ガラルダ神父さま 土曜入門講座・聖書研究会 カトリック麹町 聖イグナチオ教会  †St.Ignatius Church†

キリスト教への理解を深め イエスさまの愛と救いを学ぶ 聖書のわかりやすい箇所を読み生きる愛するという意味を考えます

†10月13日の講義録†

2007年10月20日 | 講義録
★ルカ17章11~19節:重い皮膚病を患っている十人の人をいやす★
・律法の根本は愛であり、イエスは律法よりも愛を守った。罪は汚れというより、罪によって神から離れること。
・神があなたを抱きしめて赦して下さることを信じると共に、神から赦されていることを実感して感謝する。
・悪霊は自分の中にあるエゴイズムやうぬぼれ(=弱い人を裁き軽蔑する)と言っても良い。
・綺麗になった心にイエスキリストを入れて、キリストに生きる。キリストと共に、キリストの様に生きることに感謝する→この信仰があなたを救った。
★マタイ19章16~22節:金持ちの青年 ★
・永遠の命とは、神を知り深く体験し、神が望んでいる生き方をすること。(ヨハネ17章)
・神は憐れみ深い故、私たちも人の立場で物事を考える心の暖かさのある人であることを心掛ける。
・人間の財産は天国に持って行けないが、愛の行いはいつまでも残り、奪われること無い。
★入門式→洗礼式→志願式、代父母の望ましいあり方などについて神父さまよりご説明あり★
†振り返って†
・昨日、今年ご主人を心不全で亡くされたと聞いていた知り合いの女性から、実は自殺で亡くなったのだと知らされた。ご主人とも少しの知り合いで、体格も良く豪放磊落な方だった為、単純に病気というものは怖いなと思っていたのだが…。
・死を選ぶほどの辛い気持ちが如何ばかりのものであったか偲ぶ由も無いが、人懐っこい明るい笑顔の中にどんな悩みがあったのかと、故人の心中を思った。私にとっては“信仰に導かれていなければ”人ごとでは無い話しであった。死に擁かれることを選んだ人と、死の前に微かな希望を神に托した私の違いがそこにあった。
・どちらも苦しい選択であろうが、神の前にひざまずき自分が罪びとであることを認め、そんな自分でさえも神が抱きしめて赦して下さることを信じることにした、私にはまだできることがある。神父さまが仰った、人の立場で物事を考える心の暖かさのある人であることを心掛け愛の行いを証する、こと。
・この女性は、一緒に住んでいる家族、親戚にもショックを与えないために病気ということにして、自殺であることは自分の胸にしまいこみこれまで1人で背負って来たのだと、涙ぐみながら教えてくれた。
・小さきものに多くの証は出来ないが、この女性の痛みを心の暖かさで少しでも癒して差し上げたいと想った。日々の生活の中でも、天に富を積む様な生き方を心掛けたい。(K)

