誇り高き日本の歴史

学校での歴史教育は大東亜戦争の敗戦で歪められ、真実は30%程度に過ぎないため真の国史を明らかにします。

あとがき…終戦後GHQが日本で行ったこと

2017-01-10 21:19:14 | 現代
1、WGIP(占領政策プログラム)の実行

終戦直後、GHQはWGIP(占領政策プログラム)を実行し、日本の強固な國體を破壊する為に、日本人に罪悪感を植え付け、戦前日本の文化・教育などをすべて否定させて、日本人から愛国心と自信を奪い取ることを行いました。

そのため、GHQはまず、日本国内でやりとりされる郵便や電報、放送番組、映画などを徹底して検閲しました。が、その結果、ほとんどの日本人は戦争の責任は米国側にあり、日本側や天皇には責任が無いと考えていることを知り焦ります。

そこで、1万項目以上の命令を出して「日本人弱体化計画」を進めていきました。例えば、日本が亜細亜解放のために戦ったことを隠すために「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と言い換えさせ、米国側に都合の良い「太平洋戦争史」を創作して報道させました。

また、NHKには「真相はこうだ!」という番組を作らせて、満州事変から終戦までの日本の動きを「蛮行」と決めつけ、「南京大虐殺」などを捏造して「日本は悪いことをした国である」と、国民に自虐的な思想を植え付けました。

さらに、「陸軍の軍国主義者や一部の政治家、官僚が戦争を起こし、国民に犠牲を強いた」として、国民に軍隊や政府への不信と反感を抱かせ、国民と軍人や政治家、政府が分裂するように誘導し、天皇を尊敬する人や大和魂、武士道を持つ人を公職追放にしました。

が、GHQが最も恐れたのは日本の神道でした。米国は対日戦で欧州戦線での10倍の兵士を失いましたが、その要因は神道によって築かれた日本の強固な國體と日本人の団結精神によるものだと考えたからです。そのため、GHQは神道の弱体化を画策、国家神道を廃止させました。

戦前の日本では、人々は神社へ集まり、神主といろいろな相談をし、祭りの段取りや村の自治などについて話し合っていました。そして、人々は鎮守の森を守り、子供達は神社で遊び、そこから自然の大切さを学んできました。

しかし、GHQは神社の代わりに公民館を作り、そこに集まって「これからは国の事なんか考えずに個人の権利と自由のことだけを考えろ」と指導しました。

また、縄文の時代より、日本では「大麻」を神社だけでなく衣・食・住など生活の中に取り入れてきました。特に、大麻の実は戦前まで「万病に効く薬」として重宝されてきました。が、GHQは日本に欧米の化学薬品を売り込むために大麻の使用を禁止させ、「大麻は"麻薬"」などと言って誤った知識を日本人に植えつけました。

さらに、GHQは、欧米にとって都合の悪い書物もすべて廃棄しました。彼らは世界史の秘密に関わる重要な情報が、日本各地の神社に「古史古伝」として残されている事を知って、隠匿武器の摘発を名目に全国の神社に立ち入り、「竹内文書」等、約8千冊の古文書を押収していきました。

これは連合国指導層に潜んでいた「真の世界史」を知る者が、日本国と欧米国家の起源と同じくするために、「真の世界史」が日本から世界に発信される事態を畏れたからです。「真の世界史」とは「世界が日本から始まっている!」という事実だったのです。

2、日本キリスト教化政策は皇室にまで

ところで、GHQは初め、國體解体の決め手として「昭和天皇の戦犯指定」や「天皇制の廃止」を模索しました。が、同じく敗戦国であるドイツやイタリアでは最高指導者は生存を許されなかったのに対し、日本の天皇は、国民を励ますために無防備で全国を巡幸し、最初の巡幸地は原爆の投下された広島でした。

「天皇は広島市民に殺されるんじゃないか」と危惧したGHQは、「お言葉」のための一段高く、木枠のついた特設の雛段を設けました。が、そんな事態は杞憂に過ぎず、逆に国民の方が日の丸の小旗を振って天皇を慰労している光景に愕然とします。

この結果、日本の天皇が西欧の君主とは異なり、日本国民と精神的にも一体の存在であることを悟ったGHQは、「昭和天皇の戦犯指定」や「天皇制の廃止」を強行すると全国で暴動が起き、また旧日本軍人が決起して内戦が勃発し収集がつかなくなることを恐れ、考えを改めます。

代わって考えたのが労働組合の育成、そして日教組の結成に関与して日本の左翼をコントロールし、組合活動や教育を通じて日本國體の解体を進めようという戦略です。このため教師たちは労働者として振る舞い、学校から国旗掲揚や君が代斉唱が一掃されました。

また、労働組合の結成を新聞、出版、放送の分野でも進め報道内容も支配します。加えて、日本の大学、特に史学界、法学界の研究者には戦前とは180度異なる考え(マルクス主義)を強要したため、日本の教育界やマスコミ、法曹界は今もって正常化(中立化)しません。

そして、GHQが日本を自分たちに従順な国にするために考えた決め手が「日本キリスト教(メイソン)国化政策」でした。実は、この政策はすでに明治維新以降、徐々に進められてきたことです。つまり、局面に応じて、宗教はキリスト教、政治は民主主義、ビジネスはフリーメイソンと使い分ける手法です。

明治維新以降戦前までは、主に宗教(キリスト教)とビジネス(フリーメイソン)を通じて浸透を図ってきました。が、戦後は新憲法の制定という政治改革(民主主義さらには社会主義、共産主義)を通じて日本國體の解体を進めます。が、更に決定的なのは「日本皇室」のキリスト教化策でした。


ここで、日本の政財官学界、更に皇室にまで触手を伸ばしてきたクエーカー(キリスト友会)を中心に、その日本皇室への展開、浸透の仕方を時系列で追ってみます。

まず、クエーカー(キリスト友会)とは、十七世紀のイングランドで英国国教会などから迫害された信徒家族の厚生などのために作られたプロテスタント系団体で、強い信仰箇条を持たずに「内なる光」の探求を目指すため、普遍主義的で極めてリベラルな平和主義を志向するキリスト教左派宗派です。

クエーカーは、当時の植民地だった米国にも広がり、東部ペンシルベニア州フィラデルフィアに教徒が集中しています。日本への浸透が始まるのは明治以降で、同じくプロテスタント系の「ユニテリアン」との接点を持っていた福沢諭吉らが関わっていたことは既に「明治新政府を巡る暗闘」のところで述べました。が、クエーカーが本格的に暗躍し出すのは大戦前後からです。

終戦後、クエーカーだったGHQのボナー・フェラーズは、昭和天皇に有利な内容の「天皇に関する覚え書き」をマッカーサーに提出。天皇が戦犯になれば日本国内が混乱に陥るとして天皇の戦犯指定の回避に当たります。

また、ローマ法王庁代表のブルノー・ビッテルが学長を務める、日本でのイエズス会の最大のアジトである上智大学内・大島館で、大正八年~昭和八年まで皇室の慶弔を取り仕切っていた、無教会派クリスチャンである元宮内次官の関屋貞三郎を通じて東京裁判の首席検察官ジョセフ・キーナンに天皇訴追を断念させます。

が、一方でより穏健だが巧妙な天皇家のクリスチャン化による日本国のキリスト教化計画を推進します。具体的には、ミッション系の中学を卒業し「天皇家もキリスト教を知るべきだ」という持論を持った元海軍大将で学習院長の山梨勝之進にも協力を仰ぎつつ、英語教師としてクエーカーのレジナルド・プライスを送り込み、

さらに、昭和天皇にキリスト教の講義を受けることを勧め、カトリックでのちの最高裁長官・田中耕太郎と、プロテスタントでシェイクスピア研究で有名な斉藤勇をして、昭和天皇に「罪、苦しみ、赦し、十字架、そして祈りと希望」というキリスト教の教義を刷り込みます。

