誇り高き日本の歴史

学校での歴史教育は大東亜戦争の敗戦で歪められ、真実は30%程度に過ぎないため真の国史を明らかにします。

古代天皇が世界を統治した!

2017-01-07 20:10:40 | 古代史


第四章 古代天皇が世界を統治した!

一、偽書「続日本紀」

日露戦争当時、満州に派遣されて川村景明陸軍中将と、その参謀だった浜名寛祐は、ラマ教寺院で古代に存在した契丹国の史書「契丹古伝」を発見、これがきっかけで明治政府も東アジアの古代史研究に着手します。
 ただ、東アジアの古代史については、日本にも日本書紀の"ウラ本"と言われる「続日本紀(しょくにほんぎ)」という平安時代初期に編纂された勅撰史書があります。

 その「続日本紀」によると、古代、はじめ朝鮮と満州、さらには日本海方面全域を支配した高句麗という国があったが、白村江の戦いの後、高句麗は崩壊、代わって唐が支配した。が、その後、高句麗最後の宝蔵王の息子(天武天皇)が抵抗運動を展開し都を平壌から飛鳥に移転(壬申の乱)、さらにその後、天武天皇は満州の独立を目指し大伴氏を大陸に派遣、渤海国を建国し、大伴氏は渤海国の王・大氏となって日本の天皇に忠誠を誓いたびたび使者を送ってきた。そういう経緯から、日本と渤海国は兄弟関係の国であると結論づけています。

 ところで、この「続日本紀」は、はじめは文武天皇元年(六九七年)から天平宝字元年(七五七年)、孝謙天皇の治世までを扱う三十巻の曹案として作られました。

 が、内容に疑義があるとして光仁天皇が修正を石川名足らに命じましたが、天平宝字元年紀を紛失し、未遂に終わったとされています。しかし、この前後には政争事件も多かったため、意見を纏めることが出来ずに"紛失"という事にしたとする説もある怪しい文書です。

 現に、平安時代初期は、”天孫族(騎馬民族秦氏系、藤原氏系)"の影響力が拡大しつつある時期で、漢字使用の強要と神代文字の封印、古事記・日本書紀以前の古史古伝の焚書、日本の支那化政策に抵抗した菅原道真(後の南朝系海人族)の太宰府左遷等が起きた時期でもありました。

二、「日本民族半島起源説」は誤り

 が、近代に入ってからも「ロシアへの対抗」という狙いでしたが、「満鮮経略」という日本国の国是として、漢族、朝鮮族、満州族、蒙古族の融和を目指す「五族協和」による「大亜細亜主義」が説かれました。が、近年の遺伝子研究の結果、日本人と朝鮮族、漢族の共通性は薄いことは、「古代朝鮮の新羅、百済は日本が作った!」のところで詳述します。

 ともあれ、そういう意味で、古代の満州、朝鮮北部に存在した「渤海国」、さらにその後成立した「契丹国」との関わりは否定できませんが、この点に関して支那の戦国時代の史書「山海経」によると、「平壌あたりにあった『蓋国』は倭人の国であり、朝鮮半島には元々、倭人(日本人)が住んでいた」と書かれています。

 だとすれば、江上波夫(東京大学)の唱えた「日本人や天皇家の起源は朝鮮半島にある」という「半島騎馬民族説」は誤りで、逆に、元々日本人が朝鮮半島にいた。が、その後、支那の力を背景にした朝鮮族の祖先であるツングース系扶余族に押され半島から撤退した、という説が説得力を帯びてくるのです。

 これを裏付けるように、支那の他の史書「史記」や「漢書」「後漢書」「三国志」には、朝鮮半島南部は倭人が治め、朝鮮半島史「三国遺事」では、スサノオを神とする「辰王(=秦氏?)」とその宗主下にある「月支国」「日華国」は倭国に帰ってしまったと記されています。

 さらに、支那の西安郊外に碑林というところがあって、そこには漢字の発明者といわれている「蒼頡(そうきつ)」という人物が残した碑文があり、未だ未解読のままですが、なんと日本の神代文字である「アイヌ文字」と「豊国文字」で解読できることから、蒼頡は日本人だった可能性も考えられます。 

三、「契丹古伝」にみる世界の超古代史

 そこで、カギを握るのが冒頭に挙げた「契丹古伝」になってきます。以下では「日本探検協会・高橋良典氏」の仮説や、「藤原氏の正体(関裕二氏)」を参照しながら説明します。

