「人間って、死ぬもんなんだよね……」

私が明日、死ぬとわかったら「自分にも相手にも優しくなる」
人間は、いつ死ぬかわからないんだ…みんなに優しくしよう。

ディヤン-スートラ (瞑想の道) 第一章 02

2013-02-22 23:41:07 | OSHOの講話
(…種子はすでに内在しており、それが育ちはじめるのだ。しかしそれが育つのは、あなたが自らの渇きに暖かみを、自らの渇きに熱や炎を注ぐことができたときだけだ…)


神性を渇望すればするほど、ハートの中に潜む種子が育ち、それが芽生えて神性となる可能性、その殻が割れて 花を咲かせる可能性は高まる。


神性の体験について考えたことがあったら、静寂や真理への欲求を経験したことがあったら、内なる種子が 芽生えを渇望しているのだと理解しなさい。
内側に秘められた渇きが、満たされることを欲している。

非常に意義ある奮闘が 内側で起こっていることを理解しなさい。

あなたは この奮闘を助け、支えなくてはならない。
それを 支えなさい。
種子が芽生えるだけでは不充分なのだから。
さらに滋養のある環境も必要だ。

種子が芽を出したからといって、花も咲かせるわけではない。
そのためには、さらに多くのことが必要となる。

ーーー略ーーー

一粒の小さな種子には、森全体をつくり出す 力と可能性がある。
地球全体を 樹木で覆い尽くす可能性をはらんでいる。
だが、この途方もない 力と可能性を持つ種子が破壊され、何も出てこないこともあるのだ。

そしてこれは、一粒の種子の可能性にすぎないーーー人には それより遥かに可能性がある。
一粒の種子は、実に壮大なものを 生み出すことができる……。

ひとつの小石を 核爆発を引き起こすのに用いるとーーーそこから 途方もないエネルギーが生み出さすことができる。

実存の内側や意識の中で この核融合を体験するとき、この開花、この爆発、そのエネルギーと光こそが 神性の体験だ。

わたしたちは、神性を 外側から体験することはない。
意識の爆発によって 自らがつくり出したエネルギー、成長、実存の開花、そのエネルギー自体が 神性だ。
そして あなたには、このエネルギーに対する渇きがある。

だから、わたしは あなたを歓迎するのだ。


だが、ここに来たからといって、この渇きを抱いているとは限らない。
単なる見物人として、ここに来ているのかもしれない。
漠然とした好奇心から、ここにいるのかもしれないーーーしかし 表面的な好奇心では どんな扉も開かないし、ただの 見物人には 何の秘密も明かされない。

生においては、何を受け取るにも支払いをし、多くのものを 犠牲にしなければならない。


好奇心に価値はない。
だから、好奇心は 人をどこへも連れていかないのだ。
好奇心は、あなたが瞑想へ入っていくのを 助けはしない。

必要なのは
自由への 本質的な渇きであって、好奇心ではない。


わたしは昨晩、ある人に こんな話をした。
あなたが オアシスの 近くにいて、喉の渇きで 死にかかっているとする。
渇きは 強烈で、水が手に入らなければ すぐに死んでしまうだろうと思うほどの状態に達している。
そのとき 誰かが、飲んだら お前は死ぬのだという条件で 水を差し出したらーーーその水の値段は あなたの命だーーーあなたは 喜びすら感じながら、この条件を呑むだろう。

死が 決定的なとき、渇きをいやしてから死んで、どうしていけないものか?


この強烈な 渇望と切望を 内側に携えているなら、この途方もない圧力のもとで 内側の種子は割れ、成長しはじめるだろう。
種子は ひとりでに芽生えることはない。
ある状態が 必要だ。
その 堅い外皮にひびが入り、中の柔らかい芽が伸びるには、強い圧力と 充分なぬくもりが必要だ。

わたしたち誰もが この堅い外皮を持っている。
そこから出たいのなら、単なる好奇心では無理だ。
だから、このことを 覚えておきなさい。
単に 好奇心からここにいて、好奇心に とらわれたままでいるなら、あなたを助けるためには何もできない。
また 見物人としてここにいて、孤立したままでいるなら、あなたのためには何もできない。


だから、一人一人が 自分の内側を見つめ、神性への 真摯な渇望を抱いているかどうかを 見定める必要がある。
誰もが こう自問しなければならないーーー「わたしは真理を知りたいのだろうか?」

