誇り高き日本の歴史

学校での歴史教育は大東亜戦争の敗戦で歪められ、真実は30%程度に過ぎないため真の国史を明らかにします。

ポツダム宣言受諾後の日本軍の動静

2017-01-10 21:02:58 | 現代


大戦の敗因を探る、13

1)終戦後も現地に残り、アジア各国の独立を支援し続けた日本軍人

ところで、米国を相手にした太平洋戦争を含む日本にとっての第二次世界大戦、すなわち、大東亜戦争は、昭和20年(1945年)8月15日のポツダム宣言受諾をもって終わった、それも日本の敗戦で終わったというのが通説です。

しかし、昭和20年8月15日をもって、アジア、太平洋に展開していた全ての日本軍が一斉に降伏し、武装解除に応じたかというとそうではありません。既にご存知のように、満州や内蒙古、南樺太や千島列島では8月15日以降もソ連軍の不法な侵攻が続き、「占守(シュムシュ)」をはじめとした各地で日本軍もやむなくこれに応戦していました。

それ以外の地域でも、例えば、支那大陸では約150万の「支那派遣軍(北支那派遣軍含む)」が、戦況有利の下に展開していて「徹底抗戦」を主張しており、また、東南アジアと一部太平洋方面では「南方軍」約80万が、それもシンガポールやマレーシア、インドネシアなどは全くの無風で、静穏のうちに駐屯していました。

特に、南アジア、東南アジアに展開した日本軍は、「大亜細亜主義」に基づいた「大東亜共栄圏」を実現するため、欧米による植民地支配を打倒した後、亜細亜各国の独立を促進するため尽力していました。確かに、日本が亜細亜の盟主になり、日本を中心にした経済圏を作り、石油などの資源の安定供給を図る目的もありました。

が、それが欧米諸国の植民地支配と決定的に異なった点は、例えば、日本人と変わらぬ教育を平等に施すなど現地住民に対等な立場を認め、次々に独立させていったことです。反対に、欧米諸国の場合、植民地の人々を奴隷同然に扱い、欧米の不当な支配に目覚めさせないため教育の機会を奪ってきました。

日本が現地住民に対等な立場を認めた方針の背景には、全てを日本人が管理するとなると、手間・ヒマ・コストの負担が大変だという事情もありましたが、「違いを認めて一つに帰る」という「大亜細亜主義」の理想に基づいた"分権・分業社会"の実現を目指したからで、今日のODA(政府開発援助)の方針と軌を一にしています。

このような方針で軍政を敷いていた関係で、ポツダム宣言受諾後の亜細亜地域における日本軍、ないし日本軍人の一部は、「大東亜共栄圏」の実現を完遂すべく、引き続きアジア各国の独立を支援する動きを継続していたのです。

例えば、陸軍中野学校出身者からなる「藤原機関」「光機関」「岩畔機関」が、大戦中からインドでINA(インド国民軍)を、ビルマでは「南機関」がBNA(ビルマ国民軍)を養成し、インパール作戦の際には日本軍とともにイギリス軍と戦い、これがきっかけとなって昭和18年8月のビルマ独立、大戦後のインド独立が実現します。

また、インドネシアでは、日本軍の駐留以降、ジャワ派遣軍(第十六軍)司令官・原田熊吉中将の指示でPETA(祖国防衛義勇軍)が創設され、終戦までに育成された3万8千名の隊員が対英・蘭独立戦争(スラバヤ戦争)の中心となり活躍します。が、問題は、インドネシアには独立戦争を戦い抜く武器がなかったことです。

そこで、第十六軍の宮元参謀は、ポツダム宣言受諾の後、ほとんどの武器を都市部に放置したまま部隊だけを山間部に移動させ、PETAなどのインドネシア独立軍に武器が渡ることを黙認します。この結果、インドネシア独立軍は日本軍の戦車、航空機、大砲、機関銃、小銃など約2万丁を入手し、戦い抜くことができたのです。

また、インドネシア独立戦争には、高井大尉らのグループ2千名と、市来・吉住部隊1千名の残留日本軍人が直接、戦闘に参加、そのうち約100名は独立達成後もインドネシアに残留したそうです。これら日本軍人の貢献に対しインドネシア政府は勲章を授与し、1958年にはスカルノ大統領によって西新橋の青松寺境内に顕彰の石碑が建立されています。

この他にも、昭和19年10月にはフィリピンを独立させ、フランス領インドシナ(仏印)では、昭和20年3月にベトナム、ラオス、カンボジアを独立させます。さらに、日本が撤収した朝鮮半島でも、中野学校出身者が北朝鮮の建国に関わりますが、これについては別項で詳述します。