†10月6日の講義録†

2007年10月13日 | 講義録
★ルカ17章5~10節:赦し、信仰、奉仕★
・「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」という部分は誇張された譬え。
・ルカ18章25節の「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」、マタイ26章24節の「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」などの箇所や、マルタとマリアなどにも見られる表現。
・この表現自体に引きづられずに、福音全体の中でその意味する所を捉えることが大切。
★マタイ19章3~12節:離縁について教える★
・結婚は愛における一体化であり、一体化における命。人生を分かち合う一体化、愛から生まれる一体化と言っても良い。お互いに全てを捧げ、2人の一体化から2つの命-①子供②2人の成長(精神的な命)-が生まれる。
・不法な結婚とはギリシャ語Porneiaの訳で、カトリックでもポルネイアな状態にある場合は、結婚自体が最初から無効であったとして離婚を赦している。
・キリストはSema<神を愛しなさい、人を大切にしなさい>という精神を最も大切にしている。この精神から一度結婚したら、忍耐と信頼感と忠実性で2人が離れないことを望んでいる。
・結婚には全ての人にGraciaがあるが、カトリックが定める7つの秘蹟の1つであり、洗礼を受けている人の結婚には秘蹟が支えるGraciaがある。洗礼によって秘蹟のGraciaを受け入れる心の門が開かれる。
・結婚の秘蹟は司祭は見届ける役目を果たすのみで、結婚する2人がお互いにGraciaを捧げるもの。この秘蹟は離婚を望まない為のGraciaであり、2人の愛を守る為の手段をお互いに約束する。
・結婚生活は狭い部屋に2人でいることに似ており、危機が訪れた時に①ドアから出て行く〝別れる〟②中から2人でドアを閉める〝一緒にいる〟という2つの選択肢がある。結婚生活に危機が訪れた際には、2つの“あい”で乗り切る→「話し合い」&「今の愛」。苦しいことがあっても、虚しいことがあっても、喜んで一緒にいる。但し、どうしても危機が避けられない場合は、神様がお赦しにならないということではない。聖書に書いてあることは、人を苦しめる為にあるのではない。
★マタイ19章13~15節:子供を祝福する★
・子供というのは、弱い立場の人と解釈しても良い。この福音は幼児洗礼について勧めているという解釈もあるがそれは拡大解釈。
・幼児洗礼は、大人になった時に危機が訪れる可能性があるがそれでも勧めたい。子供に4Kを避けることを早くから教え、深く喜んで生きる為の自信を付けられるから。キリストというぶどうの木に枝として結び付けられ、点滴の様に恵みを与えられるから、子供にとっても幸せである。
・もう一つの理由は、小さい時から教会の良い雰囲気に慣れさせて、「私の教会」という意識を持たせられる。
†振り返って†
・10月6日は、教会の向かう道すがらでさわやかな風の香りに気が付いた。何だろうこの懐かしいような不思議な匂いは…と思っていたらキンモクセイの香りだった。初めて研究会に参加した時にも、教会前のキンモクセイが香っていたことを思い出し急いで教会に向かった。キンモクセイは去年と同じ場所で期待通りに素敵な芳香を放っており、同じ場所から空を見上げていた苦しかった1年前が自然と思い出されて、感慨深くもあり、また時の経つ早さにも驚かされた。
・からし種一粒ほどの信仰~の様な譬えは、イエスさまが信仰などを語る際に使った極端な表現だが、信仰の薄い弟子たちに思わず大げさな表現を使っている様な感じがしてとても“人間味”があり好きだ。神父さまが仰ったのは、聖書を読む際には「テキスト」以上に「コンテキスト」の理解が重要ということだと思う。良く聖書の一部のみの表現を以って自己中心的な理解をしている人や、人を論破する材料にセンテンスを使っている人を見掛けるが、頑なな解釈で躓かない様に神父さまの話に耳を傾けたい。
・連休中、TVドキメンタリー『余命1ヶ月の花嫁~最後のメッセージ~』を見て、結婚がもたらすGraciaについてとても深く考させたられた。7月に放送された際にとても感動してしまい、もう一度見たかったので何とか再放送してくれないかとTBSにリクエストしていたもの。私の様に再放送を望む反響が大きかった様で、異例とも言える短期間で再放送が決定。個人的なブログではないのでここでは詳しく書かないが、花嫁長島千恵さん、父親貞士さん、恋人太郎さん、多くの友人の暖かい人間性に人の希望を感じ、普段泣くことなどない性格の私だが今回も涙が溢れて止まらず号泣。
太郎さん「元気になったら何がしたい?」
千恵さん「外に行きたい。こんな東京の外だけど風が吹いてきて気持ちいいんだよ」「風って気持ちいいんだよ…知ってる?」
太郎さん「病院で何してるの?」
千恵さん「生きてる!」
愛らしい笑顔で元気いっぱい微笑み「大丈夫、頑張る」と言い続けて最後まで治ることを信じ戦い続けた千恵さん。
本人以外は余命1ヶ月と知りながら悲しみを隠して笑顔で祝福した結婚式の参加者には、多くのGraciaが注がれていることを確信した。
「明日が来ることは奇跡」
「生きてるって事は奇跡。いろんな人に支えられて生きてるんだよね。私これで元気になれたらすごい人間になれると思う」
彼女にような素晴らしい女性が何で命を失うことになるのかと神様を恨めしいような悲しい気持ちになるが、この番組を見た人に生き方を変えさせる程の影響を残したことが、微かな慰めになるかと心の慰めを探った。長島千恵さんは天国に召され、神の豊かな恩寵に擁かれていると信じずにはいられない。
千恵さんの5月7日のmixiに最後の日記が残されている。
『みなさんに明日が来ることは奇跡です。それを知っているだけで、日常は幸せな事だらけで溢れています。』…真実なメッセージに泣かされます。
『もうりんこからは返事は来ません。りんこは返事をだしたくてもだせなくなってしまいました』という太郎さんのメッセージも切なくて…この太郎さんもとても素晴らしい方です。
11月末に書籍が発売されるそうですので、番組を見ていない方も是非手にとってみてください。http://www.tbs.co.jp/program/cancersp_20070718.html(K)