が、山梨と関谷は、最も重要なのは"次代の天皇”が、「キリスト教」とその政治思想である「民主主義」に心服、体得することだと考え、クエーカーのエリザベス・ヴァイニングを明仁皇太子の家庭教師として送り込み、英語教育を名目にした聖書学習で「平和主義思想」への思想改造を推進します。

また、皇室の信任を得たヴァイニングは、米国でクエーカー系の有名校で学んだ秩父宮妃・勢津子、さらには病気の上、昭和天皇と不仲だった秩父宮に代わって、幼い皇太子が成人するまで摂政になる話が出ていた二番目の弟・高松宮、昭和天皇の良子皇后の家庭教師にまでなったのです。

その結果、高松宮は昭和二十二年、神道界の公式機関紙・神社新報のインタビューで、「神道は教理や教学的な面が空虚だ。明治維新に廃仏毀釈で仏教と離れてしまったので、いよいよそういう骨になるものがなくなってしまった。神道に欠けているものをキリスト教とタイアップすることで学ぶべきではなかろうか」と発言し問題となります。

一方、三番目の弟である三笠宮は「日本旧約学会」の会員になり、ヘブライ語の研究を通じて旧約聖書を学び、キリスト教だけでなくユダヤ教との接点も持ち、これが後の皇室内対立の背景となります。ちなみに、吉田茂の孫娘でカトリックの麻生信子は三笠宮の第一子・寛仁(ヒゲの殿下)と婚姻、第三子・憲仁(高円宮)は聖心女子大出の鳥取久子と婚姻します。

そして昭和二十二年、カトリックだった吉田茂(洗礼名トマス・ヨゼフ)に次いで、同じくカトリックの片山哲が首相に選ばれ、さらに翌年には宮内庁長官にクエーカーである田島道治が任命されます。そして昭和二十四年五月から八月にかけてザビエル渡来四百年を記念する大ミサが日本全国で行われる中"ある事件"が起こります。

“ある事件"とは、昭和二十四年五月十七日、昭和天皇が大分県別府市のカトリック系小百合愛児園を行幸で訪問された際、園児に囲まれる中、園長のカルメラ女史に聖堂に誘導され、危うくキリスト像の前でロザリオを首にかけられ礼拝を強要されそうになったところを、宮内庁の鈴木菊男総務課長が阻止しました。

この翌月には東京でザビエル渡来400年の大ミサが行われますが、GHQはここで「日本の天皇がキリスト教に改宗した」と世界に宣伝し、日本のキリスト教化(神道の終焉)が完成したことを発表する計画だったようですが、ギリギリのところで鈴木総務課長の機転により阻止されたのです。

その後、日本をキリスト教化(民主化)するための十字軍と自負したマッカーサーは最高司令官を解任されます。この背景には、米国フラデルフィアを拠点とする"クエーカーコネクション"に浸透していた寺崎英成ら國體派による巻き返しがあると仄聞していますが、皇族に広まったキリスト教熱も徐々に冷めていきました。

しかし、幼少期から一旦刷り込まれた思想が簡単に消えることはありません。実際、昭和三十七年、皇太子の弟である義宮(常陸宮)が、毎日の就寝前に「父と子と聖霊よ~」と祈り、問題になりました。神道には、キリスト教の-愛と寛容」が必要という持論を述べている無教会派クリスチャンの村井長正が義宮の教育侍従でした。

そして、昭仁皇太子とイエズス会の拠点・聖心女子大出身の美智子妃との婚姻。この背後で暗躍したのが元宮内庁長官でクエーカーの田島道治、慶応大学学長でカトリックの小泉信三、元最高裁長官でカトリックの田中耕太郎、元首相でカトリック(洗礼名・トマス・ヨゼフ)の吉田茂らで皇室参与でした。

もちろん、この婚姻には根強い反対があり、昭和三十二年十一月二十七日の皇室会議では宇佐美宮内庁長官から事の経緯が説明された後、議長の岸信介首相から「ご質問がありませんか。ないようですので私から質問します。正田家はキリスト教と聞きますが皇室は神道です。この関係に何か問題はませんか」

宇佐美毅長官が立ち上がり「お答えします。正田家の祖父母が信者であるだけで、正田嬢は学校はカトリック系ですが洗礼を受けておりませんので宗教上の問題は一切ございません」と答えました。が、宇佐美は戦前、日米協会、日米委員会、太平洋問題研究会(IPR)などに関わったクエーカーでした。

ご成婚後の昭和三十八年、「宮中聖書事件」が起こります。常陸宮(今上天皇の弟)が昭和天皇ご夫妻と食事をされた時、「美智子さんが入ってきてくれたお陰でキリスト教の話ができるようになって非常に嬉しい」と話すと昭和天皇が激怒、美智子妃を呼びつけ「二度と皇室の中でキリスト教の話はしないように」と叱責。

一方、『ノンフィクション皇太子昭仁(牛島秀彦)』によると、ある学友(三笠宮?)の話では昭仁皇太子は「自分はあくまで新憲法を遵守する。息子や娘たちも同様に考えている。再軍備も憲法違反であり、自分が天皇になった際、情況で開戦の詔勅の署名を求められたら断固これを拒否する」と語ったそうです。


私はもちろん、皇室と日本のキリスト教国化などには絶対反対です。が、天皇家、とりわけ昭和天皇が一時期とはいえキリスト教に興味を抱かれたのは、日本社会や日本の神道が多神教であるが故に、違った考え方でも直ちに排除することなく耳を傾けてみるという寛容の精神の表れであったと考えます。

が、それも程度の問題。『ノンフィクション皇太子昭仁』の話が真実だとすれば、一日本国民として違和感を禁じ得ないのです。

3、「自主憲法制定」を主張して吉田茂と対立した岸信介首相

以上のようなGHQの占領方針は「日本国憲法」の制定にも強く反映される事となりました。確かに「日本国憲法原案は、GHQ"提案"と言う形はとったものの、敗戦のショックで抵抗する力も残っていなかった日本人にとって、戦勝国から薦められれば拒否できないという状況でした。

また、その内容は、「日本が二度と欧米に楯突かないように」という方針に基づいたものだったため、「世界の中で悪い国は日本だけだ」という「前文」と、「だから日本は武器を持ってはならない」という「九条」が盛り込まれたのです。

ちなみに、提示された「日本国憲法原案」は、通訳だった23歳の素人女性が9日間で作成したもので、そこには「家庭は人類社会の基礎であり、その伝統は良きにつけ悪しきにつけ国全体に浸透する」等とあり、日本の専門家達は「センチメンタルな少女が書いた原始共産制の作文だ」と嘲笑したのでした。

敗戦のショックで打ち拉がれた中、英米の息のかかった吉田茂や幣原喜重郎の下、抵抗する事もできず受け入れざるを得なかった「日本国憲法」。

このような憲法とセットになった形で、日本の防衛は米国が担うとした「日米安全保障条約」も締結されました。が、それは外敵に対してはもちろん、日本国内の治安維持についても、日本ではなくあくまで米軍にのみ争乱鎮圧権を認めるという不平等なものでした。

が、このままでは日本は独立国とは言えないと、一人の政治家が立ち上がります。それが岸信介首相でした。岸首相は昭和27年のサンフランシスコ講和条約発効に伴って巣鴨から釈放され、同年4月に「自主憲法制定」「自主軍備確立」「自主外交展開」を掲げ、日本再建連盟を設立します。

28年の選挙敗北により自由党に入党し次の衆議院選に当選しますが、29年に吉田首相の「軽武装、対米協調」路線に反発したため除名されます。が、鳩山一郎と共に日本民主党を結成し幹事長に就任。さらに三木武吉らと自由党と民主党の合併を果たし自由民主党の幹事長に就任します。

