「人間って、死ぬもんなんだよね……」

私が明日、死ぬとわかったら「自分にも相手にも優しくなる」
人間は、いつ死ぬかわからないんだ…みんなに優しくしよう。

ディヤン-スートラ (瞑想の道) 第一章 06

2013-02-24 23:21:14 | OSHOの講話

三番目に、この三日間のあいだ、あなたは 今夜までと同じようなやり方で生きることはないだろう。

人間は 習慣だらけのロボットだ。
もし 自分の習慣の範囲にとどまるなら、瞑想への 新たな道は 非常に難しいだろう。
だから、いくつかのことを変えるよう、あなたに提言しよう。


ひとつの変化は、この三日間、話を できるだけ最小限にとどめることだ。
お喋りは 今世紀最大の不幸のもとだ!
あなたは 自分がどれだけ喋っているか、気づいてさえいない。
あなたは 朝から晩まで、眠るまで 喋り続ける。
誰かに 話しかけているか、話しかける人が誰もいないと 自分に話している。


この三日間は、絶え間なく喋る習慣をやめることに意識的でありなさい。

それは 単なる習慣だ。

これは 瞑想者にとって 極めて大切なことだ。

三日間、できるだけ話を しないでほしい。
敢えて話すとき、それは 純粋なものであるべきだ。
日常の ありふれたお喋りではいけない。

実のところ、毎日 いったい何を話しているのかね?
それには 価値があるのかね?
話さなかったら、何かよくないことでもあるのかね?

あなたは ただお喋りをしているにすぎないーーー たいした価値はない。
話さないとしたら、ほかの人の害になるかね?
あなたの 話を聞かないと、ほかの人は 何かを逃したとでも思うのだろうか?


この三日間、誰とも あまり話さないことを 心にとめておきなさい。

これは 途方もなく助けになる。

そして もし敢えて話すなら、瞑想に関することに限るといい。
だが、
まったく話さない としたら そのほうが遥かにいいーーーできるだけ 沈黙していなさい。

わたしは、あなたに 沈黙を強制したり、言いたいことは 書いたりというように厳しくするつもりはない。
話すのは 自由だ。
でも お喋りはいけない。

必要が あるときだけ、意識的に話しなさい。


このことは 二通りに あなたを助ける。
ひとつの恩恵は、話すことで失われるエネルギーを すべて保存できることだ。
すると、そのエネルギーを 瞑想に用いることができる。

第二の恩恵は、それが あなたを他人から 切り離し、そのときあなたは 単独のうちにあるということだ。

わたしたちは この山間の地にやって来た。
ここに集まった 二百名の人々全員が、ただ互いに話し、互いにお喋りするつもりだとしたら 無益なことだ。
だとしたら、あなたは これまでと同じように 依然として群衆の中にいて、沈黙を体験できないだろう。

沈黙を 体験するには、ただ山中に いるだけでは不充分だ。
自分を 他者から 切り離し、独りになる必要がある。

(つづく)

…猫(動物)が好きな わたしーーー「ウル ウル なってもたぁ!←(関西弁)」

2013-02-24 13:39:39 | 日記

わたしんとこに、テレビなぁ…ないねん!

…ここ十年以上、見てないねんヮ。

せやから、ときどき YouTube 探して…動画、楽しんでるねんけどなぁ…。

今日の朝、見たんを 分かち合いたいと 思てん。

…TV番組の「志村動物園」を zizisama19 と言う 投稿者が 編集してる「ハイジ ネコ」とゆぅ動画の題名ですぅ。

『見てて、(T^T) うるうる (T^T) してもたぁ…』


【YouTubeの検索枠に「ハイジ ネコ」と書いて、ボタン押す! (投稿者は( zizisama19 ) なぁ)】

…「ハイジ ネコ」見てたら、途中で 切れるから、続きの「ハイジ ネコ 2」探して…見てな!