†9月29日の講義録†

2007年10月06日 | 講義録
★ルカ16章19~31節:金持ちとラザロ★
・金持ちはラザロに対して2つの罪を犯している。
 ①積極的に良いことをしないという罪
 ②気が付かないという罪
金持ちであることが罪なのでは無く、ラザロに対してすべきことを何もしなかったことが罪である。
マタイ25章に記されている『主よ、いつ私たちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか』。そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである』
という福音が理解を深める参考になる。金持ちは、悪いことはしなかったが良いこともしなかったことが罪となった。
★ルカ9章18~22節:ペトロ、信仰を言い表す・イエス、死と復活を予告する★
・ペトロが言った「神からのメシア」とは救い主という意味。イエスは死んだ後も救い主であり続ける。
・なぜ苦しみやいたみを癒しに行くのか→苦しみを、愛と忠実性と信頼感で受け入れる。
★マタイ12章38~42節:人々はしるしを欲しがる★
・私たちは決定的なご利益的なしるしを求めてしまうが、それは避けなければならない。素直な謙虚な自信で人からの愛を信じて受け入れることが大切である。
★マタイ20章20~28節:ヤコブとヨハネの母の願い★
・ヤコブとヨハネの母は愛する人を大切に思う心でイエスに二人の息子の権威を望んだ→権力、権威などを求める心、目立とうとする精神などは避けるべきである。
†振り返って†
金持ちとラザロの朗読を聞いている時に、ヤコブの手紙2章“行いを欠く信仰は死んだもの”を思い出し、朗読中に拘わらず思わず14~26節を開いて読み返した。
『わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです』
研究会に参加し、聖書対する理解を深める自分に満足していてはいけない。キリストを想い、日々の生活の中で実践することでキリストの精神に寄り添うことができたならば。忙しい日々の生活の中でも、優しさや思いやりを失わずに、より誠実で真実なキリスト者でありたいと強く願った。(K)

†9月15日の講義録†

2007年09月29日 | 講義録
★マタイ9章9~13節:マタイを弟子にする★
・キリストは、自分が罪びとと認める人の為に来た。
・自分が罪びとだからキリストに呼ばれたことに感謝する。感謝してキリストに従う。
★ルカ16章1~13節:不正な管理人とたとえ★
・不正な管理人の抜け目の無い‘やりかた’を褒めた。その鋭さとやる気を褒めている。忙しい人や心に余裕の無い人はお金の奴隷になり、富に使えるようになってしまう→4Kを避けるようにする。
・お金については、そのお金を手に入れる方法、そのお金を使う目的、そのお金を手に入れる為に何を失うのか、などに心を向けることが大切。人はお金を基準にして価値を定める傾向があるが、それは避けなければならない。
・お金のあげ方には、4つのやり方がある。
①自分にあり余ってもあげない
②あり余っているものをあげる→やもめの献金の金持ちたち
③自分の財産の半分をあげる→ザアカイ
④全部あげる→やもめ
★マタイ10章24~33節:迫害を予告する・恐るべき者・イエスの仲間であると言い表す★
・私が伝えた教えをみんなに広めれば酷いことをされるが恐れてはならない。肉体は滅んでも魂は滅ばない。
・神を恐れるとは、神の教えに喜んで従うこと。神が魂(=永遠の命の源)を殺すことはない。自らにキリストから離れることによって、人間が殺す。
★マタイ12章1~8節:安息日に麦の穂を摘む★
・安息日はモーセが定め、立法学者が後から色々な規則を決めたが、これを意味の無いものとしてイエスは安息日の規則を破る。人の子であるイエスは安息日の主であるから。
・人間は規則の奴隷になるのでは無い。
†振り返って†
「見失った羊のたとえ」「無くした銀貨のたとえ」「放蕩息子のたとえ」に続く、『不正な管理人とたとえ』は、聖書の中でも最も難解で色々な解釈がなされて来た福音だと思う。この様に解釈の難しいたとえを読むと、ルカ8章10節を思い出し、もっと理解を深めたいと思う。教皇ベネディクト16世は、今月23日にイタリアヴェッレトリ市の市民参加ミサ福音朗読で、このたとえを取り上げられ、福音書は彼の不正ではなくその利口さを倣うべきものとして示していると説明されたそうだ。↓http://www.radiovaticana.org/japanese/japnotizie0709c/japcronaca070923.htm(K) 
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†9月8日の講義録†