その後、昭和30年に安保条約改定を進め、これをきっかけに共産圏に対する防衛体制の強化を模索しますが、岸首相が最終的に目指したのは、「自主憲法制定」「自主軍備確立」「自主外交展開」を実現することで事実上の"対米独立"への道筋を立てることでした。

ところが、この新条約の承認を巡っては、社会党や共産党の抵抗により国会審議が激しく紛糾した上、また国会外でも「民主主義の破壊である」等として、一部市民の間にも反対運動が高まり、国会議事堂の周囲をデモ隊が連日取り囲み、闘争も激化の一途をたどりました。

が、岸首相はひるむ事なく、「国会周辺は騒がしいが銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には"声なき声"が聞こえる」と語り、5月19日に衆議院委員会で新条約案を強行採決。その後、内外の混乱の責任を取って、参議院での自然成立を見届けた上で潔く内閣総辞職します。

実際、安保改定前の大手新聞社世論調査では、「安保改定賛成;21.6%、反対;36.0%、わからない;42.4%」となっており、岸首相は「わからない;42.4%」が、当時の空気にのまれてしまった"声なき声"であると判断したのでした。

また、安保改定を強行した後の世論調査でも、「安保改定はよい;15.3%、安保改定はやむをえない;33.9%」となっており、国民の半数は安保改定を支持していたことが明らかになっています。

ところで、昨年は「安保法」を巡って日本が揺れましたが、この成立によって日本は一つ、米国との対等な地位を取り戻しました。そして次は、戦後最大の政治課題「憲法改正」に焦点が集まり始めています。これが何を意味するのか、岸首相の精神を受け継ぐ安倍晋三首相が知らないわけはありません。



人類の叡智「國體主義(天皇制社会主義)」

2017-01-10 21:15:38 | 現代


第二十三章 人類の叡智「國體主義(天皇制社会主義)」

一、国にも心がある 

 聖徳太子が定めた「十七条憲法」では「和を以て尊しとなす」とあります。これが日本の精神文化を象徴する「大和心」です。それは単に「戦争がない」等という単純なものではなく、「違いを認めつつ一つを自覚する(差異化と同一化の共創原理)」という意味です。

 この思想は、日本神道の背景となっている世界最古十万年前の「カタカムナ文書」に書かれた「二元性とその統合」、つまり「分離と調和を繰り返しているのが宇宙の実相」という宇宙観に由来しています。

 ところで、一人一人の人間個人が「心」と「体」を持っているように、「国」にも「心」と「体」があるととらえるのが自然です。とくに、「国」を「国家(広義の國體)」、つまり家族の延長としてみる日本の場合、「国」は単なる統治機構ではなく、人間個人の映し鏡であり、国家構成員すべての心(集合意識)を反映する形で、豊かな精神性を保持しています。

 従って、人間や世の中を目に見える物だけで捉える「唯物論」や、国家を破壊すべき「悪しき権力」と捉える「唯物論的弁証法(マルクス主義)」など見当外れも甚だしい思想です。

二、「國體」とは

 そして、この「国家の心」が「狭義の國體(大和心)」で、これに対し「広義の國體」とは、「国家生命体系」を意味します。

 が、「國體」という言葉については誤解が多く、戦前から様々な議論がなされてきました。例えば、「國體」=「天皇主権の国家体制」などですが、これは表面的な議論です。

 この説は、「国民主権」に対する意味での「天皇主権」を強調したものですが、「主権」という国家意思の決定権の在りかが何処に有るかという統治機構に限定した捉え方で、「国家の心」が欠落しています。

 この点、戦前の一時期に主流を占めた憲法学者・美濃部達吉博士は、「国家は生身の肉体を持たない法人であり、国家主権はこの法人に属し、天皇はその執行機関に過ぎない」という「天皇機関説」を唱えました。 
 この説は陸軍統制派によって採用されますが、皇道派に攻撃され後塵を拝します。

 また、戦後も、戦前の体制に批判的なマルクス史観に立つ学者を中心に、「國體」=「天皇主権の国家体制」として批判的に捉えてきました。
 しかし、戦前、戦後ともに、国家構成員全員の集合意識=「国家の心」の視点が欠けています。

 すでに現行憲法下では、天皇は統治機関ではなくなっており、「天皇機関説」は成り立たず、「天皇象徴説」は明らかです。が、主権の有無にかかわらず、いずれもこれらの説は国家を統治機構に限定し、「國體」が顕在化した「政体」についての形式的議論に過ぎません。

三、「カタカムナ哲学」とは 

 「大和心」を本質とする「国家生命体系」は、「カタカムナ文書」に書かれた「カタカムナ哲学」によって成り立っています。

 すでに述べたように、物理学者・楢崎皐月博士よって発見、解読された「カタカムナ文書」は、世界最古の石器時代のものといわれています。理由は、古事記、日本書紀以前の竹内文書等の古史古伝が、せいぜい一~二万年前の縄文時代以降の天皇家を中心にした歴史を、各豪族の家伝という形で記録したに過ぎないのに対し、カタカムナ文書では、宇宙哲学や生命論、核融合や反重力などの自然科学の記述に終始しているからです。

 また、決定的なのは、竹内文書などの古史古伝がアヒル草文字などの「神代文字」で書かれているのに対し、カタカムナ文書では幾何学模様の「宇宙文字」が使われています。

 所謂"通説"によると、種としての人類の起源は、約二十万年前の北アフリカだとしていますが、カタカムナのような文書は世界に類を見ず、日本では世界最古の旧石器も発見されていることから、カタカムナ文書は世界最古の宇宙文明に関わるものではないかと推測される所以です。 

 この「カタカムナ哲学」によると、「宇宙は相似象をなす正(カム=外側)と反(アマ=内側)が旋転し、正反それぞれが極限まで行ったら逆旋転を繰り返す。そのため一見するとマイナス作用にしかみえない物質の分化、還元も、プラス作用にみえる統合も、万物万象の一過程に過ぎない。

 これは『現象界』のすべてに当てはまる法則であるが、その根源は目に見えない『潜象界』にある」。また「宇宙は、自分の外側と内側、更に自分自身にも存在し、三位一体で均衡する」とします。これを反映したのが、「違いを認めつつ(差異化)、一つを自覚する(同一化)」という十七条憲法の精神です。

四、「カタカムナ哲学」と「神道」と「國體」

 では、以上のカタカムナ哲学と日本の「神道」、「國體」とはどのような関係にあるのかを、「記紀」の内容も参考にしながら確認してみます。

 まず、「三種の神器」のうちの「八咫鏡」は、鏡を見ている自分(内側)と映し出される自分(外側)という二元性を表しており、神道概念の「ムスビ」に当たり、「あらゆるものが対を成す関係性の中にある」ことを意味します。

 次に「草薙剣」は、「人間の意識があらゆるものの原点となって秩序を形成している」ことを表しており、神道概念の「ククリ」に当たります。

 最後に「八尺瓊勾玉」は、一点から発して球体を為す形をし、球の真ん中には穴がありますが、これは"個"から"全"が生まれ、"全"は"個"に帰る旋転の繰り返しを意味しています。

 これらに関連して日本書紀では、国家統治の理念は、「積慶」「重暉」「養正」の三位一体(=八紘一宇)にあるとしていますが、これは「ホツマツタエ」でいう「卜(うらべ)の教え」「鏡の教え」「鉾の教え」に当たります。

 一方、古事記の「天孫降臨」神話は、天地(宇宙ないし自然)の中に神が生まれたとします。「記紀」では「天御中主」が最初の神ですが、「竹内文書」等「記紀」以前の古文書では「元無極躰主(母止津和太良世)」から始まり、数代後に「天御中主」、更に「三貴子(天照、素戔嗚、月読)」が生まれます。