ーーー犬も そぅやけど、ネコも【相手を受け入れたとき、おなか見せるんやでぇ…】

…ほんなら、楽しんで「(T^T) ウルウル してなぁーーー」

ディヤン-スートラ (瞑想の道) 第一章 05

2013-02-24 11:22:11 | OSHOの講話
(…人が常に不幸なのは、自分の持てるものを忘れ、手に入らないものを得ようとするからだ。
生に対してこのような基盤をもつのは、完全に間違っている。
自分の持てるものを理解し、それをもとに生きる人間になりなさい。)


どこかで 読んだのだが、ある男が もう一人に 不満をもらしていた。
「僕はひどく貧乏で、何も持っていないんだ」

すると もう一人の男は言った。
「君が それほど貧乏なら、ひとつ できることがある。
わたしは 君の右目が欲しい。
五千ルピー出そう。
五千ルピー取って、右目を渡すんだ」

最初の男は言った。
「そいつは とても無理だ。右目は 渡せないよ」

すると 相手は持ちかけた。
「両目で 一万ルピー出そう」

再び最初の男は答えた。
「一万ルピー! だが、それでも 目は渡せない」

ついに、相手は「君の命をくれるなら、五万ルピー 出そう」と持ちかけた。

このとき最初の男は「でも それは不可能だ! 自分の命は 渡せない」と言った。

相手の男は 言った。
「つまり、君は 価値あるものを たくさん持っているということだ。
一万ルピーでも 売れない両目があり、命があるーーーなのに君は 何も持っていないと言っていたのだ!」

わたしは、こういうたぐいの人間について、こういうたぐいの考えについて話している。


あなたが 持っているものを 尊重しなさいーーーたとえ ささやかであろうと、瞑想を通して体験したこともだ。
そのことを思い、そのことを語りなさい。
なぜなら 体験するか否かは、この考え方に より大きく左右されるからだーーーそして 楽天性は さらに多くのことを生み出す。
そして、手に入らないものというのは……。


ある女性が わたしのもとによく来ていたーーー彼女は 教養ある大学教授、サンスクリット学者だった。
彼女は 七日間の 瞑想キャンプに参加していた。
そして キャンプの初日、瞑想のあとで わたしのところに来て言った。
「お許しください。わたしには 神性とのコミュニオン(交感)が まったくないのです」

それは 実験の初日にすぎなかったのに、彼女は 神性と出会っていないと言ったのだ…!

そこで わたしは言った。
「もし 神性と出会っていたら、それは 危険なことだった。
というのも、それほど簡単に 神性と出会えるなら、あなたは それを尊重しないだろうからね」。

さらに こうも言った。
「十分間 目を閉じ 沈黙して座っていれば、神性を知る用意が整うと考えている人は、本当に愚かに違いない」


だから、わずかであっても 静寂の閃きを体験したら、太陽全体を見たのだと考えなさい。
ごくささやかな光りの体験でも、太陽に至るのを 助けてくれる。

暗い部屋に 座っていて 一条の光線を見たら、二通りに対処できる。
ひとつは
「わたしを取り巻く深い闇に比べたら、このかすかな光線が 何になるだろう?
かすかな光線に 何ができる?ーーーわたしの周りには これほどの暗闇があるというのに」と言うこと。

もうひとつは
「この暗闇にもかかわらず、少なくとも 一条の光りがある。
そして その光線のほうへ行けば、太陽が存在する源泉に 辿り着くだろう」と考えることだ。

だから わたしは、暗闇のことばかり考えないように と言う。
たとえ かすかでも、わずかであっても 光線があるなら、それに集中しなさい。
それは あなたに肯定的な見方を 芽生えさせてくれるだろう。

普通、あなたの生は 正反対だ。
わたしが 薔薇の茂みを見せたら、あなたは 言うだろう。
「そこに 見るべき何ものがあるというのです?
存在は まったく不公平です。
薔薇の花は 三つか四つなのに、棘は何千とあるのですから」。
これは ひとつのとらえ方であり、ひとつのアプローチだ。

別の とらえ方なら こう言うだろう。
「存在は 実に神秘的です。
あの何千もの棘の中から 薔薇を創造したのですから」。

あなたは こんなふうにとらえて言うこともできるだだろう。
「あの棘だらけの中に、一輪の薔薇……。
神秘的な世界ではありませんか!
あの棘だらけの中で 薔薇が咲く可能性たるや、本当に奇跡のようです」


