本プロレスが躓き始めたからだ。
 ・タイガーマスクの突然の引退(色々あったんよ、ホントに)
 ・一大イベントのIWGPの2年連続の大失態(これも色々あった)
 ・長州力の全日本プロレスへの移籍(これはただコイツの我侭。3年くらいで新日本に戻る)
 ・外人選手の引き抜き合戦で、ジャイアント馬場にこてんぱんにされる
 ・数々のギミックがことごとく失敗

特に外人選手の引き抜き合戦では、前述した【スタン・ハンセン】を引き抜けたのは
全日本プロレスにとって物凄く重要だった(と僕は思う)
【ジャイアント馬場】は生涯のライバルであり、良きビジネス・パートナーと巡り逢えた訳。
シングル初対決となった昭和57年2月4日の東京体育館は物凄い熱狂だった。
その後も【スタン・ハンセン】は全日本プロレスの看板レスラーの1人として、20年近く
トップレスラーを続けてくれた。


昭和60年代になると、新日本プロレスはやる事なす事ことごとく失敗し、逆に全日本プロレスはそれまでの路線を基本的に変えず、わが道を黙々と突き進む事となる。
立場が逆転、とは言わないまでも世間では『あっ』と言う間にプロレスはマイナーな娯楽に
逆戻りし、【プロレスファン】や【ジャイアント馬場】のファンは落ち着いて、じっくりとプロレスを楽しめるようになった。
昭和58年~平成4年くらいが僕の中でもプロレスはピークだった(^o^)


だけど、【ジャンボ鶴田】の戦線離脱に始まり、平成11年の【ジャイアント馬場さん】の逝去で、
僕のプロレスに対しての興味は殆ど無くなってしまった(>_<)



な~んて、のんびりと【プロレス】の事を書いていたら、昨日とうとう【新日本プロレス】が
ゲーム会社に買収されたニュースが流れた。
噂通り、かなり経営が悪かったンだろうな。業界トップだった団体も今ぢゃ見る影も無い。
まぁ、ここ3~4年はたまにTVで観ても目を覆うような酷いプロレス(もどき)ばっかやって
いたから、ファンが離れていったのもしょうがないだろうな。
自業自得だ。








若き狼の肖像(その6) 

2005年11月02日 | 趣味(プロレス・格闘技)
前回はこちら♪


【アントニオ猪木】と言うプロレスラーも実は全盛期は短かった(と僕は思っている)
昭和53~昭和54年頃までぢゃないかな??まともにプロレスが出来てたのは。
糖尿病と首と腰を痛めたのが原因だろう。


嫌いだけど、凄いよな~と関心するのは、体調が悪くなってから【延髄切り】
と言う技をフィニッシュに使い出した事。
楽チンな技だ(笑)
ピョンと跳ねて相手の後頭部を蹴る。そんだけ。
これなら首や腰が悪くても出来る。
これでレスラー寿命を15年延命させたもんな、こいつ。
相手のレスラーも蹴られると、クルッと一回転して倒れる。
肩に当たっても、背中に当たっても【延髄切り】
これで客やファンを納得させるところが凄い。


そんな【アントニオ猪木】は今度は【ジャイアント馬場】を挑発しだした。
事あるごとに、『馬場さんと闘いたい』と言う。
そんな事は無理なのを百も承知で言っている。当然、【ジャイアント馬場】は無視する。
すると、『俺(新日本)はストロング・スタイル』
『馬場さん(全日本)はショーマン・スタイル』と言い出した。
つまり、『だから馬場さんは俺から逃げている(俺の方が強い)』と言う含み。
まぁ、商売敵である訳だから、こういう営業戦略は大事だし、非常に効果があった。


この頃からだな、【アントニオ猪木】と【アントニオ猪木ファン】が狂い出したのは(笑)
【アントニオ猪木ファンにプロレスファンは居ない】
【アントニオ猪木原理主義】
の誕生だ。


実際には他にも関心する事は結構あった。

何と言っても【スタン・ハンセン】と言う凄いレスラーを育てた事。
最初は全日本に来日したけど、この時はどうしようもない木偶の坊レスラーだったけどね。
『ストロング・スタイル』『過激なプロレス』と言う、訳の判りそうで判らないスタイル
をあえて表現すると、このレスラーが正にそうだった。

WWWFと提携出来るようになったので、他にも【ハルク・ホーガン】【ボブ・バックランド】
【アンドレ・ザ・ジャイアント】等のそれなりのネームバリューのある外人レスラーを
呼べるようになったものの、この【スタン・ハンセン】には適わなかったよ。
必殺技【ウェスタン・ラリアート】は単純だけど、豪快で説得力抜群の技だった。
もう、新日本プロレスの象徴的存在だったんだ、このレスラーは。
 ※後にどえらい騒ぎになるんだけどね(笑)