 ともあれ、ユダヤ・キリスト教などの一神教では、「宇宙の創造主」である神は人間を超越する存在と捉えるのに対し、神道では自然(宇宙)を構成する万物(人間を含む)の中に神が宿るとするため多神教となり、また人間の外側(外在神)だけでなく内側にも神が宿る(内在神)とします。

 この結果、神と人間はもちろん、あらゆる万物は対立することなく連続して存在し、神と天皇と人々が一体化して構成された大家族こそが「國體」であるとします。また、「外在神=他力本願」、「内在神=自力本願」を意味することから、日本においては仏教も独自の進化を遂げます。

 ちなみに、古事記のもう一つのテーマ「国譲り」神話では、「大和」と「出雲」という対立する国家が、話し合いで統合され、「大和」が政体(表)を担い(「治らす」しらす)、「出雲」は國體(裏=祭祀)を担う(「頷く」うしはく)とされます。

 実際、すでに述べたように、中世以降の日本では、商家が長屋を住民に貸して対価を糞尿でもらい、それを農家に持ち込んで堆肥として活用するという循環システムが出来上がっていました。川に流していた欧州などとは異なり、日本では世界で唯一、糞尿を農業に使う等の「皇道経済」が成り立っていたのです。

 このような循環システムの思想と仕組みは、「違いを認めつつ一つを自覚する」という多神教的価値観の下、他人と競争するのではなく、それぞれが個性を発揮して、「生かし、生かされ、あるがままに任せる」という「共創分業社会」が、日本に古くから定着していたことを物語っています。

 この点、タントラヨガの世界的指導者であるP・サーカーは、資本主義、社会主義を超えた、人間中心ではなく生態系が中心の、経済至上ではなく霊的生命を至上とした非営利協同組合が運営する家族的でホリスティックな協同経済システムを提唱していますが、これこそ正に「皇道経済」に他なりません。

五、「國體主義」と欧米思想

 ここで「國體」概念と、欧米の「民主主義」等の政治思想を比較します。まず「個人主義=自由主義(資本主義ではない)」↕︎「全体主義(社会主義等)=平等主義」と言え、前者は「精神=内側の世界」、後者は「肉体(物質)=外側の世界」を意味します。

 また「民主主義と独裁主義」は「分離と集中」を意味しますが、これでは二元対立が生じたまま、統合(調和)が図れません。

 ところで、日本は文明開化以降、帝政ドイツの憲法を模範にした「明治憲法」、戦後は「民主主義」「人権保障」などの思想を盛り込んだ「英米型憲法」を導入しました。

 しかし、それ以前、明治維新までは「武家諸法度」はありましたが、それは基本的に「行政法規」に過ぎません。実は、「憲法」にあたる国家の理念や価値観を示す法規範は聖徳太子が作った「十七条憲法」だったのです。
 
 そして統治機構である「政体」は長く武家が担いました。平安時代初期までと南北朝時代、明治時代以降終戦までは 天皇(上皇、法皇)が「政体」も担いましたが、「國體(狭義)」は一貫して天皇が祭司を執り行ってきました。前者を「政体天皇(表天皇)」、後者を「國體天皇(裏天皇)」と呼びます。

 このような意味で「國體の本質」は国家生命体系(神)であり、國體天皇は国家生命(神)と国民を合一する"神民統合の神籬(ひもろぎ)"で、一方、政体天皇は、国家機構ないし君主と国民を結びつける"君民共治の紐帯(ちゅうたい)"と言えます。この結果、神と国家と国民の"三位一体"が成り立ちます。

 ちなみに、「國體」と同様に誤解が多い天皇の「万世一系」についても解説しますと、これは、例えば、能楽、歌舞伎、茶道、華道、相撲、果ては任侠の世界などでも見られる、我が国特有の伝統的な"襲名披露"という地位の継承方式に則って繋がれるものです。

 つまり、血統などの肉体的、形式的な目に見える現象の継承よりも、霊統などの精神的、実質的な目に見えない本質の継承をもって「一系」となすという意味です。皇室では伝統的に「伯家神道の祝之神事(はふりのしんじ)」等を以て霊統の継承を執り行ってきました。

 例えば「孝明天皇」→「明治天皇」以外にも、「白山王朝」→「富士高天原王朝」→「鵜芽葺不合王朝」→「大和王朝」への政権移行、あるいは「武烈天皇」→「継体天皇」、「開化天皇」→「崇神天皇」等の皇位継承の際にこの例を見ることができます。ちなみに「ダライラマ」もこの方式を採用しています。

六、「憲法前文」の前提は存在しない

 日本民族は「多元的価値観」を持ち、「二元対立」しながらも、倒した相手を根絶やしにすることなく歴史を刻んできました。その奧底にあるのは「カタカムナ哲学」に根ざした多神教的な「大和心」です。以下ではさらに詳しく、欧米思想の問題点と日本の精神文化の違いを述べます。

 まず、マルクスが考えた共産主義は国家の廃絶を最終目標にしており、そのために日本國體の中核である天皇制を廃しようとします。彼らの考える「唯物弁証法」では、階級支配の手段である国家を、逆にプロレタリア社会主義革命によってブルジョア市民階級を支配する手段にします。

 また、生産手段の私有をなくせば飢餓もなくなり平和が実現できると考えています。

 このため、個人のブルジョア的思想と行動を徹底的に取り締まるため、強大な警察権力で監視体制を敷き、同時に資本主義国を圧倒する軍事力も必要となるため、必然的に軍事独裁国家の道を歩みます。

 が、実は資本主義も共産主義も、「国際金融資本」という、欧米の「覇道ワンワールド勢力」によって裏で繋がっており、西欧のような緩い王制の国では「ブルジョワ民主主義革命」で、日本、ロシア、支那のような強固な君主制の国では「プロレタリア社会主義革命」で支配下に置くことが戦略なのです(二段階革命論)。

 ところで、憲法前文は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し」とありますが、自民党が「平和を愛する米国民の公正と信義に信頼」していたのに対し、今の共産党は「平和を愛する中国民の公正と信義に信頼」しています。
 が、実態をみれば、前文はすでにその前提が成り立っていません(イエリネック…憲法の変遷)。

 というのは、一神教である「キリスト教的価値観」を基にした"彼らの愛と正義"の名の下に、彼らにとっての「自由と民主主義と平和」を普遍化しようとして、強大な軍事力を保有、逆らう他国を圧迫、植民地化してきたのが"グローバリスト"である欧米諸国、そして国際金融資本(覇道ワンワールド勢力)だからです。

七、「民主主義」の問題点

 また、憲法のもう一つの原理である「民主主義(国民主権)」に関しても、民主主義は国民世論の上に成り立つ制度です。しかし、世論は生まれながらにして自然発生的に出来上がるものではなく、教育機関と報道機関を使った巧みな情報操作と刷り込みによって形成されているのが実態です。

 さらに、「民主主義」のもう一つの問題点は、"ヒューマニズム"という名の「利己的、唯物的な人間至上主義」を前提にしている点にあります。このヒューマニズムは、中世教会の権威とそれを背景にしてきた絶対君主制に対抗する意味で生まれてきた思想です。

 しかし、裏を返すと、大衆をして「際限のない自我の肯定」という罠に陥れる危険をはらんでおり、その結果、自分たちの考えだけが正しいという独善と、異教徒、異民族への干渉、侵略を生む根拠となったのです。例えば、奴隷解放宣言をしたリンカーンも黒人や先住民には選挙権を与えませんでした。

 加えて、「際限のない自我の肯定」は、利己的な自由放任経済を選択した結果、恐慌や貧富の格差をもたらし、これに対する反動としての強大な国家権力の介入という「全体主義(ファシズム、共産主義)」と、それとの戦いというパラドックスを抱えています。