この中で刮目すべきはベトナムで、そこでは「対英・仏独立戦争」だけではなく、米国を相手にした「ベトナム戦争」に到るまで、残留日本軍人(残置諜者)が関与し、その勝利に貢献していた歴史的事実です。

大東亜戦争中、ベトナムはフランスの植民地でした。したがって「大東亜共栄圏」の実現を目指し、また、南方資源地帯への足場を確保したい日本はベトナム進出の機会を窺っていました。ただ、欧州におけるドイツのフランス占領によって、フランスにはドイツ傀儡のヴィシー政権が生まれていたため、日独伊三国同盟の関係もあって、

当初、日本はベトナムをフランスと共同統治します。が、連合国側のノルマンディー上陸作戦によってヴィシー政権が崩壊したことを奇貨として、日本はベトナムの地名・安南の安をとった「安機関」が中心になって昭和20年3月、「明(めい)号作戦」でフランス軍を駆逐、ベトナム、ラオス、カンボジアを独立させます。

が、半年後には終戦となったため今後の方針を巡って日本軍内に議論が起きます。しかし、日本軍が撤退すると英・仏が再びインドシナを支配することは火を見るより明らかでした。また、本国からは「陸軍中野学校出身は、日本軍の引き上げ後も現地に残留し、日本国家の隆盛を祈念しつつ諸工作を実施すべし」との密命が下されます。

そこで、「明号作戦」は終戦後も継続されることとなり、金子大尉、岡部肇大尉、石川吉光大尉、山田隆一大尉、牧田保彦大尉、日比少尉ら約600人が残留を決断します。実際、ベトナム人たちは、「どうせ5年もすれば日本が立ち直って南進してくるから、このままいろ」と言って日本軍人を匿ったそうです。

そのため、今度は日本軍中心ではなく、「ベトミン(越南独立同盟)」などのベトナム人組織を支援することとなります。例えば、井川省少佐はフランス軍から数千点の武器を奪いベトミンに供与、石井卓雄少佐もカンボジアの捕虜収容所を脱出し、ベトミンに合流、顧問としてゲリラ戦を指導します。

さらに、山田隆一大尉は「クアンガイ陸軍中学」「トイホア陸軍中学」を設立して校長に、塔本成幸大尉は副校長に、中原光信少尉と大鋸四方太少尉、譜久村正吉曹長は実戦を指導します。このような日本軍人の活躍が後年の「ベトナム戦争(対米戦争)」にも生かされ、戦争初期には北ベトナム軍は旧日本軍の「三八式歩兵銃」を使っていたそうです。

また、硫黄島やペリリュー島と同じような複雑な地下壕をベトナムのジャングルにも縦横無尽に張り巡らして米軍を悩ませました。さらに、1968年1月30日の「テト攻勢」の際、北ベトナム軍がサイゴンの米国大使館を攻撃、一時占拠したことがありましたが、この作戦も日本軍人が立案したものとされています。

が、戦後の日本政府が、これら日本軍人が活躍した事実をひた隠しにしたのは、日米安保条約の存在と、冷戦下で共産圏と対立するなど、当時の複雑な国際関係に配慮してのことでした。一方のベトナムでも、このような日本軍人の活躍は"封印された歴史"でした。

が、近年、ハノイ大で研究会が2度開かれたほか、ベトナム紙・ティエンフォンは、「ホーおじさん(ホー・チ・ミン)の兵士になった日本兵」の見出しで、日本軍人が教官を務めたベトナム初の陸軍士官学校元幹部の手記を大きく掲載。「近代的な軍に変わろうとしていたベトミン軍には日本軍の支援が必要だった」と報じています。

そして、ベトナム政府と国防相はこのような日本軍の教官たちに「戦功褒賞」を、作戦に参加して戦功をあげた日本軍人に「戦勝勲章」を授与、特に谷本少尉と猪狩中尉には「戦功褒賞」と「戦勝勲章」の二つを授与し、日本に対する多大な感謝の意を表しています。



2)台湾を救ったサムライ(日本軍人)たち

東南アジアの他に、もう一つ、旧日本軍人が終戦後も密かに活躍した地域として台湾があります。1949年9月、中共軍によって大陸で劣勢に立たされた国民党の蒋介石は台湾に拠点を移したため、中共軍2万が台湾海峡にある金門島に侵攻してきます(金門島事件)。が、結果は旧日本軍人の活躍で国民党側の圧勝に終わりました。

蒋介石は1943年のカイロ会談には招かれましたが、大戦の後半、中共と雌雄を決する戦いが近いことを視野に入れていたため日本軍と本気で戦う意思がありせんでした。このため、汪兆銘政権の重臣でもあった繆斌(みょうひん)と密かに通じ、これを使者として日本に送るなど、日本との講和を模索します。