 さて、古代日本に「カタカムナ文字」など、五十三種類に上る独自の「神代文字」があったことはすでに明らかにしましたが、いわゆる"古代史の権威"が、口をそろえてこれを否定し、これまで定説とならなかったのはなぜでしょうか。

 それは、約千三百年前、満州と朝鮮半島、日本海周辺域に台頭していた唐の軍隊が、新羅と連合して「白村江の戦い(六六三年)」で勝利した結果、日本の国政に干渉し、日本にあった固有の文字文化や、古代天皇家の記憶を消し去ってしまったからなのです。

 実際、古代日本が白村江の戦いに敗れ、唐に事実上占領されたことは、「日本書紀」の天智天皇の条のなかに記されています。すなわち、天智四(六六五)年、日本へやってきた唐の使節団の人数が二五四人だったのが、同八年と九年には二千人にふくれあがったとされています。

 また、天智六(六六七)年の記事によれば、この年に九州の太宰府が「筑紫都督府」という呼び名に変わっていますが、この"都督府"という表現は、唐の軍隊が高麗と百済の都をそれぞれ占領したときに「平壌都督府」「熊津都督府」とした例をみてもわかるように、唐の占領軍司令部が置かれた外国の都をさしています。

 したがって、九州の太宰府が六六七年以降、唐による日本占領支紀の拠点となっていたと推測できます。さらに、天智天皇はこの年の春、近江京に遷都し「漢字使用令」を出しています。

 秦・漢帝国以来の支那の諸王朝が、周辺諸国にみずからの漢字文化を押しつけ、支那の宗主権を認めない国を侵略して、その国の文字文化を破壊したことは、秦の始皇帝による"焚書坑儒"など、支那の史書に他の王家の記録を没収した記事がたびたび登場することをみても明らかです。

 これまで私たち日本人は、「支那の漢字文化や律令制度を積極的に取り入れることによって、古代の日本が開明化した」などと教えこまれてきましたが、それは事実ではないようです。

 これを裏付けるように、唐による日本の占領支配の実態には目にあまるものがあったようで、後年、「壬申の乱」に勝利して、唐による日本占領支配に終止符を打ち、独立を取り戻した古代の英雄「天武天皇」も、日本国内を跋扈する唐人に憤慨し、以下のように述べています。「汝らのやからは、もとより七つの悪しきことを犯せり、…常に汝らは謀りごとをもって事わざとなす (「日本書紀・天武六(六七七)年の条」)。」

四、古代支那においても歴史の改ざんが

 ここで、話を「白村江の戦い」以前に戻して事実を究明していくと、古代においては支那による日本支配どころか、漢字の発明者といわれている「蒼頡」が日本人だった可能性も含め、むしろ逆に古代の日本人である「倭人」が支那大陸に先住していた可能性すら見えてきます。

 というのは、支那においても、「史記」以前の歴史のすり替えが行なわれた形跡が窺われるからです。すなわち、漢の武帝が司馬遷に書かせた「史記」は"偽書"であり、司馬遷は「史記」の執筆中、獄につながれ、完成後には殺されてしまったことがこれを物語っています。

 これはちょうど、古事記の編纂に携わった稗田阿礼が、やはり古事記完成後に殺されたという事実と共通しており、この点に鑑みると、日本と支那両国の真の古代史を抹殺しようとした勢力がいたことが推測されます。それは"西から来た勢力"?

 ここで、「契丹古伝」を引用しますと、「その昔、地球は大異変に見舞われ、恐るべき洪水が発生して、海と陸の形はすっかり変わってしまった。

 この異変で地軸が傾いた結果、大地は支那の北西部で縮んで盛り上がり(ヒマラヤの隆起)、南東部で引き裂かれて沈没した(フィリピン海溝の形成)。尭・舜の時代に地球の全土は戦火に包まれ、禹(う)は洪水の後始末に追われた。

 ところが、このような戦争と異変の混乱に乗じて、「人身牛首」の神を祀る者、「蛇身人首の鬼」を祀る者が、西から次々とやって来て、我らの地に住みついた…」。

 「彼らは自らを我ら"東大古族"の神の子孫と偽ったばかりでなく、伏犠(ふくぎ)や神農(しんのう)、黄帝(こうてい)、少昊(しょうこう)なる人物を、我らの王の祖先に仕立てあげ、その系図に自分たちの祖先を繋げ、これら偽りの神と王に対する崇拝を我らに強制して、自らを聖帝の子孫なりと語っている」と。