2007年09月21日 | 講義録
★ルカ5章33~39節:断食についての問答★
・断食の目的は元々イスラムの人々が清められて自分がメシアであると信じられることにあるが、イエスにとっては自分がメシアであり、断食という形式、立法、習慣にとらわれた形だけの行為は意味のないものと考えた。
・キリストは形式では無く精神を重視し「私があなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」と定めた。
★ルカ12章49~53節:分裂をもたらす★
・オーケストラは1つのメロディー・1つの曲を演奏することで一体化するように、人間は皆で譲り合って協力し合い真の平和を作ることが大切。
・この節の真意は「偽りの平和を壊す」という意味である。
★マタイ9章18~26節:指導者の娘とイエスの服に触れる女★
・イエスが指導者の娘とイエスの服に触れる女に起こす2つの奇跡。
・十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。その時イエスが娘よ元気になりなさい、あなたの信仰があなたを救ったと言い彼女は治った。指導者が、わたしの娘がたったいま死にました、でもおいでになって手を置いてやってください、そうすれば生き返るでしょうと言い、少女の手を取って起き上がらせる。
・イエスを信じて自信を持って祈るころが大切である。
★マタイ10章16~23節:迫害を予告する★
・キリストの精神を実現する→最後の審判→地球は終わって→エルサレムの敗北
・コリントの信徒への手紙13章を参照。
†振り返って†
奇跡が起こるほどにキリストを信じることが出来ればどんなに幸いなことかと思い、深く信仰を育てたいと思う。私があなたがたを愛したように互いに愛し合いなさいという簡単なみ言葉の実践でさえ、私たちの日々の生活では如何に難しいことか。キリストの弟子になることは簡単だが、弟子であり続けることは難しいという神父さまの言葉に深く頷かせれた。(K)

休講のお知らせ

2007年09月14日 | 講義録
9月15日(土)は、休講です。

ハロハロ会チャリティコンサート

2007年09月04日 | 講義録
土曜講座でお預かりしたチケットは完売いたしました。
複数の方から、ご寄付の方もいただきました。
みなさま、ありがとうございました。

ご寄付の方は、今度の講座まで受け付けています。
宜しくお願いいたします。

佐藤

†9月1日の講義録†

2007年09月04日 | 講義録
行儀良くしていること、上手に生きること、正しさを貫くことだけではなく、愛を込めてそれを行い、感謝することが大事である。

[1]ルカ14-1,7~14「客と招待する者への教訓」
謙遜について
自分を愛してくれる人を大切にするのは普通のことであるが、たとえ感謝(お返し)されなくても、愛してくれない人をも大切にしなさい。
形式や行儀で謙遜するのではなく、心を添えることが大事である。
それは、喜んで、愛を込めて人に仕え、人の成功を心から喜び、人の良いところに感動することである。
そして、素直に感謝すること。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」~形式ではなく..

[2]ルカ12-35~40「目を覚ましている僕」
目をさましていれば、神は黙って側に来てくださると思い続ける。
そして、目をさましていれば、本当は側にいたことに気づき、実は、いつも側にいたことに気づくのです。
感謝し感動することが気持ちの良い刺激となり目を覚ましつづける。

神を見る
海の中の鐘のたとえ
かつて海中に沈んだ神殿の鐘の音が聞こえるという浜辺があった。
旅人がその鐘の音を聞きたいと思い、浜辺に何日も座っていた。
しかし、波の音、葉のざわめき、人の笑い声ばかり聞こえた。
一生懸命、それらの雑音を遠ざけても一向に鐘の音は聞こえてこなかった。
旅人はあきらめて、遠ざけようとしていた音を静かな心で聞き、自然や人の声を味わっていたら(感動していたら)、
海の中から鐘の音が静かに聞こえてきた。

[3]ルカ13-22~30「狭い戸口」、ミカ書6-8
狭い戸口とは、ミカ書にある神の望む道である。
正義を行う人とは、単なる「いい人」でいるのではなく己の責任を果たす人である。
慈しみを愛する人とは、心の暖かさがある人である。
正義は、「正しさ」と「慈しみ」を兼ね備えた事である。
「正しさ」は武器にもなる。相手の立場を思いやり、「なぜ」そうなったかを考えてみる。