 目下、世界では「対イスラム戦争」という形をとっていますが、これら人類の争いは、「際限のない自我の肯定」とユダヤ・キリスト教的な「一神教的価値観」によって生み出されたものだといえます。

八、「日本国憲法」は無効である

(一)人間は「自由意志」を持っていない

 さらに、民主主義の前提には、選択肢について自由に考える個々人の「自由意志」がなければ成り立ちません。しかし、そもそも人間には「自由意志」は存在していないというのが現代哲学の到達した結論です。

 例えば、「投げ込まれた世界の中で自己生成した意味や価値を通じて、自分が誰かを回顧的に知覚する(ソシュール/構造主義)」、「自発的意志はシステムや慣習からの刷り込みの結果として生じ、自由意志を持つ存在としての"人間は死んだ" (フーコー/ポスト構造主義)」、「人類の歴史や人生に目的などなく、家族、友人、職場など身の回りとの関係性の中で、言語を通じて他者と折り合いをつけながら"小さな物語"を生きているに過ぎない(リオタール/ポストモダン)」等として、「自由意志」や「理性」、その背後にある「キリスト教的価値観」を否定しています。

 現代哲学がこのような結論に至ったのは、自由の追求がもたらす戦争ではどちらかが降伏すれば終結するが、今、人類が直面している環境破壊や地球温暖化等の問題では、相手が見えないだけに降伏、そして終結の図式が成り立たず、近代が作りあげた思想が無力であることが明らかになったからです。
 
(二)「天賦人権説」はただの"信仰"

 では、そもそも「自由主義、民主主義」などの近代啓蒙思想は、何を根拠に正しいとされてきたのかについて、その完成者と言われる「イギリス経験論哲学者・ジョン・ロック」の考え方をみてみます。

 まず、ロックと対立した大陸合理論哲学者のデカルトは、「宗教は違っても誰でも神の観念を持っているから、我々は生まれながらにして心のうちに神を持っている(生得観念)」としました。

 これに対しロックは、私たちの心は元々は白紙(タブラ・ラーサ)であり、生まれながらにして何かを持っているわけではなく、観念の起原はあくまでも「経験」であり、我々の側にあるのはそれらを認識し、加工する能力(悟性)だけだとします。

 そして、この「認識」については、例えば、経験といった時、我々はまず、目や耳で感じとられた感覚を思い浮かべるが、これは「赤」とか「丸」とかいった断片的な感覚のことで、これだけでは「リンゴ」とは決められません。

 こういった断片的感覚を集めて、比較したり判別したりして「リンゴ」と決定(認識)するわけですが、このような"悟性"に依存する働きのことを「内省」とよび、「認識」と「内省」の二つで「経験的認識」が成立するとします。

 ところが、「神」については、無からは何も生じない(神の存在は経験できない)が、経験の主体である私たちは現に存在していることを経験できる以上、私たちを存在させている何か永遠なもの(神?)があるのではないか。

 そして、人は経験によって信仰する神も依って立つ世界観も異なる以上、どれが正しいということはできない(相対的)のだから、すべての個人の「内心の自由」は無条件に保障されるべきだ。

 また、「財産権」についても、神は万物を作り出し、それらを共有物として人間に与えた(天賦人権説)が、私の身体だけは間違いなく私のものであるから、自然物に私の労働を加えた結果(労働価値説)は私の所有物として保障されなければならないとします。

 このように、ロックの「天賦人権説」は、途中からいきなり、何の根拠もなく「私たちを存在させている何か永遠なもの(=神)があるのではないか」とし、その神は「経験によって異なる以上、内心の自由は無条件に保障されるべき」、あるいは、その「神から与えられた人権は無条件に保障されるべきだ」と"必要論"が出てくるだけで、何ら"理論的根拠"が示されていません。

 言い換えると、ロックの「天賦人権説」の背景には、中世キリスト教神学者・アウグスティヌスの「人間には罪によって歪められているものの、物事を為す自然的な自由があり、それは神の恵みにより回復される」、また、「世界は神の摂理としての永久法に支配され、現実世界はそれを人間が分有する自然法によって秩序づけられる」とのキリスト教思想(信仰)があるに過ぎないと考えられるのです。

(三)心理学、脳科学による新たな解明

 このように、自由や民主主義などの絶対保障を説く「天賦人権説」には根拠がなく、それらが人間になんら幸福をもたらさない現実に直面した結果、現代哲学者は「自由意志」の存在を否定しています

 ところで、以下では視点を変えて、近年、発達が著しい心理学や脳科学、ロボット工学(人工知能)、量子理論の観点から「自由意志(意識)」は存在するのか、「私たちの存在」とは何なのか、「宇宙の仕組み」はどうなっているのか、などについてやや詳しく紹介します。

 一般に、心理学や脳科学では、「意識(広義)」とは、「知・情・意」からできているとされますが、「知」は、五感によって得られた外部情報を知覚し、それに合う記憶を脳の中から探し出す機能です。

 次に「情」は、「恐怖、怒り、喜び、好き嫌い」など感情からなり、さらに「意」は、意志や意図などの何か目的や一定の方向に向かう積極的な心の働きです(狭義の意識)。このうち「知」と「情」は、意識的に働くというよりも無意識的な反応として起こります。

 問題は、最後の「意(狭義の意識=自由意志)」が、主体的、能動的な働きとして存在するのか否かです。 
 が、脳の中にある「意識」は二十ビットの処理能力であるのに対して、「潜在意識」は千百万ビットあり、圧倒的に「潜在意識」によって支配されていると言われています。

 これを裏付ける実験として、光が点滅するモニターの前に、脳に電極を取り付けた人に座ってもらい、点滅したら指を動かしてもらうとします。すると驚いたことに、意識が「指を動かしたい」と意図する〇・三五秒早く、指を動かそうとする電気信号が無意識的に発せられていることが確認されています。

(四)全体をまとめる働きと新しいパターンの処理

 次に、意識の働きでは説明できない複雑な処理パターンをハイテク機器に例えて説明しますと、パソコン、スマートフォン、自動車などの内部にあるマイコンチップなどの部品は、自分の仕事のみをバラバラに処理しているだけで、トップダウン的に集中管理している訳ではありません。

 が、現実にこれらの機器は、全体的に調和し統一された処理をします。同じく人間についても、例えば、大脳で考え事をしている間に、立位を維持したり、ペンを持ったり、呼吸や消化活動をしたり、様々な器官での処理が無意識的に同時処理されています。

 また、人間の脳が「青い服を着た人間」を認知する場合は、「人間」、「服を着ている」、「青い服」という情報を、それぞれ脳の一部が別々に認識しているだけで、「青い服を着た人間」として全体を認識しているわけではありません。

 これが心理学や脳科学のテーマとされてきた「結び付け問題」ですが、それは個々の部品の処理結果を足しただけでは説明できない、全体をまとめて統合する働きがあるからだと考えられています。このような意識を持たない昆虫でもやっている認知のメカニズムを心理学では「ゲシュタルト」といいます。

 これは、すでに蓄積された記憶情報との照合によって物事を処理する仕組みですが、蓄積された情報がない新しいパターンへの対処は、類似の記憶から幾つかのケースを取り出し、最も整合性がとれてリアルに感じるものを無意識的に選択しており、やはり「意識」は働いていません。

 私たちは自分の意志で思考や行動を選択しているように"感じて"いますが(クオリア=現象意識)、以上のことから、意識は潜在意識が処理した結果を追認し、未来の類似ケースに転用できるよう蓄積しているに過ぎず(エピソード記憶)、意識(自由意志などの機能意識)は存在していないのではないかと言われています(受動意識仮説)。

(五)未来を今として見させる「クロノスタシス」

 今度は、これまで述べてきた「潜在意識が処理した情報を意識が後追いで追認している」というのとは反対に、「潜在意識が処理した未来の情報を意識が先取りして認識している」ということを、時間を例にとって説明します。

 これは、「クロノスタシス」と言って、ちょうど秒針が動いた瞬間に時計に目をやると、僅かに秒針が止まって見えることがあります。これは、人間の目は常に運動しているため、すべての風景を処理しようとするとあらゆるものが映ってしまい、画像を確定できません。

 このため、眼球が動いている間に得られる情報は無視し、その間を眼の動きが止まったあとの情報で埋め合わせ、連続した画像と見なしています。つまり、人間が見ている風景は"今の風景"ではなく"未来の風景"なのです。
 
 このように見てくると、私たちが「現実」として見ているものは、あたかも今、目の前に現存しているかの様に感じていますが、実は、潜在意識が蓄積した情報に基づいて見せている"幻"なようなあやふやなものに過ぎないということができます(ホログラフィック宇宙論)。

(六)「自分」も存在しない?

