バンマスの独り言 (igakun-bass)

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僕のニューヨーク生活 8

2006年05月20日 | 僕のニューヨーク生活
最初のうちは犯罪が多発している怖い街という先入観にとらわれて、自分のアパートメントの玄関口を出る時は必ず深呼吸をし気合を入れて外に足をふみ出していた僕でした。

 しかしそんな緊張感も現地でできた友人やタミーのおかげですっかりこの街のツボみたいなものを心得てきてずいぶんとリラックスした生活が続いていました。
初めてニューヨークに来た時(→僕のニューヨーク生活5)はそれまでのスタジオ業で得た資金で生活をしていましたが、数ヶ月が過ぎる頃にはお金というものはそれが減る時はとっても早いなと思うようになっていたのでビザでは非合法でしたがアルバイトで資金の目減りを減速させようと友人のつてを頼って平日の3~4日は働き始めました。

 学校の先生の手伝い(遠足や見学行事に付き添って生徒の面倒を見ます)、輸入商社の荷受(倉庫で運送業者が搬入する物品をどこに置くか指示します)、雑貨店の配達(マンハッタン・エリア限定で顧客の指定日・指定場所に直接手持ちで商品を配達する)、日本人向け旅行会社の添乗員(雑用係)、日系商社のお客の接待(空港まで会社の代わりに送迎したり、客の希望する場所へ連れて行く、など)。
特に接待の仕事はずいぶん勝手でおバカな日本人旅行者(会社側からみれば取引先のお客です)に腹を立てながらも、自分が初めてこの街に来た時のうきうきとした気持ちを思い出しながらこの人たちもそうなんだろうなぁと考え、気を取り直して元気に働きました。
渡米以来毎日NY市内を見て回る(遊びまわる)なんてことに飽きてしまっていた頃でしたので、これらのアルバイトはいい経験になったとともに有意義な(バイト代も入る)時間を過ごすことができました。特にマンハッタンの地理にはかなり詳しくなりました。

 その頃タミーは韓国高級レストランのウエイトレスの仕事(バイト)を辞め、父親の関係する商社で事務の仕事に就いていた事もあり、僕らのデートはもっぱら週末に集中することが多くなりました。
ある週末、タミーとヴィレッジのロックカフェにビールを飲みに行くと、店内の掲示板みたいなものに「(マウンテンの)フェリックス・パッパラルディ死亡」のニュースが書かれているじゃありませんか。この記事では「1983年4月17日、自宅で妻に撃たれ死亡」とありました。この時、すでに季節は秋でしたのでちょっと古いニュースではありましたが、僕はかなりのショックを受けてしまいました。横にいたタミーはキョトンとして僕の狼狽(ろうばい)ぶりに驚いていましたが、ちょっと説明をしたら理解してくれたらしくその後はしばらく口をきかずにそっとしておいてくれました。

というのも70年代初頭のアメリカン・ハードロックを代表するバンド「マウンテン」のリーダーでありベースプレーヤー兼有能なコンポーザーであるフェリックス・パッパラルディは長いことずっと僕のロック界でのヒーローだったからです。
マウンテンの初来日時は武道館の楽屋口で僕は彼とのツーショットの写真を撮りました。忍び込んだ裏口から本番前のリハーサルを盗み聞きしました。そしてあの頃はマウンテンが一番のお気に入りでした。
NY生活が始まって多くの有名ミュージシャンと偶然の出会いが続きましたが、内心いつかはパッパラルディと再会?できると密かに期待すらしていましたので、このニュースにはその内容はもちろんでしたが、すでに死亡した日から半年近くも時間が経っていることに(日頃彼の熱烈なファンを自認していた)僕のプライドはもろくも崩されてしまいました。
そして僕もNYに滞在していて彼と同じ街にいたというのに・・・という失望感で胸が一杯になりました。彼の自宅(死亡した場所)はマンハッタンを北に上がった東側の一般にはアッパー・イーストと呼ばれる高級住宅街のコンドミニアムでしたが、なんでも土曜日の夜帰宅して日曜の朝日を見る事はできなかったそうです。彼は彼の妻でマウンテンの一連のアルバム・ジャケットのアートワークや一部の作詞でマウンテンの5番目のメンバーともされていたゲイル・コリンズの38口径デリンジャーで首を撃たれていたそうです。
この仲の良かった夫婦にいったい何があったのでしょうか。

