誇り高き日本の歴史

学校での歴史教育は大東亜戦争の敗戦で歪められ、真実は30%程度に過ぎないため真の国史を明らかにします。

日露戦争とその真相

2017-01-09 01:21:43 | 近代


大戦の敗因を探る、5

1)日英同盟とユダヤ資本

さらに、列強の草狩り場と化した支那では、清朝政府のていたらくに怒った民衆が各地で「義和団事件」を起こします。これに対し、権益保護を名目にしたロシアは満州に大軍を進めて占領してしまい、朝鮮半島への侵攻が時間の問題となります。

ここで日本政府は、英国と手を結んでロシアに対抗すべしとする山県(陸軍参謀総長)や桂太郎(総理大臣)と、GDP比で8対1の大国ロシアと戦う自信のない伊藤、井上らの二派に割れます。

が、軍事大国ロシアの南下政策は、インドを植民地とし揚子江一帯に権益を持っていた英国にとっても脅威で、日本と英国は利害を共通にしていました。そのため、山県らは、過去一度も外国との同盟を結んだことがない英国と、ロシアを仮想敵国とする軍事同盟「日英同盟」を締結します。

ただ、開戦に際しての大きな懸案は、巨額の軍事費をどう捻出するかでした。世界最強のロシア軍と戦うには、英国製の最新の軍艦から大砲、弾薬まで大量に調達する必要があります。が、当時の日本銀行の金庫にはわずか1億円しかありませんでした。

そこで、日銀副総裁の高橋是清が外債発行のため急遽、英国、米国に赴きロスチャイルド、クーン・ローブらユダヤ系巨大財閥から8億円の調達に成功します。この背景には日本にロシアを攻撃させることによって帝政ロシアを倒し、迫害されていたユダヤ人を救い出す目的がありました。


2)ロスチャイルドの影響を受けた日銀設立

ところで、日本の中央銀行は日本銀行ですが、明治新政府は当初、経済活性化のため欧米流の金融制度を導入しようとして明治5年に国立銀行を設立、金、銀との交換ができない「不換紙幣」の発行権限を与えます。が、明治9年には急速なインフレが加速したため、

明治15年10月に国立銀行を廃止して日本銀行を設立、銀との交換ができる「兌換紙幣」の発行権限を集中させます。ただ、そこに至るには"国際金融王”ロスチャイルドの影響がありました。

ロスチャイルドは三井の大番頭・三野村利左衛門や渋沢栄一と接点があり、渋沢は26歳のときフランスに渡って、アルフォンス・ド・ロスチャイルドの配下にある銀行家のフリュリ・エラールから近代の金融業というものを学び、第一国立銀行(のちの日本銀行)を拠点に約500の会社を作ります。

また、日本銀行を正式に創設したのは大蔵卿だった松方正義(薩摩)ですが、松方も明治10年に渡欧して、アルフォンス・ド・ロスチャイルドの使用人だった仏蔵相レオン・セーから金融制度を学びます。

その中で学んだ欧米の金融制度の特徴は、中央銀行の「信用創造」にありました。例えば、民間銀行が日銀に預ける準備金が1億円あり準備率を1%としたときに、その銀行は100倍である100億円の貸し出しができるという手品のような"裏技"です。

このカラクリは、1844年の「イングランド銀行設立特許状の修正法」や、1913年の「米国連邦準備法」による連邦準備銀行(FRB)設立でも採用されますが、その狙いは通貨の裏付けである「金」が枯渇しても通貨を発行できるようにするためです。(金融の仕組;https://www.youtube.com/watch?v=WGH65g-KDIQ )

ところで、世界大戦の際には、ユダヤ国際金融資本はクーン・ローブ商会のジェイコブ・シフを通じて、欧米だけでなく敵対するドイツにも戦費を貸し、それ以前にはレーニンやトロツキーなどの国際コミンテルンにも金融支援をし、相争わせることによって"漁父の利"を得てきたのです。

このような事情からか、現在の千円札にある湖面に映った山はイスラエルのシナイ山、また不釣り合いな程大きい野口秀雄の左目は、ドル札のピラミッドにあ る"プロビデンスの目"と同じという説もあります。なお高橋是清もジェイコブ・シフと、井上準之助もモルガン商会のトマス・ラモントと懇意でした