だとすれば、意識も持たず、幻のような現実を見ているだけの私たち自身も、果たして存在しているのかという疑問が湧いてきます。そこで、残った私たちの「体」について、それは「自分のもの」なのかについて考えてみます。

自分の体とそれ以外の境界は、イメージ的には「皮膚表面の内か外か」ということになりそうですが、だとすれば、口や胃の中に入った飲み物や食べ物は体の中に入っても、器官表面の外側にあるので自分のものではないのか?

 では、「自分のコントロールが及ぶものが自分のもの」と広く捉えるなら、体内に入った食物と切ったばかりの爪や髪の毛、また自掛けている眼鏡、更には自分が所有する自動車も「自分のもの」ということになります。が、一方でコントロールできない心臓は自分のものではないことになります。

 このように、「自分のもの」などという概念は実に曖昧で、従って「自分の体」というものも、生まれてこのかた「自分の体とはそういうものだ」と潜在意識に刷り込まれてきた一つの概念(思い込み)に過ぎず、その存在を確定することができないのです。

(七)「量子物理学」でも証明された!

 以上の結論は、量子物理学の「観察者効果」としても説明できます。まず、二重につい立てを置いて、前方から電子銃で光子を直線的に一つ一つ発射します。手前のつい立てには二つの縦穴(スリット)が、中心よりやや左右に平行してあり、奥のつい立てには感光紙が張られています。

 もし光子が粒子なら、手前のつい立てにぶつかって、奥のつい立てまでは届かないはずですが、実際には、奥のつい立てに"縦縞模様"が複数残ります。これは光子が波に変わって手前のつい立てを通過し、二つに分かれた波形が奥のつい立ての前で干渉(合流)し、衝突したことを意味します。

 さらに、奥のつい立てに「粒子感知器」を設置してみると縦の"棒線"が二本表れます。これは「粒子感知器」の設置が抱える「現れるのは粒子のはず」という観察者の潜在意識が起こした結果です。光子は手前のつい立て通過時には"波動"、奥のつい立て衝突時には"粒子"になったのです。

 つまり、物質の中の電子は、観察者が「丸い形」を意識しない限り、原子核の周り 波のように揺らぎながら、雲の様に取り囲んでいるだけなのですが、「球形」を意識すると実際に「粒子」として現れるのです。

 以上のように考えると、自分とは「潜在意識の中にある情報」で、一方、現実とは「潜在意識というはっきりしないものが見せている幻」ということができます。が、同時に「私たちの潜在意識に情報を与え続けている外側の世界」というようなものがある可能性も否定できません。

 これらのことを統合する説として、量子物理学を脳科学に応用した「量子脳仮説」があります。それによると、目に見えない脳の内部と目に見える外部が、あるきっかけで共振共鳴したとき、脳の内部では未確定状態の「量子意識(元意識=潜在意識)」が顕在意識(意志)へと変化します。

 一方、脳の外部では「量子素子(元物質)」が確定され、目に見える物(現象)へと変化します。この内外の関係性と対で起こる変化を「量子もつれ効果」といい、目に見える物と目に見えないものが、一秒間に何億回と繰り返し「対生滅」しているのが宇宙の実相だとします。

(八)仏教の「空」思想、神道、カタカムナ

 実は、以上の哲学、心理学、脳科学、ロボット工学、量子理論などから見た世界観は、すでに二千五百年前に釈迦やその弟子たちが語っている哲理でした。

 例えば、仏教の「唯識(ゆいしき)説」は、この世の現実は意識が作りあげた幻のようなものだから「空」だ。一方「中観(ちゅうがん)説」は、目に見える世界は目に見えない世界と対をなす関係性の中にしか存在せず、目に見える世界だけ見ていても本質を捉えた事にならないため「空」だ、とします。

 ただ、「空」というのは、自分が存在する前に外部世界にまったく何もない(絶対無)というわけではなく、存在しているが意識に入らない限り、"その人にとっては"存在していないのと同じだ、というわけです(相対無)。
 
 「無我」の意味についても、「唯識説」では「私ではない」、つまり「顕在意識ではなく潜在意識(阿頼耶識)が本質」と捉えるのに対し、「中観説」は「私はない」、つまり「私は単独では存在していない」と捉えます。

 そして、「唯識説」では、現実は意識が作りあげたもの(空観)だから自分の内面を変えない限り変わらないとし、「中観説」は、見えるものと見えないものをバランス良くみよとし、いずれも現実に拘るなと強調しています。

 ただ、現実的な関わりにも一時的な役割を認めようと言う立場(仮観)もあります

 これを量子論でいうと、「唯識」が「観察者効果」、「中観」が「量子もつれ現象」です。このような事が起こる理由は、量子は粒子と波動の二面性をもっており(重ね合わせ状態)、一点の粒子(自分の内面)に全宇宙が畳み込まれている(一切即一)からで、これにより「三位一体」となります。

 ちなみに、以上を神道に当てはめると、「唯識」が剣、「中観」が鏡、「一即一切、一切即一」が勾玉に対応しており、「カタカムナ文書」にも類似の記述があります。

 ともあれ、このように「現実(自分の存在を含め)」という万物万象は、「空」というあやふやなものであり、従ってその蓄積である「歴史」も、事実として存在するものではないから拘るなというのが、私が本稿の冒頭で述べた、「歴史を"エンターテイメント"として楽しんでいただきたい」とした真意です。

(九)結論…「日本国憲法」は破綻している

話を政治論に戻しますが、以上の文脈からいって、「自由(人権)を保障する」などと謳うこと自体"絵空事"であるばかりか、「自由意志」による「自由な議論」がありえない以上、「民主主義(国民主権主義)」はその前提を欠いた、ただの"建前"に過ぎないと言えます。

さらに、憲法の三大原則の一つの「平和主義(九条)」についても、すでに述べたようにそれ自体が非現実的な"願望"であるばかりか、相手国との「自由な話し合い」が成り立たない以上、ただの"信仰"に過ぎないといえるのです。

「自由な話し合い」とは、「平和」という普遍的理念を共有し、その実現に向けて相互に拘りのない意見を積み重ねていくことです。が、既に見たように「実存主義」以降の現代哲学では「普遍的」なるものの存在は否定されており、また、人間は刷り込まれた潜在意識によって支配されているからです。

加えて、國體論からいっても、それが「違いを認めつつ一つを自覚する(差異化と同一化の共創原理)」という緩やかな二元的性善説に根ざしていることからすると、統治権の所在を厳格に規定する「民主主義」、非武装化によって政府の行為を厳格に覊束する「平和主義」は整合性を欠くといえます。

そういう意味で、「日本国憲法」は、その成立過程に怪しさを抱えているだけでなく、"欧米グローバリスト"の信奉する人間性悪説的な「キリスト教的価値観」による日本支配のための"桎梏(しっこく)"であり、論理的に成り立っていないばかりか、我が國體には馴染まないものと考えます。