 だとすれば、通説では、漢民族が支那五千年の歴史の先住者であったかのように説いていますがこれ事実ではなく、「東大古族」といわれていた倭人(日本人)と契丹人の共通の祖先が先住者だと考えられます。ところが、"西から来た人々"によって事実が書き換えられてしまった可能性が出てくるのです。

 そして、史記にある先住者である「禹」は、大洪水を生きのびた「東大国(ティルムン)」の王「スサダミコ」をさしており、「禹」の治めた地域は、息子のギルガメシュが活躍したメソポタミアだけでなく、全世界に及んだと書かれています。だとすると、「スサダミコ」とは"スサノオ"をさしていると考えられます。

 以上は「西族の伝承」と記されたものですが、ここでいう「西族」とは、支那大陸に西から侵入した「アーリア人(漢人…あやひと)」を指し、「伝承」とは、現在のイラク近辺で発見された粘土板に登場するスサダミコが残した「シュメール伝説」をさしていると推測されます。      

 ちなみに、日本のスメラミコト(天皇)は、シュメール語で「シュメールの王」を意味しています。
 そして、決定的なのは、「人身牛首の神を祀る者、蛇身人首の鬼を祀る者が西からやってきた」とありますが、「牛」を神とし、「蛇(龍)」を鬼(悪魔)と考えるのは典型的な欧米思想であり、その淵源は「アーリア人=アッシリア人=アトランティス人」だと考えられるからです。

五、世界王朝だった「鵜芽葺不合朝」 

 また、「契丹古伝」には「耶摩駘記」の他「秘府録」という書があり、そこには「東大国(ティルムン)の王スサダミコは、アジア、アフリカの他、豪州、南北米大陸を五つに分け、"高天使鶏(こまかけ)"とう乗り物に乗って統治していたと記されています。

 この記述は、「古事記」「日本書紀」以前に書かれた「竹内文書」「宮下文書」「九鬼文書」「上記」「和田家文書」「安倍文書」等に書かれた、「日本のスメラミコト(天皇)が、"天之浮船"を使って世界を統治していた」との記述に符合するものです。

 例えば、神武天皇が大和朝を開く以前の王朝として「鵜芽葺不合(うがやふきあえず)朝」がしばしば登場します。「宮下文書」によれば、この「不合朝」を開いた「鵜芽天皇」は、スサダミコ(ホホデミ天皇)の息子とされ、旧約聖書のヨセフの息子エフライムだったようです。

 また「竹内文書」によると、「日本神話のイザナギ天皇は、アッシリアの王女イザナミとエルサレム郊外ゲラサに避難した。この事を知ったヨモツクニ(欧州)の白人王はイザナギを追い返せと二人を追ってきたが、イザナギとイザナミは逃げ道に桃を高く積み上げ、追っ手をかわし、その後、イザナギ天皇は、白人王に『汝をローマ国王に任ず。ネゴイ山の王城に居るべし』と告げたところ、白人王は受け入れた」とあります。

六、世界各地で発見された日本の神代文字

 この傍証として、アルプスのチロル地方に「竹内文書」で"カムナ(神字)"と呼ばれるのと同じ名称をもつエトルリア系の「カムナ族」がおり、かつて古代日本のアイヌ文字を使っていたことが、カモニカ渓谷やピネローロの谷にある遺跡から明らかになっています。

 また、愛媛県越智郡の樹ノ本古墳から出土した漢代の鏡と、国立博物館にある漢代の「単圏銘帯鏡」にある漢字を出雲文字や豊国文字で解読したところ、「ニニギキヲタタエマツル」と「ヒツキヲアタエム」と読め、「ニニギ」とは「ニニギノミコト(=天皇)」であり、「ヒツキ」とは王権を表していると考えられます。

 さらに、三千年以上前の支那・殷の甲骨文字と「阿比留草(アヒルクサ)文字」には四十四の類似文字があり、「阿比留草文字」が三万年前の文字である事からして、甲骨文字は「阿比留草文字」の草書体であると結論づけています。

 これらに関してはすでに述べたように、「契丹古伝」によると、「漢字以前の文字を天字といい、天字以前をト字、ト字というのは殷字であり、殷は元これ倭国(日本)」とあります。