だから わたしは、あなたに 二番目のアプローチをとってほしい。
この三日間、瞑想の中でとらえた かすかな希望の光線から土台を築き、それを 堅固なものにしなさい。


三番目に…

(つづく)

ディヤン-スートラ (瞑想の道) 第一章 04

2013-02-23 17:10:01 | OSHOの講話
(…この三日間は、ごく楽天的な気分を保ちなさい。)


今晩 寝るときは、楽天に満ちて眠りにつきなさい。
そして 明日の朝起きたら 何かが起こるだろう、何かが起こるはずだ、何かが為されるはずだという確信とともに眠りなさい。


楽天的な態度をとりなさい。
こうも言い添えたいーーー長年の経験から 結論に達したのだが、人間の否定性というものは 非常に強くなり得る。
だから 何かを達成しはじめていても、否定性ゆえに それが見えないことがある。

以前、ある人が 妻を連れ、よくわたしのところに来ていた。
はじめて会ったとき、彼は 妻が眠れないのですよと言った。
彼は わたしに彼女の状態を説明したーーー「彼女は、薬なしでは まったく眠れません。
しかも 薬を使ってすら、三、四時間しか 眠れないのです。そして妻は 怖がっています。
奇妙な恐怖心が、彼女を掻き乱しているようです。
家の外に出るのは怖がるし、家で寝ていると 家が崩れるのではないかと恐れるのです。
近くに 誰もいないと、独りだったら死んでしまうと怖がります。
だから 常に誰かが近くにいないといけません。
夜は 非常事態に備えて、自分のそばに薬を すべて置いておくのです」

わたしは ちょっとした瞑想を始めたら 助けになるだろうと助言した。
彼女は 実験を始めた。

七日後、彼に会って尋ねた。
「どうなったかね? 奥さんは どんなかね?」

彼は言った。
「たいして進歩はありませんーーーよく眠るだけです」

一週間後、再び彼に会って尋ねた。
「何か 変化は?」

彼は言った。
「あまり状態は 変わっていません。でも、少し怖がらなくなりました」

また七日たってから、彼に再び会って尋ねた。
「何か 起こったかね?」

彼は「取り立てて 何も」
「いまでは、いくらか眠ろうとしています。
怖がらなくなり、もうそばに 薬を置くこともなくなりましたーーーこんな程度です」と言った。


わたしは これを否定的な見方と呼ぶ。
この男は 何かを体験したとしても、それを 見極めることも、認めることも できないだろう。
この人の中には、こうした見方が 組み込まれている。

否定的な人は 何も体験できないし、実際に何かを 体験したとしても、それを 認められないーーーそして、否定的でなければ可能な 多くのことを妨げる。


肯定的なアプローチを とることに加えて、わたしは こんなことも提言しよう。
この三日間は 自分に 起こることだけを考えるようにーーー起こらないことに 思いをめぐらせてはいけない。

この三日間、何が起ころうとも 見ていなさい。
そして 起こらないことは 忘れてしまいなさい。

実際に 体験したことだけを 覚えておくこと。
もし ささやかな安らぎ、静寂を 味わったのなら、それを はぐくみなさい。

それは あなたに希望を与え、あなたを前に押し進めてもくれるだろう。

起こらなかったことに 滋養を与えたら、あなたは 気勢をそがれ、実際に起こったことも 台なしになる。


だから この三日間、瞑想の実験の中で、体験した ささやかなことすべてに注意を向け、それを 進歩の礎(イシズエ)としなさい。
起こらなかったことに エネルギーを 注いではいけない。


人が 常に不幸なのは、自分の持てるものを忘れ、手に入らないものを 得ようとするからだ。

生に対して このような基盤をもつのは、完全に間違っている。

自分の持てるものを理解し、それをもとに生きる人間になりなさい。

(つづく)

ディヤン-スートラ (瞑想の道) 第一章 03

2013-02-23 10:31:41 | OSHOの講話
(…自分の渇きが本物かどうかを吟味することだ。もしそうなら、道は用意されていると安心していい。そうでなければ道はないーーーあなたの渇きこそが、真理への道となる。)