もう一つは【(初代)タイガーマスク】を誕生させた事。
このタイガーマスクこと【佐山サトル】は革命的なレスラーだった。
とにかくそれまでの【プロレス】の概念と言うか【動き】が全然違っていた。
正に天才レスラー。
これで小学生等のちびっこファンもガッチリ掴んだ。


【ストロング・スタイル】【過激なプロレス】【(初代)タイガーマスク】で、
新日本プロレスは空前の大ブームとなった。
この時点で、全日本プロレスは人気面で随分と新日本プロレスに水を空けられた。
正直、やってる事はどっちも【プロレス】なんだけど、戦略が大成功した訳。








若き狼の肖像(その5) 

2005年10月27日 | 趣味(プロレス・格闘技)
前回はこちら♪


【ジャイアント馬場】と言うプロレスラーは全盛期が極めて短い人だった。
日本人離れどころか、人類離れした長身(209㎝)が主な原因。
純粋に長身、と言う観点だけで見れば、世界中にはもっと背の高い人は居るし、
プロレスラーにも結構いる。
だけどその人達の殆どは30過ぎにはまともに動く事が出来なくなっている。
しかも短命だ。

【ジャイアント馬場】は元々、プロ野球の選手(巨人に居た事もある)
だったけど、ケガで野球が出来なくなり、サーカスや見世物小屋から声が
掛かる中、力道山にスカウトされてプロレスの世界に入ったんだよね。


全盛期(多分、20代後半~30代前半)の5~6年の間は物凄い早い動きだった。
あのでかさで、飛ぶわ跳ねるわすれば、そりゃ人気も出るわな。
全日本プロレスを旗揚げした頃から昭和53年辺りまではそれなりに動いて
いたけど、40歳を境にみるみる動きが遅くなっていった。
それでもあの身長でプロレスのリングに上がるだけでも大したものだったんだ。
だけど、その頃からものまね芸人に『アポー』とか言われて、
ネタにされだした。←本人は最初、物凄く嫌がっていた。


そんな【ジャイアント馬場】率いる全日本プロレスは【アントニオ猪木】の
良くも悪くもスキャンダラスなプロレスとは対照的に純粋なプロレスを興行
していた。
大体、年間6シリーズくらいで、その度に前述した通り、全米各地から豪華な
外人を参加させて、まぁ言っちゃなんだが、新日本プロレスよりずっと
プロレス的には豪華絢爛だったんだ。


昭和49年の12月には日本人で初めて、当時世界最大のプロレス団体、NWAの
世界チャンピオンにもなった。
相手はジャック・ブリスコ。
因みに【ジャイアント馬場】はこの後、更に2回、NWA世界チャンピオンになる。
相手は2回ともハーリー・レイス。



んで、その頃は、猪木も馬場もどっちがどうでも無く、漠然とプロレスを見て
いた僕なんだけど、昭和52年の12月に従兄弟に連れて行って貰った、蔵前国技館
の【オープンタッグ選手権決勝戦】で決定的に全日本プロレスのファンになった。



<<アメリカ代表>>
ザ・ファンクス(ドリー・ファンク・Jr、テリー・ファンクの
元NWAチャンピオン兄弟。ベビーフェイス)
  VS
<<中近東・アラブ代表>>
アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク(とんでもない悪い奴ら。ヒール)


まぁ、4人が4人とも【プロ根性】丸出しで、とにかく観客を喜ばす試合をした。
今のへたれレスラー共に爪の垢でも煎じて飲め、つーくらいエキサイトさせて
くれたし、この4人の因縁ストーリーはその後3年間、全日本プロレスの
看板カードだった。


特にザ・ファンクスの人気は凄まじく、テキサス州アマリロと言う、日本人
なんか絶対に観光に行かないド田舎(この2人のホームタウン)にプロレス
ファンが大挙し、会場では女の子のファンがチアガールの格好をしてボンボンを
振って応援したくらい。
僕も【テンガロンハット】を被り、【ウエスタンブーツ】を履いて会場に応援
しに行く、と言う、今考えると顔から火が出るどころか、放射能が飛び出す
くらい恥ずかしい事を当然のようにしていたんだ。


このように【アントニオ猪木】以外、客を呼べるレスラーが居ない新日本プロレスに比べ、
【ジャイアント馬場】以外にも客を呼べる外人レスラーがゴロゴロしてたのさ、
全日本プロレスには。


そこで【アントニオ猪木】が次にとった作戦は.....。





若き狼の肖像(その4) 