 ただ、欧米の政治システムから取り入れた議会制度は、民意を把握する上で有効な仕組みとして、日本が近代化して以来すでに国民の間に定着しています。

 従って 、私見としては、君主制と民主制の調和が図られた「明治憲法」を参考に、新しい日本国憲法を模索すべきだと考えます。







大東亜戦争と京都皇統・裏天皇

2017-01-10 21:11:42 | 現代
大戦の敗因を探る、14

1)「國體勢力」の具体像

以上、大東亜戦争敗北に至る経緯を中心に述べてきましたが、当時の日本には「国際金融資本」の謀略に対処できる大人物がいませんでした。維新以降、日露戦争までを乗り切った"大黒柱"というべき人物は、戦後教育では"軍閥代表"などと批判されて来た「山県有朋」、そして実務面では政戦両略に長けた「児玉源太郎」でした。

が、昭和に入ってからはそのような"大黒柱"は消え、最後の元老で英米派の「西園寺公望」と、その息のかかった海軍の「山本五十六」「米内光政」、反陸軍派の政治家「近衛文麿」「吉田茂」たちが、"民主主義"という欧米思想の名の下に総力戦体制を破綻させ、敗北に至らしめたとの見方ができるのです。

では、表の政体政府ではなく裏の國體勢力は、大東亜戦争当時、何をしていたのか?特に京都皇統や堀川辰一郎は何をしていたのか?この点を探るため、話を再び戦前に戻し、堀川辰吉郎にまつわる國體勢力ついて整理します。

まず、京都皇統を支える國體勢力としては、「薩摩ワンワールド勢力(玄洋社)」や「丹波大江山系霊媒衆(大本教)」、「京都寺社衆(西本願寺、大徳寺、聖護院、勧修寺)」などがあり、これらが連携して裏から日本を動かしていたようです。

このうち、「丹波大江山系霊媒衆」は、「役行者(役小角)」を始祖とする修験者(諜者)の組織で、通称"八咫烏"と言われることが多く、「日野強(陸軍大佐)」や王文泰こと「出口清吉」、大本教の開祖・出口なおの養子となった「出口王仁三郎(上田鬼三郎)」らが、大陸で「満鮮経略」を実現するために活躍します。



「大本教」は、出口王仁三郎が政治結社・玄洋社の頭山満や、その分派・黒龍会の内田良平らと活動し、信者には秋山真之(海軍)、矢野佑太郎(海軍)、石原莞爾(陸軍)、板垣征四郎(陸軍)らもいて、戦前の軍事政権(陸軍統制派)のコントロールが効かない勢力として危険視され、二度にわたり弾圧を受けます。

ちなみに、出口王仁三郎と元帥・上原勇作(陸軍皇道派)の特務機関で統一教会の創設者・笹川良一、北朝鮮を建国した「金策」こと畑中理、さらに創価学会を創った牧口常三郎と、その兄で青森県下北郡に流れて槇玄範を名乗った「上田吉松」と津軽藩主の娘との間に生まれた子の牧口辺見(戸田城聖の父)」は腹違いの兄弟と言われています。

大本教では、出口王仁三郎の父は「有栖川宮熾仁親王」だとしていますが、上田吉松の動きや、「上田」姓が"物部系賀茂氏"の系統にあることからすると、上田吉松は只者ではなく、その子・出口王仁三郎はもとより、牧口常三郎も"國體勢力"に属したと考えられます。

また、牧口常三郎、戸田城聖が、南朝皇統を正統とし、その皇道に沿った教育を行うために一九一一年に創立した、創価学会の前身となる「大日本皇道立教会(初代会長に光格天皇の第二皇子・中山忠伊の子である中山忠英)」の副会長となっていたことも、両名が國體勢力だとする根拠に挙げられます。

なお、大本教からは後に「生長の家」や「世界救世教」、さらに「創価学会」が生まれますが、創価学会は戦後一時、GHQの工作を受けました。

次に、「京都寺社衆」のうち修験宗の総本山・聖護院、真言宗系の勧修寺は、"飛鳥"の名で呼ばれる修験者(諜者)の拠点でもあり、一方、日野強らと同じく、中央アジア視察を行った西本願寺の「大谷光瑞」、大徳寺の「立花大亀」は、國體資金"黄金の百合"の管理にあたります。



2)「薩摩ワンワールド勢力」と「玄洋社」と「京都皇統」

最後に、「薩摩ワンワールド勢力」ですが、落合莞爾氏の「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(46)」から一部引用すると、上原勇作の特務機関・吉薗周蔵の手記から、「在英ワンワールド勢力」の日本支部ともいうべき薩摩軍人結社の存在とそれを包含する広大な政治勢力の存在が見えてくるとされます。

「ワンワールド勢力」というと、"陰謀論"で語られる「NWo(ニュー・ワールド・オーダー)」、つまり、世界を一元管理しようとする国際金融資本家などのグローバリスト(国際主義者)たちを指して使われますが、その特徴は、「国際主義」と言われることからも分かるように、国を開いて海外との交流を活発化し、その進んだ文化、技術などを取り入れようとする側面もあり、必ずしもダークサイドだとは断定できません。

明治以降、日本にも進出、薩英戦争をきっかけに接点を得た薩摩人脈が深い関係を持つといわれており、これを特に「薩摩ワンワールド勢力」と言います。

が、長州にも「鹿鳴館外交」を推進した井上馨や伊藤博文など「開明派」と言われる存在がおり、必ずしも薩摩に限った話ではなく、さらに昭和期以降は、「国際協調主義」を主張する海軍の「条約派」も含まれることになります。

この「薩摩ワンワールド勢力」を統括していたのが、「政治結社・玄洋社」の中心人物「杉山茂丸」でした。杉山は、工作資金を捻出するため筑豊炭田に目を付け、先ず元老院議官・安場保和に福岡県令就任を請うたところ、安場が上司・山田顕義の承諾を条件にします。山田は安場と玄洋社の結託を警戒しますが杉山に説得されて承諾します。

福岡県令に就任した安場は明治十九年六月、総理大臣だった伊藤博文から炭坑経営に不可欠な「九州民営鉄道敷設」の許可を得ます。

一方、この頃の堀川辰吉郎は、逝去した井上馨の兄・重倉の五男の身代わりとして入籍。重倉も玄洋社員であり、また井上馨も、長州三巨頭の中にあっては京都皇統と密接な関係にありました。
 そして明治二十年三月、杉山は玄洋社の政治工作資金作りの一環として、農商務大臣・井上馨に筑豊炭田の払い下げを要請、実現します。

この頃、更に一歩進んで、「日本は弱い国と戦って勝ち、その現実を世界に見せつけるしかない。叩くべき相手は清国で、攻撃の主目的地を奉天として旅順・大連・威海衛も攻撃対象とすべき」という満州の地政学的重要性をアドバイスした人物がいました。

それが、杉山が石炭の輸出商談のために赴いた香港で知り合った「英商・シーワン」でした。が、この人物こそ、「在英("覇道")ワンワールド勢力」の世界戦略を教授した人物で、これをきっかけに「日英同盟」の話が進展します。

その後、杉山は石炭貿易で得た資金を元手に明治二十三年九月、上海に"国事工作機関"「日清貿易研究所」を作りますが、これはその後「東亜同文書院(旧制の私立大学)」に発展し、根津一(陸軍少佐で、曾姪孫が俳優の根津甚八)が院長に就任します。

ちなみに、当時、「薩摩ワンワールド勢力」の初代総長は維新の功臣・吉井友実で、吉井は二代目総長を第四師団長・高島鞆之助中将に譲ろうとしていました。根津はこの高島の子飼いの人物で、孫文革命を支援する「善隣同志会」を創立し、その会長に高島を迎える計画でした。

