誇り高き日本の歴史

学校での歴史教育は大東亜戦争の敗戦で歪められ、真実は30%程度に過ぎないため真の国史を明らかにします。

最大の敗因は”内通者”の存在?

2017-01-10 20:54:18 | 現代
大戦の敗因を探る、11

1)事前の戦争計画を無視した海軍

ところで、戦争当時の日本軍人の間で皮肉を込めた話が流行ったそうです。それは「陸軍と海軍が全力で戦い、その余った力で米軍と戦う」だったそうです。敵である米軍と戦う以前に、日本の陸軍と海軍は仲が悪く、統一した動きができなかった事を象徴しています。

もちろん、元を辿れば「陸軍は長州で海軍は薩摩」という背景もあります。が、戦争という非常事態の最中であっても一枚岩にはなれなかったようです。特に海軍の動きはチグハグで、例えば、昭和19年当時の海軍にはまともに動かせる艦船がなかったため、硫黄島には陸軍と同じような陸戦隊が送り込まれています。

が、硫黄島の戦いを指揮した栗林忠道中将の日誌によると、陸の戦いのスペシャリストである陸軍から見て、海軍の将兵がまるで使い物にならず、それどころか邪魔をしてるだけだと、その無能ぶりと海軍への痛烈な批判を書き記しています。



ところで、当初の「対米戦争終末促進案(短期決戦案)」は、1)東南アジアの油田を確保した後、2)インド方面に進み東進してくるドイツと連携して英軍を撃退し、蒋介石、ソ連への補給を絶つ、3)マリアナ諸島線を絶対的国防圏として要塞化し米軍の反攻を迎撃する、4)海軍は伸びきった米軍の兵站を遮断するというものでした。

これに従った陸軍は、支那戦線など亜細亜を舞台にした戦いでは55戦54勝1敗とほとんど負けておらず、インパール作戦は失敗したものの戦線は維持し続けていました。太平洋の島嶼戦では惨敗が続きましたが、それは海軍が陸軍への兵站(補給)を全くしなかったからです。

にもかかわらず、陸軍は、例えば、ペリリュー島や硫黄島の地上部隊が編み出した地下壕を巧み構築し、ジャングルを利用したゲリラ戦で善戦、米軍に多大な損傷を負わせた上に、大戦後のゲリラ戦の原型となって、ベトナムの独立戦争や対米戦争の勝利に貢献しました。

が、海軍は、米軍の兵站(補給)遮断をしなかったため、物量にものを言わせた米軍が次第に形勢を逆転し圧倒。また戦果の過大報告で見通しを誤らせ、さらに「大艦巨砲主義」から急遽、困難な「航空決戦主義」を主張し始め、挙げ句の果てが無謀な"神風攻撃"での消耗戦を招いたのでした。

海軍が米軍の兵站遮断をしなかった点について、米軍側ではどう見ていたかというと、「古今の戦史において、主要な武器が、その真の潜在能力を少しも把握されずに使用されたという稀有の例を求めるとすれば、それは第2次大戦における日本の潜水艦の場合である(ニミッツ)」と。

海軍が当初の戦争計画を無視して意味のない、あるいは、破滅的な動きをしたのは、元々海軍は対米戦について日本が勝つことを望んでいなかったとみられても仕方ありません。一般に大東亜戦争というと陸軍の独走が言われてきましたが、太平洋ではミッドウェイやガダルカナルは勿論、真珠湾攻撃すら海軍の独断で始められたものでした。


2)フリーメイソンが暗躍?

ここらでいよいよ大戦の直接的な敗因に触れていきますが、これに関しては日本史上最大のタブー「敵と内通し日本が敗北することを望んだ奸がいた」という衝撃の仮説があります。このような奸は、明治以来一貫して政、軍、官、財界、更には元老の中にさえいました。

ところで、戦後生まれの日本人は、「海軍が善玉」で「陸軍が悪玉」との印象を抱いています。実際、A級戦犯で処刑された7名には海軍関係者は皆無です。そのため、「英米派が多い(民主的な?)海軍ではなく、軍国主義を妄信した陸軍が無謀な戦争を起こした」との認識を持っています。

が、これは全くの事実誤認で、近年の研究によると、真相は"真逆"だったといえる事実が明らかになりつつあります。というのも、日本海軍の中枢は英米派で色どられ、その内の主要な人物は欧米の息のかかった「フリーメーソン」であった可能性があると考えられるからです。