2005年10月25日 | 趣味(プロレス・格闘技)
前回はこちら♪


そんな訳で、【ジャイアント馬場】と【アントニオ猪木】はそれぞれプロレス団体の
社長兼トップレスラーになった。


全日本プロレスは日本テレビが土曜日の夜8時から放送。
新日本プロレスはテレビ朝日が金曜日の夜8時から放送。

今では信じられない、ゴールデンタイムでの放送だったのね。


なんだけど、ここで一つ、両天才プロレスラーに、決定的な違いがあったんよ。
【ジャイアント馬場】は昭和30年代中盤に全米に武者修行に出て、大人気になった。
当時、アメリカには大きく3つのプロレス団体があったのね。NWA、AWA、WWWFと。
【ジャイアント馬場】はこの3つの団体でトップヒールのレスラーとして人気を誇り、
と同時に全米の各プロモーターと厚い信頼関係を築いてきた。
だから【日本プロレス】時代から来日していた外人レスラーの殆どは【ミスターババ】
の新団体である【全日本プロレス】と契約をした訳さ。


困ったのが、【アントニオ猪木】率いる【新日本プロレス】だ。
とにもかくにも、その当時は外人レスラーが居なければ、試合(興行)が出来ない。
だけど、頼みの有名どころの外人レスラーは殆ど【全日本プロレス】に押さえられて
いる。
もう、苦肉の策で日本では殆ど知られていない外人レスラーを、いかにも
【未知の強豪レスラー】として来日させた。
そんでもって一生懸命、【アントニオ猪木】はプロレスをしてみせたんだ。
実力派としてジョニー・パワーズ。
典型的なヒールとしてタイガー・ジェット・シン。
どちらも当時は殆ど無名だったレスラー。


巧いのはここからで、最初にジョニー・パワーズを【NWF世界ヘビー級チャンピオン】
として来日させた。
 ※NWFなんて団体は実質、無いも等しかった。急造タイトルみたいなモンだ。
で、このジョニー・パワーズからとっととベルトを取り、今度はそのタイトルを
狙ってきた、【インドの狂える虎】タイガー・ジェット・シンとの抗争をスタート
させた。

有名なのが【伊勢丹前襲撃事件】

【アントニオ猪木】が当時の奥様、女優の倍賞美津子と新宿の伊勢丹前を歩いていると、
このタイガー・ジェット・シンがやってきて路上で猪木をメッタメタにした。
たまたま(爆)通りかかったスポーツ新聞の記者とカメラマンがその一部始終を
みていて、翌日のスポーツ新聞の一面を飾った訳。


更にもっとトンデモな事をしでかした。
当時のボクシング世界ヘビー級チャンピオン【モハメド・アリ】と闘った事。
と言うか、日本でプロレスのリングに上げた事。
【世紀の凡戦】と一般の新聞にまで叩かれまくって、30億くらいの借金まで背負い
込んだけど、良くも悪くも、これで【プロレス】と言う娯楽を再度、世間に広く
認識させたんだ。
以降、【異種格闘技戦】と名を打って、これが大ヒットする。


何度も言うが、僕は【アントニオ猪木】と言うプロレスラーは大嫌いだ。
でも、ここら辺の才能は素直に認める。※この際、新間はおいといて。
でくの坊みたいな訳のわからんレスラーやヘンテコな格闘家(?)と【名(迷)勝負】
をした。


一方、【ジャイアント馬場】率いる【全日本プロレス】はと言うと......。








若き狼の肖像(その3) 

2005年10月24日 | 趣味(プロレス・格闘技)
前回はこちら♪


昭和40年代の前半は【ジャイアント馬場】と【アントニオ猪木】はタッグ・パートナー
として、又、良きライバルとして【日本プロレス】を文字通り牽引していった。
一般家庭にもTVが行き渡り、TV局がバックについて(つまりタニマチ)【日本プロレス】は
見事に息を吹き返した訳。


このころ既に、日本人VSアメリカ人と言う図式はなく、単にBI砲(ババ、イノキ)と
世界の強豪プロレスラーとの闘い、と変遷していた。
 ※まぁ、それでも基本的には日本人がベビーフェイス(善玉)で外人がヒール
  (悪玉)と言う図式はあることにはあった。
  けど、この図式も昭和50年代に入ったとたんに消えていく。
  外人選手でも日本で絶大な人気を誇るプロレスラーが一杯来日し始めたからね。 

会場のお客さんもTVの前のお茶の間ファンも純粋に【プロレス】と言う娯楽を
楽しんでいた。


馬場、猪木以外にもスター候補のプロレスラーがわんさかといて、順風満帆状態。
こーなると欲剥き出しの色々な連中が色々な手段で自分の懐を潤沢にしようと暗躍
しだすのはどこの世界でも同じ事。
仁義無き戦いどころの騒ぎぢゃあ無い揉め事が、TV局も捲き込んででゴチャゴチャ
ゴチャゴチャと続いて、まぁ、ここら辺は僕よかもっともっと詳しい人達がネット上で
わかり易く、且つ詳細に書いてくれているから、はしょるけど、結局、昭和47年に