ゲーテのことば
『「言った」ことより「言いたかった」ことを理解する』

「愛される」ことは権利ではなくプレゼントであると思う謙虚さで、「暖かさ」を持つことが出来る。
祈り、秘蹟、ミサ、講座で神の身近さ、暖かさを感じることが狭い戸口に入ることである。

[4]マタイ9-9~13「マタイを弟子にする」
罪の意識のある人がキリストに呼ばれる。
呼ばれたことに素直に感謝しなさい。
口先だけで罪を認めることは偽善である。
人に仕え、人を高め、人に感謝しなさい。


「人のよいところに素直に感動しなさい」
神父さまが時折話されるこの話題がとても大好きです。
その度に初心に返るように、そうなりたいと思いますが、いつの間にか感動するよりイライラしてしまっています。
[2]の海の中のたとえ話は、神の声を聞きたいと思うあまり、愛の無い行いをし、愛の無い態度の人は、結局、神の声も聞こえないという事だったと思います。
旅人は、自然や人を愛することで鐘の音を聞くことが出来ました。
私も、悔い改め、愛と責任を持ち、それを行える人になりたいと思いました。
いつか私も神さまの声を聞くことが出来たら

佐藤

†7月21日の講義録†

2007年07月25日 | 講義録
★講義の初めに神父さまから2つのご質問★
①いつどんなときにキリストを見るのか?
②キリストの品格がどこにあるのか?
・マタイ福音書25章40節『最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』に考える1つのヒントがある。〝人の中に神を見る〟〝深く見る〟〝愛する〟〝悲しみの中に神を感じる〟ということ。
・神父さまの身近な実感は、キリストを必要としている人の中に神を見るというより→キリストを私がお連れする→キリストに一緒にあの人に会いに行こうと言われて連れられて行くという感覚。
★マルコ12章38~44節:律法学者を非難する★
・ここでやもめはかわいそうな人の象徴であり、イエスは彼女の心を見て感動した。それなのに彼女に奇跡を起こすようなことを何もしないが何故か?→彼女には『心の豊かさ』で十分だから。バラの花は咲いてるだけで綺麗だから手を加えなくとも、そこにあるだけで素敵で美しい。彼女はイエスが何もしなくても心が美しいことでとても幸せな存在。すべてを差し出した心に愛とGracia(神の恩寵)があり、神と人の愛や恵みを実感させてくれる。
・私たちは4K(金・肩書・快楽・権力)を見てしまうことが多いが、それは避けなければならない。小麦が金に変わる譬話。
★マタイ5章38~42節:復讐してはならない★
・悪いことをされても復習してはならない。復讐すれば自らをその人の程度にまで落とすことになる→キリストの品格を考える1つのヒント。
・ガンディーは非暴力の思想を唱えた。非暴力というよりも復習するというような行為は慎むべきであり、復讐の悪循環を避けることが必要。カトリックでは死刑制度に反対している。
★マタイ6章1~6・16~18節:施しをするときには・断食するときには★
≪花火の比喩≫(旅人よ道はない、道を作るのだ)
・真っ暗な道の中を人が道を歩いていると花火が上がり明るくなって前に進むことができる譬話。
・花火は何のために打ち上げられるのか→自分を含めて皆が歩けるためだが、花火は“褒められるために”打ち上げられるものではない。ではこの花火とは何か?
・花火とは〝才能〟〝命〟〝能力〟〝可能性〟〝健康〟〝時間〟などのこと。
・人は自分で花火を上げながら他の人を照らし、他の人の花火を見て歩く勇気を感じる。人生は時間的な長さだけではなく、明るい真剣さで喜んで生きることが私たちにとってとても大切。
★マタイ6章7~15節:祈るときには★
・あなたが人を許さない時には、愛である神から自ら離れることになってしまう。
・貧困にしないで下さい、でもお金持ちにしないで下さいという謙虚な気持ち。私たちが必要なこと、私たちの必要な糧は神が与えて下さることを信じる。
†振り返って†
この節を読む度に、やもめに何もして上げないイエスさまに何か足りないものを感じていたが、神父さまのお話しされたバラの譬話に大きく肯かされた。花火の譬話しはとても綺麗な比喩でわかり易く、神父さまの語り口と相俟って美しさの中に愛と優しさを感じた。私が人を助けると共に、私も人から助けられて生きていることを忘れてはならないと想った。(K)

