誇り高き日本の歴史

学校での歴史教育は大東亜戦争の敗戦で歪められ、真実は30%程度に過ぎないため真の国史を明らかにします。

まえがき

2017-01-07 19:52:33 | 古代史


まえがき

はじめに、本稿は、歴史学の専門家でもない私が、ある日、"京都皇統系奉公衆"と名乗る幾つかの筋から「長髄彦尊(縄文海人族の雄で関東日之本王朝の王)と護良親王(後醍醐天皇の長子で中世の裏天皇)と縁がある」と告げられたことがきっかけで始めたブログの原稿をまとめた趣味の所産です。

もとより、古代史、近現代史に関しては、その道の専門家から様々な出版物が出されています。が、例えば、本居宣長らに始まる戦前までの「記紀史観(皇国史観)」は「古事記・日本書紀」で思考停止し、戦後主流を占めるGHQの息のかかった「唯物史観(マルクス主義)」は「目に見える世界」に偏りすぎています。

また、全時代を通じて、あるいは国境を越えて一貫した思想に基づき記述された著作も少ない事に物足りなさを感じたため、既存の先達によって著された数多の著作や資料、さらに"その筋"からの情報を元に独自の解釈を加えて書き上げた、新しい時代に向けた私の挑戦であり、素人が書いた"歴史書っぽい"読み物であることをお断りしておきます。

ともあれ、そんな気持ちで研究しているうちに、真の日本の凄さ、深さ、古さに驚かされ、この情報を一人でも多くの日本人に知ってもらい、戦後70年経った今、改めて日本の素晴らしさと日本人としての誇りを取り戻していただきたいとの思いも交錯しています。

それでも一応、ここで私の拠って立つ歴史分析の思考方法と歴史観について、冒頭から少し専門的になりますが明らかにしておきます。まず、思考方法としては歴史哲学で有名なヘーゲルの「観念論的弁証法」を採用しています。

その理由を説明しますと、歴史を分析する時、認知されない事実や誤って認知される事実が存在し、「事実」と「叙述」の乖離が生まれます。また、歴史の事実を叙述する際には、史料類からの解釈と抽出、分析、総合を通じて、重要性や影響などが判断されます。

が、この際の拠って立つ価値基準によって、叙述された歴史には大きな違いが生まれますが、この価値基準を何にするのか、またその価値基準は普遍的妥当性を持つのかを明らかにするのが「歴史哲学」です。

ヘーゲルの「歴史哲学」では、「歴史」とは、「絶対者」である「理性(精神)」が、「自由」を実現していく過程(絶対精神の実現)であると捉えますが、このようなヘーゲルの歴史観を「観念論的歴史観」といい、当時のプロイセン国家の成立を持って歴史の終わりとしました。

ちなみに、これに対しマルクスは、生産構造や技術革新などの経済的・物質的要素を重視する「唯物論的歴史観」を唱え、歴史上のすべての闘争は階級闘争であり、階級格差のない共産主義社会の実現を歴史的先史の終わりとしました。

このように、ヘーゲルによると、歴史は「一つの摂理」に従い、「絶対精神の実現」という目的に向かって展開しているということになりますが、この歴史の「摂理」にあたる思考方法が「弁証法」です。

ヘーゲルの弁証法には、「認識の弁証法(観念論的弁証法)」と、「存在の弁証法(唯物論的弁証法)」があります。「認識の弁証法」では、まず「一つの考えを肯定」し、次にその考えが抱える「矛盾」を見出だします。なぜなら、物事は「メリット・デメリットがコインの裏表」の関係になっているからです。

そして、第一の考えと、「矛盾」を解決する第二の考えを付け合わせ、「両者を統合する新しい考え(第三の考え)」へと発展させます。が、この第三の考えも矛盾を抱えていることがわかり、より高次な考えへと統合されます。

ヘーゲルは、この第一の考えを「即自的」とよび、第二の考えを「対自的」とよび、第三の考えを「即自対自的」と呼んでいますが、第三の考えは、第一の考えを二重に否定しますので「否定の否定」ともいいます。

しかし、これはただの否定ではなく、二つの立場を統合してより高次に高めることなので、「止揚ないし揚棄」と言い、これら三者の関係が、「正・反・合」という三角形をなして発展するのが「歴史」だとします。

このように、「認識の弁証法」が「絶対者の発展過程」に焦点を当てたものであるのに対し、第二の「存在の弁証法」は、「現実的存在のありかたそのもの(目に見える世界)」に力点が置かれます。

これについて、ヘーゲルを受け継いでさらに発展させたマルクスの説明によると、例えば、まず「封建社会」があって、これが長く続くと、その内部に矛盾が生まれ社会問題化します。すると封建社会は、この矛盾を解決するように「近代市民社会」へと変貌しますが、

ここでも矛盾が生まれ、それを解決するように「資本主義社会」が形成され、さらに生じた矛盾を解消する形で「社会主義社会」が出現し、最終的に「共産主義社会」が実現するとします。が、マルクスの描いた理想の「共産主義社会」が実現しなかったことはすでに歴史が証明しています。