これら疑惑の人物たちの言い分は、「軍国主義を一掃した上で、日本を一旦解体し、欧米並みの開かれた民主国家に変えることが必要だった」ということでした。それにしても三百万人同胞の命を犠牲にしてまで実現しなければならなかったことだったのか、暗澹たる思いにさせられます。

ところで、ルーズベルトは「海外での戦争には参戦しない」として当選しました。実際、開戦直前の調査では米国民の8割が戦争に反対しています。このためルーズベルトは日本に先制攻撃させ対日戦の大義を作るとともに、米国民の報復気分を高めるという計画を立てました。

これに協力したと噂されるのがフリーメーソンの噂のあったメンバーです。フリーメーソンというのは、世界をピラミッド型の支配構造に変えることを目指していたため、強い力を持っている独立国が邪魔でした。そして最大の邪魔は天皇制を戴き、亜細亜解放を掲げる「日本」だったのです。

確かに海軍は、特に「条約派」といわれるトップの幕僚たちは、日米開戦にも、それに繋がる日独伊三国同盟にも反対していました。が、ドイツが望むように日本が米国を攻めると、米国は太平洋と大西洋とに戦力を引き裂かれ、連合国側全体としては不利になることから反対したとも考えられます。

が、日米開戦が決まると今度は突然積極的になり、順次以下に挙げていくように、当初の戦争計画を無視した意味のない、あるいは敵方に配慮したとしか解釈のしようがない破滅的な動きをして日本を分断します。

例えば、「真珠湾攻撃」は事前に米側に知らされていたとの説があります。当時、日本海軍は秘密保持のため「JN25暗号」を定期的に変更していました。が、連合艦隊司令長官・山本五十六の命令でこれをあえて怠り、海軍が使用していた暗号電報を米国側に筒抜けにさせていたというのです。

実際、真珠湾攻撃に際しては、あえて空母がハワイにいない日を攻撃しました。レキシントンはミッドウェー方面にあり、エンタープライズも飛行機を輸送しての帰路にあり、サラトガは米本土西海岸に。加えて真珠湾は浅いので、撃沈した戦艦も引き揚げて修理し、再び参戦することとなります。

さらに、「真珠湾攻撃で米太平洋艦隊の戦艦を多数沈めたが、空母は取り逃がしてしまった」というのが定説ですが、実は日本海軍は空母以上に重要な標的であった米太平洋艦隊最大の燃料タンクを攻撃しませんでした。もしこれを破壊していれば、米艦隊は2年程度は全く動けませんでした。

当時の記録には、海軍内部から「燃料タンクを攻撃するべき」という意見があったことが記録されていますが、山本はこれを無視、戦艦だけを標的にするよう指示したと言われています。



3)海軍の疑惑の将官たち

この他にも海軍は、太平洋上の戦闘で不可解な動きをします。仮に海軍がミッドウェイやガダルカナル方面等、東展開をせず、インド洋、ペルシャ湾などの西展開しドイツ軍と連携していたら、英国もソ連も支援ルートを断たれ独ソ戦、ひいては第二次大戦での日独の勝利は決定的でした。
 
が、そうしなかった、あるいは、有利に展開した海戦においても止めを刺さなかったことからすると、敵に手ごころを加え、負けることを目的としていたとしか解釈のしようがありません。それぞれの戦局で日本を敗北に導く役割を果たしたと噂される主な人物は次の通り。

・南雲忠一…航空戦の専門家・小沢治三郎をさしおいて、あえて真珠湾、ミッドウェー、南太平洋海戦時の機動部隊司令官を任される。海軍中将。

・源田実…第一航空艦隊参謀、海軍中佐。ミッドウエーで護衛戦闘機を故意に海面近くに引かせ、敵の急降下爆撃を容易にした。戦後参議院議員、米国から叙勲。ちなみに、源田といえば、昭和20年3月19日の米第58機動部隊約350機による呉軍港空襲の際、自らが司令を務める第三四三海軍航空隊の「紫電改」約60機が迎撃、F6Fヘルキャットなど50機あまりを撃墜し、日本側の損失は16機に留まる大勝利と発表した話ですが、米国側の記録では米軍の損失は14機に過ぎず日本側の敗北でした。

加えて、7月24日の空襲でも第三四三海軍航空隊が再び迎撃したが撃墜は16機に留まり、一連の戦いで日本側は約780人が戦死、約2000人が戦傷、工廠施設は破壊され、瀬戸内海の要所にB-29から機雷が投下されたため、呉軍港は母港としての機能を完全に失い、日本側の完敗に終わりました。