前置きとして 二番目に言っておきたいことは、あなたは 何かに対して しばしば渇きを抱きながら、欲するものを手にする見込みはまったくないと思っていることだ。

あなたは 欲求を抱いているが、それについて 楽天的でない。
欲求は あるものの、絶望感を伴っている。


今、はじめの一歩が 楽天的に踏み出されるなら、最後の一歩も 楽天的に終わるだろう。
このことも理解しなさいーーーはじめの一歩を楽天的でなく踏み出したら、最後の一歩は 打ちひしがれて終わるだろう。

最後の一歩を 満足と成果のあるものにしたければ、はじめの一歩を 楽天的に踏み出すことだ。


この三日間、わたしは そう言い続けるーーーそして 生きているかぎり言い続けるだろうーーーあなたは ごく楽天的な態度をとるべきだ。

意識の状態に関するかぎり、自分の行為が 積極性と消極性のどちらに根差しているのかに大きく左右されると、気づいたことはないだろうか?

はじめから 悲観主義者だったら、木の枝に座りながら 同時に、その枝を 切り落としてしまうようなものだ。


だからわたしは あなたに言おう。
この探求においては、オープンであることが とても重要だ。

楽天的であるということは、この世に 真理を理解した人が たった一人しかいなくても、神聖な至福や 安らぎを体験した人が 人類史上にたった一人しかいなくても、自分だって それを体験できない理由はないと思うことだ。


その生が 真っ暗闇で、その望みが まったく日の目を見たことのない、幾多の人々に 目を向けてはいけない。

歴史の中で 真理を 体 験 し た 人々に 目を向けなさい。

決して 木に育つことのない種子に 目を向けてはならない。
それは 腐って、ゴミになってしまった。

成功し、神性を体験した幾人かの人に 目を向けなさい。

そして覚えておくように。
それらの種子に可能だったことは、すべての種子に可能だ。

ある人に 体験可能なことは、ほかの人も 体験できる。


種子としての あなたの可能性は、仏陀や マハヴィーラ、クリシュナ、キリストのものと同じだ。
自然は、光明に関して えこひいきをしなかった。
どの人にも 等しく可能性がある。
しかし そう見えないのは、この可能性を 現実に変えようとしない人が 大勢いるからだ。


だから 楽天的でいることは、基本的な必要条件だ。
もし誰かが 安らぎを体験し、至福を体験したことがあったのなら、自分にも 可能性があるという確信を持ちなさい。

悲観的になり、自尊心を 捨ててはいけない。
悲観的になることは、自分を 侮辱することだ。

それは、自分には 真理を体験する価値がないと見なしていることだ。

わたしは あなたに言おう。
あなたには 価値が あ る 、きっとそれを 達成するだろう。


やって確かめてごらん!
あなたは 生涯を失望感とともに生きてきた。
さしあたり、この三日間の瞑想キャンプでは 楽天的な気分を養いなさい。

究極なるものが 起こること、必ずそれが起こることに対して、できるかぎり楽天的でありなさい。
なぜか?
外側の世界では、楽天的に対処しても 成功しないことがある。

だが内側の世界では、楽天性は 実に有効な手段だ。

あなたが どこまでも楽天的なら、体のあらゆる細胞が 楽天に満ち溢れ、肌のあらゆる毛穴が 楽天に満ち溢れ、すべての呼吸が 楽天に満ち溢れ、あらゆる思考が 楽天の光を受ける。

あなたの生命力は 楽天で脈打ち、あなたの鼓動は 楽天にみなぎる。

あなたの存在全体が 楽天に満たされるとき、それは あなたの内側に 究極なるものが起こり得る状況をつくり出す。


悲観性も ある種の人格をつくり出すーーー全細胞が 泣き、悲しみ、疲れ、落胆し、生気を失ったような性格ーーー生きているのは 名ばかりで、魂は 死んでいるようなものだ。
この人が 何かを探求する旅に出たら……。


スピリチュアル (霊的) な道の旅は、もっとも難儀な旅だーーーこれより高い山の頂きに登った者は 誰もなく、これより深い海に潜った者は 誰もいない。

自己の深みは もっとも深遠であり、その高みは 比較なくそびえている。

この道を歩こうと思う者は、と こ と ん 楽天的でないといけない。


だから あなたに言おう。
この三日間は、ごく楽天的な気分を保ちなさい。

(つづく)