本稿では、以上のうちの「観念論的弁証法」を採用しています。が、ヘーゲルの言う、歴史を動かす「絶対精神」なるものがあるのかないのかについては疑問を持っています。本稿の最後に詳述するように、ニーチェ以降の現代哲学では、すでに「神、真理、真実」などという「絶対的な存在」は否定されているからです。

にもかかわらず、「観念論的弁証法」にこだわる理由は、後に詳述する我が国で発見された世界最古の哲学書・カタカムナ文献に書かれた「カタカムナ哲学」の内容と整合性があるからです。

すなわち、カタカムナ哲学では、「この世の出来事は目に見えない"潜象界"が"現象界"に反映したもので、両者は"相似象"をなしており、"対立と統合"を繰り返している」としていますが、「弁証法的思考法」は、この「二元性の原理」と共通する面があり、馴染みやすいからです。

そして、この対立する「二元項」を「ナショナリズム」と「グローバリズム」としています。これは前半の古代史編では「海洋民族(南朝皇統)」と「騎馬民族(北朝皇統)」、後半の近現代史編では「国粋派(国権派)」と「国際派」の対立として描く「歴史観」を採用しています。

ところで、先ほど、カタカムナ哲学では「この世の出来事は"(対をなす関係性の中で)相似象"をなしており…」としましたが、相似象は「空間的」に成り立つだけでなく「時間的」にも成り立っています。このことから、本稿では"日本史の臍(へそ)"と言える「南北朝時代」に一言触れた以外は、

「古代史編」と「近現代史編」だけからなるという極端な構成になっており、「時間的相似象」が現れた形をとっています。というのも、外国との接点や摩擦が生まれたのが古代(北方騎馬民族と)と近代(欧米と)だからです。

なお、古代史編に関しては参考資料が少なく、特に先史以前の出来事に至っては、数少ない先達の調査結果やチャネリング情報などを手掛かりにせざるをえないため、現下の史学の主流である、より多くの者の間で合理性を共有する「間主観主義」を貫くことが極めて困難だという事情があります。

このため、その内容は"妄想"とも言っていい程の大胆な仮説(歴史的シュールレアリズム?)になっています。これに対し、いわゆる専門の"権威者"が作り上げた「通説」は無味乾燥で、表面的な事実の切り張りに終始して面白味を感じず、真実を封印することが目的なのかと勘繰りたくなります。

そのためか、実際、古代史分野に関しては非専門家による百家争鳴の状況で、それどころか根拠のない俗説が横行し、まさに「言ったもん勝ち」の様相です。したがって、この辺りの事情を斟酌いただき、単なる"歴史エンターテイメント"として気楽に楽しんでいただければ幸いです。

もう一つ、古代史分野に関して難しいところは、〜千年、あるいは〜万年単位で捉えている関係上、一見、前後の各項の内容で整合性に欠けるように思える箇所があることです。これは便宜上、一定期間を区切って記述しているため避けることができませんが、背景では「二元性の原理」で一貫させています。

ちなみに、ここで超古代史に関して一言だけ申しますと、神々を生み出す神「元無極躰主(母止津和太良世)」が「天之身光大神」などの多くの神を生み、その中で宇宙の創造神「天之御中主大神」とその後裔で男系「高御産巣日神」と女系「神皇産霊神」が生まれて二元性宇宙を創造し、

さらにその後裔の「伊奘諾」「伊邪那美」が、それぞれ日本列島の創造を経ながらそれを起点に、時間差を置いてシリウス(+プレアデス)とオリオンから意識体を迎え入れ、前者からは「ドラゴニアン」としてのムー人、カラ族に入り、後者からは「レプタリアン」としてのアトランティス人、アーリア人に入り、三次元世界で"魂の学びの場"としての二元対立を作り出しました。

ただ、「伊奘諾」「伊邪那美」による日本と地球の創造説に関しては、「国之常立神」の出現によって一旦、日本列島を中心にした「レムリア」文明を形成していたが、そこから「ムー」と「アトランティス」に分かれたとの説もあります。

ちなみに、「レプタリアン」「ドラゴニアン」ともに「龍族」ですが、前者が西洋では「悪魔」とされるのに対し、後者は東洋で「神(龍蛇神)」とされるのは、西洋では「契約・管理・使役」の象徴である「雄牛(神)」をトーテム(種族の象徴)としているからです。

また、古代史研究家の浅川嘉富氏によると、ニュージーランドの原初民族である「ワイタハ族」の「ルカファミリー」の伝承では、「自分たちはシリウスからプレアデスを経由して地球にやってきてムーの建国に携わったが、本家筋に当たるのは日本の天皇家だ」として、実際、1930年代後半に来日、昭和天皇に謁見しこのことを伝えたそうです。

話を日本国に限ってすれば、「邇邇芸命(ニニギノミコト)」を通して二元性の象徴としての「天照大神」と「素戔嗚尊(スサノオノミコト)」が生まれます。しかし、今は「国之常立神」が「二元性の統合」の象徴として再び姿を表す過程にあるようですが、この続きはそろそろ本編で…。


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