超レアな写真です。左はジャック・ブルース夫妻と子。右はパッパラルディと新妻ゲイル・コリンズ


この時期、マウンテンはすでに形はなく、ギターのレスリー・ウエストも先の見えない生活を余儀なくされていた頃です。彼らの活動のピークは60年代後半から70年代初めまででしたがいわゆるプロ受けするプロとしてアメリカン・ハードロックの基礎と発展に絶大な影響を与えたのでした。
パッパラルディはクラシックの指揮者を目指していた事もあり、音楽の理論というものを重んじていたようですが、ロックバンド(マウンテン)をレスリー・ウエストとともに結成してからはクラシカルなメロディーとハードなリフを組み合わせた独自のサウンドを創作していきました。
あの独特な歪んでうねるようなベース・サウンドは特にライブ・アルバムで楽しめますがギブソンEB-1とSUNNのアンプから繰り出されるヘビーなトーンは彼の死後誰も出す事はできないでいます。僕などは学生の頃その音に憧れ、「ベースブースター」と「ビッグマフ」というエフェクターでそれを実現しようとしましたが、スピーカーのコイルが焼き切れたり、アンプのヘッドが壊れたりで散々でした。

そんな数多くの思い出のあるプレーヤーが亡くなってしまったということへの僕の喪失感と言ったら大変なものでしたが、しばらくしてNY市内で「パッパラルディ追悼の会」が開かれたので、さっそく参加しました。あのEB-1をプレイする姿の大きな写真が会場の一角に飾られ、熱烈なファンとおぼしき多くの人々が献花をしていました。そしてマウンテンの曲がずっと流されていました。オフィシャルな会ではなかったようですが、僕には彼のお葬式だと思えました。

もしかして・・・もしかして、レスリー・ウエストが、ジャック・ブルースが、来るのではと淡い期待をしていましたがそれは叶わずじまいでした。が、会も終りにかけて、マウンテンのメンバーが一人、多くのファンに囲まれて会場に現れました。 初期からドラマーとしてマウンテンのタイトなリズムを支えていたコーキー・レイングでした。
僕は悲しい場所で嬉しい気分も味わえたわけです。彼とは握手をしましたがそれ以上の会話やエピソードはありませんでした。


右がコーキー。


これがニューヨークで初めての「追悼の経験」になったわけですが、それがよりによって僕のヒーローだったミュージシャンのものだったとは悲しい皮肉でありました。

今、最近ゲットした1970年オハイオでのロックフェスティバルの映像をDVDで見ています。オープニングはグランドファンク。その後マウンテンが登場しています。
在りし日のパッパラルディが歌う「想像されたウエスタンのテーマ」にいろいろなことが思い出されてジーンときています。




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2 コメント

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若かりし頃、 (大阪 竹川)
2006-05-20 23:35:51
大阪厚生年金会館でマウンテンのライブを見ました。当時は今と違って必ず前座のバンド演奏があり、テンイヤーズ・アフターにはプロコル・ハルムが、E・L・Pにはフリーが、マウンテンには竹田和夫率いるクリエイションがオープニング・アクトを行い、一粒で二度美味しい思いをしていました。フェリックスはその時赤いレンズのサングラス(色メガネ?)をしていて、私にはそれがメッチャカッコよく写り大阪中探して買ったのを思い出しました。長時間掛けられるようなシロモノではありませんでしたね。 笑い
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そうそう! (igakun-bass@発行人)
2006-05-21 01:09:54
>竹川 さま



赤のサングラス、思い出したよ。でも世界が全部真っ赤に見えるなんて、どう考えたって異常だよね。



大阪でのライブは後に「ツインピークス」というライブアルバムになったんだよね。

武道館公演の出来がよくなかったので、あの頃、大阪のファンはラッキーだったな、と思ったもんです。

ただし、初来日時はすでにマウンテンは分裂していたので、ピンチヒッターに当時名も無いドラマーとギタリストが同行したんだよね。



オリジナル・メンバーで観たかったよね。
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