神性への渇きが本物か、真理を、沈黙を、至福を求めているかどうかを はっきりさせなさい。
そうでなければ、ここで何をしようと 意味はないと理解することだ。
目的がなければ、それは 無意味になるだろう。

無意味な努力が 実を結ばなくとも、瞑想の責任ではないーーー責任は あ な た にある。


だから 始めるにあたって、自分の中に 真の探求者を探すことが必要だ。

そして この点をはっきりさせなさいーーーあなたは 本当に 何かを求めているのか?
もし そうなら、それを 見出だす方法はある。


昔、仏陀が ある村を訪れていた。
一人の男が 尋ねた。
「あなたは 毎日のように、『誰もが光明を得られる』とおっしゃいます。
だとしたら、どうして全員が光明を得ていないのですか?」

「友よ」 、仏陀は答えた。
「ひとつ やってみなさいーーー、村人全員の名簿をつくり、名前の脇に それぞれの欲望を書くのだ」

男は 村へ行き、みなに尋ねたーーーそこは小さな村で、わずかな人々しかいなかった。
彼らは 答えてくれたーーー夜になって男は戻り、仏陀に 名簿を手渡した。
仏陀は尋ねた。
「これらの人々の何人が、光明を求めているかね?」

男は愕然とした。
光明を望むと記された人は、一人も いなかったのだ。

仏陀は言った。
「わたしは、誰もが光明を得られると言う。
しかし、誰もが光明を望んでいるとは言わないーーー」


誰もが 光明を得られるということと、誰もが 光明を望んでいるということは 格段に違う。
もし あなたが望むのなら、それは 可能だと見ていい。
あなたの探求が 真理に対するものだとしたら、この世の どんな力も あなたを引き止められはしない。
だが、真理を 渇望していないなら、同じように どんな力も、あなたに それを授けることはできない。


だからまず、自分の渇きが 本物かどうかを 吟味することだ。
もしそうなら、道は用意されていると 安心していい。
そうでなければ 道はないーーーあなたの渇きこそが、真理への道となる。

(つづく)

ディヤン-スートラ (瞑想の道) 第一章 01

2013-02-21 21:49:42 | OSHOの講話
第一章、瞑想の土台 (P.9~10)

親愛なる人たちへ

はじめに、あなたがたを歓迎したい。

それは あなたがたが 神性への渇望を抱き、ありきたりの生から 探求者の生への向上を望み、世俗的な欲望に屈せず、真理への渇きを抱いているからだ。


真理への渇きを感じたことのある人は幸運だ。
無数の人が生まれる中で、真理への渇望を覚える人は ほんのわずかしかいない。

真理を知ることは、大いなる祝福だーーーだが、それに対する渇望を抱くことも、同じくらい 大いなる祝福なのだ。
たとえ、それを成就しなくとも構わない。
だが、この渇きを経験したことが まったくないとしたら、実に不幸なことだ。


わたしは、真理を知ることが 重要なのではないと言いたい。
重要なのは、あなたが それを渇望していること、その体験に向けて 全力を尽くしていること、そのために 懸命に努力し求めていること、この目的のために、できることは 何でもしようと決意していることだ。
にもかかわらず、それを成就しないとしても 問題はない。

しかし、この渇きを まったく体験したことがないならーーーそれは 最大の悲劇だ。

わたしはまた、真理を知ることは、それを真摯に求めることほど重要ではないと言いたい。
その あこがれ自体が歓びだ。
欲望が 無意味なものに対してだったら、手に入れても 歓びはないだろう。
しかし意味あるもの、究極なるものを求めて 手に入らない場合、それを 手にしなくとも、あなたは 歓びに満たされる。

繰り返そう。
つまらないものを欲して、それを得たとする。
それでも、究極なるものを求めて得られないほうが まだ幸福だ…手に入らなくともなお、あなたは 歓びと幸福感に満たされるだろう。


神性は、それを 探求する情熱に応じて 内側に芽生えはじめる。
至高の魂や エネルギーが、外側から あなたの存在の中へ 入っていくということではない。

種子は すでに内在しており、それが 育ちはじめるのだ。

しかし それが育つのは、あなたが 自らの渇きに 暖かみを、自らの渇きに 熱や炎を注ぐことができたときだけだ。

(つづく)