ただ誤解が多いのは、日銀は株式会社ではなく日銀法によって設立された行政庁の認可法人です。出資総額は1億円で、日銀法では政府の出資は5500万円を下回ってはならないと決められ、残りの45%は民間からの出資ですが議決権はなく、出資証券はジャスダック市場に上場されています。


3)縄張り意識を持ち始めた海軍

ところで、日清戦争に勝利した海軍は、それまで一つの大本営の下、「参謀総長(山県有朋)」が陸海両軍の統帥権を握っていたことに不満を表明、海軍大臣の山本権兵衛(薩摩)は、海軍の統帥権の分離独立を主張し始めます。理由は、それまでの"陸主海従"を打破したかったからです。

が、これでは国家戦略に基づいた軍部の統一行動がとれません。"陸主海従"に問題があるなら、自衛隊のように「統合幕僚本部」の設置を求めるべきです。が、人材不足の海軍からは「統幕本部長」が選ばれる可能性が低く、結局、"陸主海従"が変わらないことからあくまで「統帥権の独立」を主張します。

この背景には、来たるべきロシアとの決戦は大陸の「満州」が主戦場になり、よって海軍は存在感を示せず、予算獲得などでも後塵を拝する結果になることが予想されたからです。つまり、国益よりも海軍の権益が優先されたのです。これが後の大東亜戦争に大きな禍根を残すことになります。

実際、大東亜戦争の後半でも、戦局が悪化する中、東條英機首相(陸相)から陸海軍の連携強化のために「統合幕僚本部」の設置と海軍からの本部長就任が提案されます。が、海軍大臣・永野修身は「海軍からは本部長は出せない」と拒否し、バラバラな陸海軍による敗北の一因を作ります。

ともあれ、海軍の統帥権の独立の件は、日清戦争を勝利に導いた実績を持つ参謀本部次長の川上操六によって、一旦、葬り去られます。そして日露決戦を前に、大本営参謀本部は「日露決戦は満州で」との方針を立てますが、これに対し海軍は案の定、猛反発。

なんと「大陸も半島も捨てて、日本本土を取り巻く海で海軍が決着を付ける」と言い出します。が、日露戦争初戦において、ウラジオストックにいたたった3隻のロシアの巡洋艦に対馬海峡や東京湾周辺の兵站(通商)線を妨害された経緯に鑑みれば、如何に非現実的で無謀な戦略だったかは明らかでした。

この直後、戦略立案の中心人物の川上が急逝。代わって急遽、すでに陸軍大臣、内務大臣、台湾総督などを歴任している大物・児玉源太郎(長州)が参謀本部次長に就任、政治家としての優れた統括能力を発揮します。

児玉は、「昨今の時局は実に国家の大事なり。対ロ作戦計画において、我が陸海軍の共合の緊要なること今日において急なるはなし。これがためには些々たる意気地の如きは放擲し、大局において帝国を危急の中に救い、終局の大功を収むるにあり。この旨を諒とせられよ」として、

陸軍内部からの不満を抑え、「旅順はロシアの軍港だから陸軍は手を出すな」という海軍の主張と予算面での優遇に同意した上で海軍の統帥権独立を承認、これと引き換えに、海軍による本土と大陸間の海上輸送の確保を取り付け、明治37年(1904年)2月6日に日露国交断絶、戦端を開きます。



4)「日本海海戦」の勝利をもたらした「旅順攻略」

日露戦争における各戦闘の詳細は割愛し、本稿では日本の勝利を決定づけた「日本海海戦」が、巷間いわれて来たような海軍や東郷平八郎によってもたらされた偉業だったかについて、その前提になる「旅順攻略戦」や「明石元二郎による調略戦」から紐解き、疑問を呈します。

当時、世界最強といわれたロシア・バルチック艦隊を破った日本海海戦の勝因は、一般的には敵艦隊の目前で一斉にターンしてT字型の陣形をとる東郷平八郎が採用した"トーゴーターン"といわれてきました。この結果、東郷元帥は、旅順攻略戦で八方塞がりになった乃木希典大将とともに神格化されました。

この「T字戦法」は、一見すると敵に横っ腹を晒すリスクがありますが、タイミングさえ巧く行けば、敵からの攻撃は先頭を行く一部艦船からのものに限られ、逆に、こちらからはほぼ全艦からの先頭艦への攻撃が可能となる有効な戦法です。