†7月21日の主日ミサ(18時~)†

2007年07月24日 | 講義録
★ルカ10章38~42節:マルタとマリア★
・マルタは愛が足りなかったためにイエスさまに不満を漏らした。
・頂くよりも差し上げる方が与える方が幸いであり、人を心を込めて大切にすることが必要。“良いサマリア人の譬”にヒントがある。
・マリアは何も言わないでただ聞いていた。神の愛を信じその愛で満たされた心でイエスさまの言葉を喜んで聞き行うことが必要。愛のない祈りではいけない。
†振り返って†
聖書ではマルタとマリアの2つの人格を通して語られているが、私たちの心の中にはマリアが存在すると共に、マルタも存在することを忘れてはならないと考えさせられた。見返りを求めず捧げられる愛やサクリファイスこそが尊く美しくいのだと気付かされた。

†お食事会のお知らせ†

2007年07月20日 | 講義録
★7月28日(土)通常の講座の後、19時よりお食事会をします。
(お知らせ)
28日は前期最終日ですので、ガラルダ神父様とクラス参加者の親睦を深める為、結婚講座の方と合同でお食事会を行います。場所は神父さまのご希望により『麻辣房』(教会前の麹町東急ビルB1/03-3239-1316)に決りました。会費は3,700円程度の予定です。ご参加希望の方はクラスのヘルパーにご連絡頂くか、以下のアドレスにメールを下さいませ。(K)
nostalghia_offret@yahoo.co.jp

†ハロハロ・チャリティコンサート†

2007年07月18日 | 講義録
ガラルダ神父さまが携われているフィリピンの貧しい地域の人たちを支援するNGO「ハロハロ会」のチャリティコンサートのご案内です。チケットを本講座でも購入できます。講座の際にヘルパーへお尋ねください。また、チャリティへのご寄付も受け付けています。みなさまのご支援お待ちしております。
チャリティコンサート
http://members.jcom.home.ne.jp/halo_halo/Katsudou/Katsudou_concert1.htm
ハロハロ会
http://members.jcom.home.ne.jp/halo_halo/

†7月14日の講義録†

2007年07月17日 | 講義録
★ルカ10章25~37節:善きサマリア人のたとえ★
・隣人とは「自分の近くにいる人という」というだけでは十分でなく、あなたと縁があって、あなたを必要としているすべての人のことである。
・隣人愛は行いであり、実践することがとても大切。愛があれば、耐えるのが困難な痛みでも〝3G〟<頑張る・我慢する・犠牲>の力で乗り越えて、最後には一緒に喜ぶことができる。
★マルコ12章18~27節:復活についての問答★
・旧約聖書の中でも、特にモーセ5書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)だけを聖書として認めるサドカイ派との復活についての問答。
・サドカイ派はレビラート婚の教えを盾に、矛盾を示して復活などあり得ないと論争を挑むが、イエスさまは言う。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。 死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」
・また「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と出エジプト記を用いて、ここに死者の復活が表されていることを示す。
・愛についてアウグスチヌスは「見て愛して喜ぶとこしえに」と表し、キリスト教実存主義者のガブリエル・マルセルは「人を愛するというのは、死なないでくれと望むことである」と表現した。
・大切なのは、神さまの御手の中に抱かれた天使のような存在となることを信じて、神様が愛してくれると約束してくれていることを喜び生きることである。
★マルコ12章18~27節:最も重要な掟★
・律法学者の質問に対してイエスは、数多ある掟の中で、最も大切な掟は「神を愛すること」、「隣人を愛すること」であることを示す。
†振り返って†
私たちの救い主である神の慈愛を信じると共に、自分の助けを必要としている隣人を愛すること。善きサマリア人の行いから、人は仕えられるよりは仕えることが幸いである存在であることを知ると共に、神父さまのお話からその実践がとても大切であることを改めて想った。(K)

†9月クラス日程のお知らせ†

2007年07月17日 | 講義録
★9月のスケジュール
・9月1日(土) 通常 
・9月8日(土) 通常
・9月15日(土)休講
・9月22日(土)通常
・9月29日(土)通常
★場所
信徒会館3階アルペホールでお待ちしてます♪(K)

†入門式・志願式・洗礼式ご案内†

2007年07月17日 | 講義録
★入門式
11月10日(土) 通常講座修了後マリア聖堂で行います
★志願式
12月 2日(日) 主聖堂10:30の主日ミサ中に行います
★洗礼式
12月22日(土) マリア聖堂でクリスマスミサと共に行います
入門式と洗礼式はクラスで講座後に行います。
志願式や、洗礼式をご検討の方は、申し込み手続きの関係上、お早めにご相談をお願いいたします。(K)