実はこの動きは、「大亜細亜主義」の精神に基づいた日支連携を推進する日本の裏天皇・堀川辰吉郎の指南で進められたものでした。が、このことが、実は元々、国際金融資本を通じて裏で繋がっていた資本主義陣営のルーズベルト、チャーチルと、社会主義陣営のスターリンら「"覇道"ワンワールド勢力」の知るところとなり、

蒋介石は、1945年に行われたヤルタ会談、ポツダム会談へは招かれませんでした。その結果、米国からの軍事的支援も断ち切られ、外交的にも孤立し瀬戸際に立たされていたため日本に救援を求めます。

その背景には、もちろん日本軍が豊富な実戦経験を経て、少ない物量を元に寡兵をして大軍に打ち勝つ術を熟知していたこともありました。実際、支那大陸では、蒋介石自身も「我々は日本軍に一度も勝ったこと記憶がない」と言っていたように、日本軍は55戦して54勝1敗でした。

また、蒋介石自身、辛亥革命に失敗して日本に亡命した際、東京振武学校や日本陸軍第13師団で日本式の教育を受け、孫文らとともに日本の「大亜細亜主義」思想と反共思想に共鳴していたこともありました。

この蒋介石の要請を受け、堀川達吉郎は、元支那派遣軍総司令官の岡村寧次(陸軍大将)、元北支派遣軍司令官の根本博(陸軍中将)、元第二十三軍参謀長の富田直亮(陸軍少将)らと謀り、蒋介石が故宮の財宝とともに持ち出した"黄金の百合"の扱いを含め、対応を練ります。

そしてまず、根本ら8人を30トンの漁船で密航させます。途中台風に遭い米海軍の警備艇に救助されますが、無事、基隆港にたどり着きます。根本ら8人は軍事顧問として早々に金門島の要塞化に取り掛かり、また国民党軍に対し日本式の軍事訓練を行って中共軍を迎え撃ちます。

当初、国民党軍司令官は、金門島の北部地区の村・古寧頭での決戦を主張しますが、根本は住民への被害が及ぶことを憂慮して反対、日本軍が得意とする複角壕陣地を構築し、中共軍を島深部に引き入れての作戦を主張、これを実行し見事、中共軍を壊滅させます。

ちなみに、支那派遣軍総司令官時代の岡村は、「滅共愛民」との理念に基づき「焼くな、犯すな、殺すな」という三戒の遵守を通じた風紀粛正によって軍の規律を正し、また、1944年(昭和19年)に行われた支那大陸史上最大の「大陸打通作戦」では、圧倒的な勝利をおさめています。

また、北支那派遣軍司令官時代の根本は、1945年8月15日のポツダム宣言受諾後も、なお侵攻を止めないソ連軍の攻撃に対し、連日の猛反撃を行って蒙古聯合自治政府内の張家口付近に滞在していた在留邦人4万人を救うとともに、終戦処理に当たっても北支那方面に派遣されていた35万人の日本軍の帰国を実現させています。

その後も金門島、さらには台湾への中共軍による再度の侵攻が予想されたため、今度は富田が中心となり、澄田賚四郎(陸軍中将)、十川次郎(陸軍中将)、山本親雄(陸軍少将)、及川古志郎(海軍大将)ら83人の元日本軍人が台湾に密航、約20年に渡って国民党軍を指導します。

派遣に先立って東京・高輪の小さな旅館で、日本側から岡村寧次ら、台湾側からは曹士澂少将(日本陸軍士官学校卒)、陳昭凱大佐が出席し、「赤魔は日を追って亜細亜大陸を風靡する。平和と自由を尊び、日台提携の要を確認する両国の同志は、東亜の反共連合の為に決起し防共に邁進すべき秋である…」との盟約書を交わします。

この派遣された旧日本軍人の一団は、富田の偽名・白鴻亮の一字から「白団」(ぱいだん)と呼ばれ、彼らは台湾軍将校に、幕僚課程の必須科目として旧日本軍の反共精神から戦略、戦術、教練、通信、兵棋、戦史などをたたき込み、大佐以上の者には「陸軍指揮参謀大学」を設立して高等教育を実施します。

なお、実際、中共はその後、再び台湾への侵攻を準備します。が、同時期に朝鮮半島で北朝鮮軍の南進が起こり、これが原因で中共による台湾侵攻の野望は挫折しますが、もちろん、この北朝鮮の背後にも、堀川達吉郎の意を受けた日本人残置諜者の存在があったことについては別項で述べます。


最新の画像もっと見る