源田の馬鹿さ加減が顕著に現れた例としては、「一式陸攻」に"人間爆弾・桜花"を搭載して夜間飛行させ、照明弾を発射して海上の敵艦を見つけ、突入させようとの馬鹿げた作戦を立案、実行したことが挙げられます。勿論、全く敵は見つからず、ほぼ全機が途中で燃料切れを起こし空中爆発で多くの飛行兵を死なせました。

・井上成美…第四艦隊司令長官、海軍中将。真珠湾後の珊瑚海海戦で空母ヨークタウンにとどめをささず、また主目的のポートモレスビー攻略をなぜか中止し帰還。ヨークタウンはハワイに戻り、修理されて2カ後にミッドウェー海戦に参加し連合艦隊に痛打を浴びせた。生存。条約派。フリーメーソンの噂あり。

・原忠一 …真珠湾攻撃時の第五航空隊司令官、海軍少将。生存。

・栗田健男 …第二艦隊司令長官としてレイテ沖海戦で米軍撃滅の絶好の機会を目前にしながら"偽情報「ヤキ1カ」電”を名目にして、豊田連合艦隊司令長官の命令を無視して還。海軍中将。戦後(株)栗田工業を創業し東証1部上場。

・古賀峯一…山本の後の連合艦隊司令長官、海軍大将、条約派。遭難と見せかけてオーストラリア方面に逃亡?

・米内光政…海軍大臣、海軍大将。広島への原爆投下を「陸軍を屈服させる(日本を敗北させる?)ための"天佑"だ」と発言。条約派。フリーメーソンの噂あり。 

・山本五十六 ……連合艦隊司令長官、海軍大将、条約派(=英米派)、フリーメーソンの噂あり。ブーゲッッビル島上空で撃墜され戦死したとされるが、後に述べるように、確かな遺体の本人確認が行われた形跡がない。英国に亡命? 

4)「海軍Z事件」と古賀峯一

山本の後、連合艦隊司令長官になった古賀峯一らは、昭和19年3月30日、米大輸送船団が接近中(後に偽情報でることが判明)との連絡を受け、連合艦隊司令部があったパラオからフィリピン・ダバオへと3機の二式大艇で、わざわざ低気圧接近の悪天候の中で移動します。

1番機には古賀峯一、2番機には福留繁中将(参謀長)、3番機には司令部暗号員が搭乗していましたが、到着予定の4月1日になっても1、2番機は消息不明。2番機には艦隊司令部用暗号書と、後のマリアナ沖海戦やレイテ沖海戦の原案となる「Z作戦計画書」が入った鞄が積まれていました。

が、2番機はセブ島沖に不時着し、洋上を漂流中の福留中将は複数のカヌーが接近して来たため鞄を放棄、ゲリラの捕虜となりました。この後、ゲリラ掃討中の大西陸軍大隊長のところに、ゲリラ側から掃討作戦中止の交換として身柄引き渡しが行なわれます。

18日、日本に帰国した福留中将には何のお咎めもないばかりか、事件は「海軍Z事件」として秘匿され、作戦と暗号の見直しを訴えた参謀の意見も無視された結果、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦では大敗を帰すこととなりました。また古賀峯一の乗った1番機はオーストラリアに到着したとの情報も。



5)生きていた?山本五十六
 
これらの者たちは東京裁判で裁かれず(戦犯処刑は全員陸軍)、自決もせず(陸軍は大将8人が自決)、それどころか米内光政や山本五十六、井上成美などのように、戦後「阿川弘之」らのフリーメーソン作家によって「英雄」または「偉人」として賞賛されています。

が、例えば、山本五十六は、すでに戦前から反ユダヤ主義の陸軍系政治結社である「国際政経学会」からフリーメーソン説が言われていて、実際、陸軍の青年将校や国権派壮士(右翼)からも常に暗殺のターゲットにされていました。また戦後、海軍の社交の場であった「水交社」がフリーメーソンのビルになったことからも噂が拡大しました。

ここで山本の経歴を見ると、大正8年、米国駐在となりハーバード大学に留学、昭和の初めには再び渡米して日本大使館付武官に、さらに昭和14年にも三たび渡米し大使館付武官となり、米国社会や民主主義思想に深い感銘を受けたといわれています。

この点、国際政経学会員であった渡部悌治氏は、著書で「山本が司令長官になった頃、ハーバード大学ルートの情報で、米国は山本が長官である間なら勝算があり、悪くても五分五分なので早々に戦端を開くべきだ。理由は、山本がフリーメーソン結社員だからと言われていた」と証言しています。