実際、この戦法でバルチック艦隊は大混乱、壊滅しました。が、「T字戦法」はあくまで"戦術"であって"戦略"ではありません。日本海海戦での勝利の背景には、陸軍によってもたらされた二つの大きな戦略的勝利がありました。

一つが、「旅順攻略戦」での勝利です。開戦当時、旅順港にはロシアの旅順艦隊がおり、日本本土から大陸への兵員、物資の輸送にとって脅威となっていました。海軍は、すでに遼東半島に上陸していた陸軍第二軍による陸路からの支援攻撃を断り、ロシア艦隊の攻撃を試みます。

が、ロシア艦隊は天然の要害でもある旅順港に引きこもってしまったため、港内に封じ込めようと老朽化した民間船を港口に沈める「閉塞作戦」を三次にわたって試みますが失敗。逆に、要塞砲による攻撃で主力戦艦「初瀬」「八島」を失い万策尽きます。

この頃、欧州から「バルチック艦隊が援軍に来る」との情報がもたらされます。さすがの海軍・山本権兵衛も、事ここに至って陸軍への援軍要請、乃木希典を総大将にした第三軍が編成、派遣されます。が、既に十分語られているように、単純な白兵攻撃を繰り返していただけの第三軍も旅順攻略に大苦戦。

そこで、一足先に満州軍総参謀長に赴任していた児玉が再び登場し作戦を大幅変更、当時、世界最新の24サンチ榴弾砲を持ち込み、203高地へ砲弾を集中する事で見事攻略。高台に設置した観測所からの湾内情報を元に正確な砲撃を行い、ロシア旅順艦隊を殲滅したのでした。

ちなみに、日露戦争での陸軍の軍神としては乃木ばかりが注目されてきました。が、同じく長州人だった児玉と比較すると、乃木が「一途で実直な古武士」であったのに対し、児玉は政略、軍略に長けた「合理主義者」だったと評されています。

それを伺わせるエピソードとして、幕末の長州藩で「佐幕派」と目されていた児玉の父は、ある日自宅で襲撃され惨殺されます。外出から帰って来た若干12歳の児玉は、茫然自失の母を横目に淡々と父の遺体を片付けたと伝えられています。

5)「日本海海戦」のもう一つの勝因

バルチック艦隊がリバウ泊地を出港したのは、日本海海戦に先立つ明治37年10月15日ですが、当時、ロシアでは革命が進行しつつありました。また第1回の革命秘密集会がパリで行なわれ、各革命グループが統一行動に出て、各地でデモやストライキが起きます。

そんな中、陸軍の明石元二郎大佐が革命グループのリーダー・シリアスクと接点を持ち、「銃5万丁あれば一斉蜂起できるんだが」との要望を受けます。これを日本の参謀総長・山県に伝えて現金45万円を送金させ、スイスで銃2万4500丁を調達、革命グループに提供、各地で争乱が勃発します。

「戦艦ポチョムキンの反乱」が起こったのもこの頃で、バルチック艦隊の乗組員の中にも革命分子が少なからず紛れ込み、各停泊地で最新の情報を得た上で艦内でも破壊活動が行なわれ、艦隊は1日に平均4回、機関のトラブルなどで進行を停止しなければならなくなります。

また、英国領の寄港地では入港や物資の補給を拒否され、長期の航海で船底に海藻や牡蠣などが付着して速度も落ちてきます。加えて、既に旅順艦隊が壊滅し、単独で戦わなければならないことを知る等して、乗組員の士気も日に日に落ちていました。

そして、明治38年5月27日未明、長崎県五島列島沖で哨戒艦・信濃丸から「敵艦見ゆ!」の無電が発信されます。このとき信濃丸はバルチック艦隊のまっただ中にいましたが、哨戒に当たる乗組員が疲労困憊だったため見落とします。

また、バルチック艦隊側は、先に信濃丸からの無電を傍受したにもかかわらず、ロジェストウェンスキー提督の命により電波妨害活動を行いませんでした。この結果、日本海海戦は日本の大勝利となったのです。

が、この結果を、「自分たちだけによってもたらされた」と勘違いした海軍は、「陸海軍統合戦略無視」、「情報収集・分析(索敵)軽視」、「艦隊決戦優先(大艦巨砲主義)による兵站破壊戦(通商破壊戦)無視」の体質に陥り、後の大東亜戦争敗北に繫がる大きな禍根を残すことになるのです。


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