「人間って、死ぬもんなんだよね……」

私が明日、死ぬとわかったら「自分にも相手にも優しくなる」
人間は、いつ死ぬかわからないんだ…みんなに優しくしよう。

ディヤン-スートラ (瞑想の道) 第一章 01

2013-02-21 21:49:42 | OSHOの講話
第一章、瞑想の土台 (P.9~10)

親愛なる人たちへ

はじめに、あなたがたを歓迎したい。

それは あなたがたが 神性への渇望を抱き、ありきたりの生から 探求者の生への向上を望み、世俗的な欲望に屈せず、真理への渇きを抱いているからだ。


真理への渇きを感じたことのある人は幸運だ。
無数の人が生まれる中で、真理への渇望を覚える人は ほんのわずかしかいない。

真理を知ることは、大いなる祝福だーーーだが、それに対する渇望を抱くことも、同じくらい 大いなる祝福なのだ。
たとえ、それを成就しなくとも構わない。
だが、この渇きを経験したことが まったくないとしたら、実に不幸なことだ。


わたしは、真理を知ることが 重要なのではないと言いたい。
重要なのは、あなたが それを渇望していること、その体験に向けて 全力を尽くしていること、そのために 懸命に努力し求めていること、この目的のために、できることは 何でもしようと決意していることだ。
にもかかわらず、それを成就しないとしても 問題はない。

しかし、この渇きを まったく体験したことがないならーーーそれは 最大の悲劇だ。

わたしはまた、真理を知ることは、それを真摯に求めることほど重要ではないと言いたい。
その あこがれ自体が歓びだ。
欲望が 無意味なものに対してだったら、手に入れても 歓びはないだろう。
しかし意味あるもの、究極なるものを求めて 手に入らない場合、それを 手にしなくとも、あなたは 歓びに満たされる。

繰り返そう。
つまらないものを欲して、それを得たとする。
それでも、究極なるものを求めて得られないほうが まだ幸福だ…手に入らなくともなお、あなたは 歓びと幸福感に満たされるだろう。


神性は、それを 探求する情熱に応じて 内側に芽生えはじめる。
至高の魂や エネルギーが、外側から あなたの存在の中へ 入っていくということではない。

種子は すでに内在しており、それが 育ちはじめるのだ。

しかし それが育つのは、あなたが 自らの渇きに 暖かみを、自らの渇きに 熱や炎を注ぐことができたときだけだ。

(つづく)