ところで、山本は戦死した?ということで、靖国神社に”軍神"として祀られていますが、その家族関係を探ってみると、キリスト教との深い関わりが見えてきます。

まず、山本の実兄は、「13歳の時に戊辰戦争の戦場で置き去りにされた体験から、戦争で一番犠牲になる『民』を救うことを考え、そのためにはキチンとした教育をすることが大切だという考えに至り、キリスト教の牧師になった」と言います(http://homepage3.nifty.com/k-haruaki/nagaoka-ojiya2.htm)。
また、山本の孫も洗礼を受けており(http://blog.livedoor.jp/michael4649/archives/50922464.html)、さらに、長岡の山本五十六記念館には山本本人が愛読していた聖書の現物が展示されています。

この他、記念館で確認できる事実は、山本は若い頃から長岡でキリスト教に親しんでおり、ホレーショ・バニスター・ニューエルという宣教師が精神的な師だったということです(http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/489.html)。

また、山本はクリスチャンとして昭和15年、ローマ法王に謁見したしたとの情報もあります(http://www.millnm.net/qanda3/752KhxiDDRuYI44573.htm)。

ところで、山本は、一般には一式陸攻で前線視察中、ブーゲンビル島上空で撃墜され戦死したとされています。が、通常は最低でも30機程度の護衛戦闘機をつけるところを、当日は部下の反対を押し切り、本人の強い希望で僅か6機に削減。

また、生まれて初めて「第三種軍装」というジャングルの中にいても目立たない緑色の軍服を着て、墜落直前に落下傘で降下、密かに戦線を離脱したという見方もあるようです。

さらに、現場で死体発見時、検死しようとした軍医の証言によると、顔面に銃弾が貫通していたため本人確認が出来ず、3日以上経っていたのについ今しがたまで生きていたようで、しかも歯形等詳しく調べようとすると、先に来ていた将校に激しく拒否されたとのこと。

山本生存説を裏付けるかのように、戦後、山本をロンドンで目撃した人物がいるとの情報もあります。ちなみに、生き残った将軍たちのスイスの秘密口座に大金が振り込まれていたことを、終戦後しばらく経ってから知った昭和天皇は茫然自失、「朕は裏切られていたのか!」と慟哭したと、京都皇統関係者から仄聞しています。

6)「原爆投下は天佑」と発言した米内光政

米内光政(海軍大臣・大将)も、戦後、対米戦争に反対した(英米派)ためもてはやされました。が、日米開戦前の日中戦争では、上海事変で海軍陸戦隊を送り込んで、戦線の"泥沼化"のきっかけを作ります。

また、陸軍は中国の首都南京を占領した後、蒋介石側と交渉を進め和平案に合意していましたが、米内はこれに猛反発、廃案にします。もし日中講和が実現していれば、大きな負担になっていた支那派遣軍の撤兵が実現したばかりか、米国も対日戦の大義を失い日米戦争も回避された可能性があります。

開戦後の米内は、引き続き海軍大臣として山本らの不可解な作戦に異を唱えることなく支援します。山本の側近・黒島亀人が言い出した「神風攻撃」などの無謀な作戦にも賛成します。その一方で、近衛文麿、幣原喜重郎、吉田茂ら"反陸軍派(英米派)"の「東条内閣倒閣運動」にも関わります。

米内らが進めた終戦工作は、打倒陸軍による"民主化"という名の"國體破壊工作"でした。これを裏付けるかのように、終戦後、阿南惟幾大将(終戦時の陸軍大臣)の側近で義弟の竹下正彦陸軍中佐の「機密作戦日誌」によると、

阿南陸相の話として、「昭和天皇は、『日本民族を絶滅させないためにも、もはや終戦せねばならぬが、国体護持が必ずしも絶対条件ではない』と天皇制の廃絶まで覚悟されたご様子だった。が、この発言は、動揺していた昭和天皇に米内が入れ知恵し感化したとしか思えない」と記されています。

米内らが、日本國體の破壊を目していたと思われるもう一つの証は、昭和20年の最高戦争指導会議の席において、1932年テーゼで「日本共産党の任務は天皇制の打倒」とした国際コミンテルンの総本山・ソ連に、「天皇制の廃絶」も覚悟の上、和平工作を依頼すべきとの提案をしていたことです。

ちなみに、この提案には近衛の側近でコミュニストの酒井鍋次が起案した「小笠原と沖縄、さらに日本人捕虜による労働力の提供」まで加えられます。が、既に2月のヤルタ会談で「ソ連の対日参戦」が密約されたとの情報が、ストックホルム駐在武官の小野寺信陸軍少将からもたらされていました。