 インドでも日本の神代文字が見つかっています。インダス文明の遺跡モヘンジョダロにある仏塔の刻印を豊国文字で読むと「ユニコーンカムイ(ユニコーン神)」と読め、"象の洞窟"の入り口付近でも「阿比留草文字」と豊国文字を発見、風化が激しい中「マツラバヤ(祭らばや)」と。

 更に驚くべきことに、"現代の書聖"といわれる神代文字研究家の安藤妍雪氏によると、「地球上の一切の文字の源はカタカナで、神の御働きに由来する象神名をアイウエオ、カキクケコなどのカタカナ(カタナムナ文字)で表したものを、後年、弘法大師空海が四十八の平仮名に表現し今日に至っている」。

 さらに、「キリストが日本で習得し故国に持ち帰ったのが「イスキリ文字」、釈迦が持ち帰ったのが「梵字」、それが「サンスクリット語」となり、さらに「ローマ字」になった」と研究成果を発表しています。

七、抹殺されてきた祖先「カラ族」の歴史

 以上の内容は、平安時代に編纂された日本の氏族の系譜を記した「新撰姓氏録」にもあり、「カラ(クル)族が日本人の祖先であり、支那、インド、中東、アフリカまで進出、活躍していた」としています。

 また、インドの古典「マハーバラータ」でも、太古、デカン高原に「カラ族の宮殿」があったが、アーリア人の侵略で廃墟と化したとされ、実際、モヘンジョダロは核戦争でもあったのではないかと思わせるほどの廃墟と化していることは有名です。

 このように、「契丹古伝」が伝える超古代日本と世界の歴史は、その内容があまりにも通説とかけ離れているため、これまで欧米や支那の学者たちが流布してきた世界史の常識からは"トンデモ話"に思えます。

 が、「契丹古伝」によれぱ、日本人と契丹人の共通の祖先である「カラ族(クル族=シウカラ)」の歴史は、エジプト、シュメール、インダス、黄河の地を次々に侵略してきたアッシリア人、つまり、支那で漢人(あやひと)として知られる欧米系アーリア人の手で抹殺、改ざんされてきたと考えられます。

 私たちがこれまで学校で習ってきた古代の歴史、すなわち、支那人、欧米人が流布してきた世界史(=西大国史観)は、秦・漢帝国、ローマ帝国時代以前に、私たち日本人の祖先「カラ族」が、世界各地で文明を築いた事実を封印するための"虚構"であるというのが、「契丹古伝」に貫かれたテーマとなっています。

 ところで、「カラ族」の起源は「ムー大陸」にあったという説もあります。一方、これと並んで、一万二千年前には大西洋上に「アトランティス大陸」があったとプラトンが唱えており、後年、ヒトラーも「ゲルマン民族はアトランティスを起源とするアーリア人である」と語っています。

 ただ、もし「ムー大陸」と「アトランティス大陸」が同時期に消滅し、「ムー人」がユーラシア大陸の東に上陸して西に移動、他方、「アトランティス人」はユーラシア大陸の西(ヨーロッパ)に上陸して東に移動したとすると、カラ族による「東大国(ティルムン)」が世界統治していた事と矛盾します。

 が、ムーはアトランティスより早く沈んだと考えると、ムー人を起源とするカラ族が世界展開の後、アトランティスの消滅でアーリア人がヨーロッパ方面から東に展開して「西大国」を作り、追われたカラ族は最終的に九州に都を置く「東大国(鵜芽葺不合朝)」を作ったとすると整合性が取れます。

 が、「まえがき」でも簡単に述べたように、「天孫降臨」は日本で行われ、日本が世界文明の起源」となって、「カタカムナ人」という神人が超古代の源流日本人(港川人)と融合(DNA操作?)して、ユーラシア大陸とムー大陸を中心に東西に分かれ、西に展開した部族を「カラ族」、東に展開した部族を「クル族」と考えることで、竹内文書にある「天皇が十六カ国に皇子を派遣していた」との記述にも符合します。

 ともあれ、以上のように考えると、私たちの祖先・カラ(クル)族が、かつて「一つの世界(王道のワンワールド)」として築き上げてきた壮大な歴史は、アトランティス人の末裔であるアーリア人(アッシリヤ人、漢人)の手で隠蔽され、捏造の歴史が流布されてきたという仮説が成り立つのです。





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