全日本プロレス:ジャイアント馬場が旗揚げ
新日本プロレス:アントニオ猪木が旗揚げ


となったのさ。


とどのつまり、銭になるプロレスラーはこの2人しか居なかったということ。
既にこの当時で【国際プロレス】と言う団体があるにはあったのだけど、外人選手は
超・超・超極上の選手を一杯来日させていたんだけど、如何せん日本人の花形選手が
居なかったのが痛い、痛い。
【日本プロレス】はスターを同時に2人とも失った訳で当然の如く倒産した。


ここから昭和の時代が終わる迄、3団体(実質、全日と新日の2団体だけど)の時代が
続き、僕が一番プロレスが好きだった時代が始まる。


いや~~、この当時のプロレスはホントーに面白かったんだよ!!



馬場と猪木の間については諸諸説説ある。

ホントーは仲が良い
ホントーに仲が悪い
ホントーは仲が良いのだけど、色々あって悪く見せてる
ホントーに仲が悪いのだけど『本当は仲良いンぢゃない?』と思われたくないから、
わざわざ悪くしてみせている
ホントーは仲が良いのだけど、『本当に仲悪いンぢゃない?』と思われたいから、
わざわざ悪くしてみせている

(笑)まぁ、本心はわからないけど、僕はそんなに険悪では無かった、と思って
いるんだ。
でも、ほら、お互い団体のトップで商売敵だから色々とあったんぢゃないかと....。












若き狼の肖像(その2) 

2005年10月21日 | 趣味(プロレス・格闘技)
前回はこちら♪


今更言うに及ばず、【プロレス】なんてマイナーもマイナー、どマイナーな娯楽な訳。

道行く老若男女100人でも1000人でもいいけど、『知ってるプロレスラーの名前は?』
と質問すれば、ほぼ全員が下記のプロレスラーの名前を挙げるでしょ。

【力道山】
【ジャイアント馬場】
【アントニオ猪木】
まぁ、100歩譲って【大仁田厚】かね?

【大仁田厚】はともかく、他の3人だと【アントニオ猪木】以外は逝去している。
【アントニオ猪木】もとうに現役ではない。【大仁田厚】もね。

1000人も聞きゃ、そりゃ僕みたいなプロレス好きも居るだろうから、他のプロレスラー
の名前も出てくるだろうけど、要はそれくらい【プロレス】なんて娯楽ジャンルは
世間から遠いところに居る訳さ。


プロレスブームのピークは昭和30年代。


【力道山】がアメリカから輸入した【プロレス】は戦後の日本人のニーズにピッタリと
ハマった。
日本人が、でかいアメリカ人をブッ倒す。
そーゆーシチュエーションに日本人は大喝采を浴びせた。
(さすがに僕も生まれていない時代だけど)



ところが、昭和38年、力道山まさかの逝去。



当時は1団体しかなかった【日本プロレス】と言う会社は、大混乱に陥ったんだ。
そりゃ、創始者で社長で看板スターだった【力道山】が急に居なくなっちゃった
訳だからね。
しかもこの【力道山】を始め幹部社員達は、ライバル会社も居ないし、全国どこに
行っても、お金がジャンジャン入ってくるものだから、すっかり舞い上がってしまい、
渋谷道玄坂に【リキパレス】なるビルも建ててしまったんよ。←すぐ売却されたけどね。
簡単に言えば、負債も物凄い額だったんだね。


昭和も40年代に迫り【高度経済成長】の名のもとに、日本は歴史的にも世界的にも、
前例の無い飛躍的な成長を遂げていた。
東京なんてたかだか30年の間に【関東大震災】と【東京大空襲】で2度も焼け野原に
なったのに、その都度不死鳥のように蘇っている。


人々の生活に余裕も出てきて、アメリカに対するコンプレックスが憧れに変貌しつつ
ある時期だから、上記の、日本人がでかいアメリカ人をブッ倒す、というギミックも
世間に飽きられつつあったのも道理だ。
このまま【プロレス】と言う娯楽が日本での使命をまっとうして、消滅してしまっても
おかしくない状態だったし、実際関係者はそう思っていただろう(と、僕は思っている)



なんだけど、、、、、、



人は死んで名を残す。
虎は死んで皮を残す。
力道山は死んで、2人の天才プロレスラーを残した。


それが、












【ジャイアント馬場】 と 【アントニオ猪木】
だったんよ。