さらに、原爆投下の理由となったとされる、鈴木貫太郎首相による7月28日の記者会見での「ポツダム宣言受諾要求黙殺」発言があります。米内の側近だった高田惣吉少将によると、米内は「焦る必要はない」と鈴木首相に入れ知恵し、原爆投下を待っているかのような発言をしたと証言しています。

その結果が、ソ連参戦と原爆投下という悪夢になりますが、これを知った8月12日の米内は「ソ連参戦と原爆投下は"天佑"だ」と発言します。近衛も娘婿の細川護貞に、「陸軍を抑えるには天佑かもしれない」と発言しています。

これらの発言から米内の"正体"を見抜いた阿南陸相は、側近の竹下中佐に「米内を斬れ」と言って14日に自決します。その後、コミンテルンに利用されていたことを悟った近衛と、他の最高戦争指導会議のメンバーだった杉山参謀総長も自決、広田弘毅は戦犯処刑されましたが米内は不問のままでした。

7)大本営の一部は原爆投下を知っていた?

なお、広島への原爆投下に関して、「大本営の一部は事前に知っていたのではないか?」という説があります。支那南部にあった第五航空情報連隊本部に情報将校として勤務していた黒木勇治氏(岡山市在住)によると、連隊では常時ロンドンのBBCを中継したニューデリー放送を傍受しており、

昭和20年8月3日午前八時の放送は、「米軍は来る8月6日、原子爆弾第1号を広島に投下することを決定した模様です」という内容で、8月4日午前9時にも同様の放送があったと証言しています(「原爆投下は予告されていた!」黒木勇治)」。

また、本土決戦のため西日本に展開する部隊の司令部だった広島の第二総軍司令部にいた井本熊男高級参謀(「昭和史の天皇」読売新聞社)によると、8月6日の原爆投下直後の司令部の様子として、「ドアから廊下へはじき飛ばされた橋本参謀と大屋参謀は、建物の外に出て防空壕に避難しようとしたが、

参謀室にまだ人がいたことに気づいて引き返し、二人で歩きながら直撃弾をうけたにしては爆痕がないがこれはいったい何だろうと私(橋本参謀)が言ったら大屋君が、『そういえば妙な新兵器の海外放送を聞いたがそれかもしれん』と語った」と。

当時、畑俊六元帥(無傷で生存)の諜報主任将校だった大屋角造中佐は、広島城に近い旧浅野侯の別邸に二世の女性を二十人ほど集めて、マリアナ方面から発せられる米軍の無線を傍受し、情報を大本営参謀本部第二部長の有末精三中将に伝え、有末中将は同部に所属する皇弟・三笠官崇仁中佐に伝えていたということです。

そんな中、「当時、私たち(井本参謀ら)が気にしていたのは、本土決戦方針の陰で政府や軍の一部が終戦工作をやっているらしいということだった」と証言。実際、有末は「第二総軍の使命は原爆投下で終わり、これから日本は和平交渉に入る」と、まだ陸軍全体が本土決戦に向かって準備中に語っています(「終戦秘史 有末機関長の手記」)。

ところで、広島が第一の原爆投下候補地になったのは、以上のように本土決戦の際、西日本に展開する部隊の中枢となる第二総軍司令部が置かれていたからです。が、二番目の候補地として当初は小倉が予定されていたが、九日の気象条件が悪化したため長崎に変更になったというのが巷間伝えられている話です。

が、「大東亜戦争の目的」の章でも見たように、ローマカトリックが反共戦争をしていたドイツと日本を支援していたことから、その報復に日本におけるカトリックの聖地である長崎が狙われたという説、真珠湾攻撃の際使われた酸素魚雷など、日本軍が使用した魚雷の八十%を生産していた三菱製鋼の工場があったからという説があります。

ただ、爆心地の三菱製鋼の工場の真ん中には"人間の盾"としての捕虜収容所があり、当時、千人の連合軍捕虜が収容されていたが、なぜか事前に大半は退避していて犠牲者は八人に限られ、それもイギリス人、オーストラリア人などで、多数を占めていたアメリカ人がいなかったということです。

ちなみに、以前、テレビの終戦特集番組で、昭和20年8月6日、大本営は原爆を搭載したB29の無線傍受に成功したが、なぜか黙殺したと放映しました。番組では高性能戦闘機"紫電改"の元パイロットが、「その連絡を受けていたら撃墜できたし、体当たりしてでも阻止した」と涙ながらに証言していました。



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