このように、杉山(玄洋社)と「薩摩ワンワールド勢力」、「在英ワンワールド勢力」は密接な関係にあり、そしてその震源地が裏天皇・堀川辰吉郎(京都皇統)にあることが見えてくるのです。実際、日本皇室と英国王室(ケルト人)は所縁があるものとされ、親密な関係を築いていることは衆目の知る処です(引用ここまで)。


3)二つの「ワンワールド勢力」と、それをかく乱、分断した英米派

ところで、戦前の日本には「欧州派、英米派(薩摩)」と「満鮮派(長州)」の二つのワンワールド勢力があったと考えられます。前者は「国際派(薩摩)」、後者は「国粋派(長州)」で、元は前者が「騎馬民系(政体派)」、後者が「海洋民系(國體派)」でした。が、明治維新により長州・大室寅之助が「政体天皇」に、睦仁親王が「國體天皇」となったため逆転。

國體・京都皇統は「欧州派(英米派)=主に海軍(薩摩)」、政体・東京皇統は「満鮮派(国権派、国粋派)=主に陸軍(長州)」に分かれたと考えられます。「満鮮派」の目指すものは、「欧州派、英米派」の目指す一神教的な「覇道ワンワールド」ではなく、違いを認めて一つを自覚する、多神教的な”大和心"の「王道ワンワールド」です。

ただ、中華革命に協力した「堀川辰吉郎」や「玄洋社」の動きをみる時、必ずしもこの図式が常に成り立つものではなく、ましてや上原勇作を嚆矢とする「陸軍皇道派」の存在まで考慮すると、「満鮮経略」は薩長、さらに政國両体にとって、古代日本からの地政学的国是だったことが窺われます。

もうひとつの國體勢力の「丹波大江山系霊媒衆」も、出口清吉と出口王仁三郎、日野強を中心に大陸で活躍、支那の王族の末裔などで組織されたアジア最大の秘密結社「世界紅卍会」を作り、日本の大本教と連帯、関東軍参謀・石原莞爾や板垣征四郎らを動かして満州国建国や大亜細亜主義の実現に向け活動します。

が、昭和期に入り、グローバリスト西園寺公望らが薩長、政國両体のかく乱工作に成功。昭和天皇もこれら”君側の奸”に包囲されていた結果、大本教は弾圧され、また2・26事件の決起部隊は”叛乱軍”と認定され、「陸軍統制派」を巻き込んで日米開戦に突入、フリーメイソンが占める「海軍条約派」による戦略破綻行動で敗北したと考えられます。

この結果、日本の敗戦によって米国(を支配する国際金融資本)などの覇道ワンワールド勢力による「戦後占領体制」が構築され、その象徴として、「日本が二度と欧米に楯突かないように」との狙いから、日本の非武装化を定めた「日本国憲法」がGHQの管理の下、半ば強制的に制定させられます。

また、当初、マッカーサーは天皇制の廃止を考えていたようですが、堀川辰吉郎は「そんなことをすると、本土決戦に備えて温存されていた340万の曰本軍が3千機の航空機、千機の特攻兵器を使って最後の一兵まで抵抗しかねない」、「それは避けるには天皇を通して間接統治を行うべき」と説得したため、天皇制の廃止は見送られたと聞いています。

ところで、「憲法改正」については目下、戦後最大の政治課題となっています。これに関して護憲論者からは、憲法九条は、「当時首相だった幣原喜重郎から提案された」とか、「それを昭和天皇が望んだ」などという説があります。

しかし、既に見てきたように幣原は、吉田茂、重光葵らと並ぶ、黒幕・西園寺公望の育てた英米派グローバリストのメンバーで、日本国體の解体を目論むフリーメイソンの噂もある人物ですので、真に日本の将来を考えていたとは考えられません。が、あえて昭和天皇がそれを承知で「九条導入」を望んだのは、

国際環境の変化により日本の非武装態勢が行き詰まって改憲機運が高まることを当初より予想、これを奇貨として一旦挫折したかに見えた「河豚計画」などのアジアに真の安定を目指す「満鮮経略」を再開、展開するためのための"時限装置”として、策士・堀川辰吉郎から「70年間だけは我慢しているように」とのアドバイスがあったためと仄聞しています。

確かに、一昨年、安倍政権は「安保法」を成立させました。が、これはあくまで米軍を通して日本の国益を守るための法制度で、米国の国益と無関係に日本が独自の判断の下、自衛隊を機動的に運用することはできず、依然として米国の世界戦略に振り回されることとなり、「大亜細亜主義」の理想は実現できません。

一般に、大東亜戦争の一部である米国との「太平洋戦争」は、1945年8月15日をもって終わったこととされています。が、それが"敗戦"とは言われず、あえて"終戦"と呼ばれている理由は、あくまで"米国との直接対決"という限定戦争が一旦終了したという意味です。

すでに見てきたように、インドネシアや台湾、ベトナムなどに残留し戦った日本軍人は、単なる"義侠心(お人好し)"からアジア各国の独立戦争に協力したわけではありません。あくまで「違いを求めて一つに帰る」という「大亜細亜主義(大東共栄圏)」の理想を実現するために残留したわけです。

そして、終戦後、日本軍の残置諜者が建国し、今も活躍する北朝鮮は、核やミサイルを使った外交戦で周辺国や米国に揺さぶりをかけています。また共産党支配下の支那も崩壊は時間の問題と言われ、「満州国再建」も視野に入ってきました。

「新満州国」には、イスラエル内部での「スファラディー・ユダヤ人(アジア系)」との覇権争いに敗れた「アシュケナジー・ユダヤ人(ハザール人系のなりすましユダヤ人)」を受け入れることが予定されているようで、キッシンジャーやジョージ・ソロスも下準備に動いているそうです。

まさに、玉石混交の"河豚(ふぐ)計画"ですが、これは"世界の火薬庫"と言われるパレスチナ問題解決に向けた平和的な動きです。ともあれ、そういう意味で「大東亜戦争」は未だ継続中ですが、間も無く欧米の自壊とともに日本の勝利?(=目的達成)で幕を閉じようとしています。

このような、「違いを認めつつ、一つに帰る」という「差異と帰一性の共創原理」に支えられ、竹内文書や契丹古伝などにも記されている、超古代にあったとさる日本主導の「王道のワンワールド」を復活させる、気宇壮大なる大戦略を描き推進してきたのが堀川辰吉郎などの「裏天皇」と「京都皇統」なのです。

ポツダム宣言受諾後の日本軍の動静

2017-01-10 21:02:58 | 現代


大戦の敗因を探る、13

1)終戦後も現地に残り、アジア各国の独立を支援し続けた日本軍人

ところで、米国を相手にした太平洋戦争を含む日本にとっての第二次世界大戦、すなわち、大東亜戦争は、昭和20年(1945年)8月15日のポツダム宣言受諾をもって終わった、それも日本の敗戦で終わったというのが通説です。

しかし、昭和20年8月15日をもって、アジア、太平洋に展開していた全ての日本軍が一斉に降伏し、武装解除に応じたかというとそうではありません。既にご存知のように、満州や内蒙古、南樺太や千島列島では8月15日以降もソ連軍の不法な侵攻が続き、「占守(シュムシュ)」をはじめとした各地で日本軍もやむなくこれに応戦していました。

それ以外の地域でも、例えば、支那大陸では約150万の「支那派遣軍(北支那派遣軍含む)」が、戦況有利の下に展開していて「徹底抗戦」を主張しており、また、東南アジアと一部太平洋方面では「南方軍」約80万が、それもシンガポールやマレーシア、インドネシアなどは全くの無風で、静穏のうちに駐屯していました。

特に、南アジア、東南アジアに展開した日本軍は、「大亜細亜主義」に基づいた「大東亜共栄圏」を実現するため、欧米による植民地支配を打倒した後、亜細亜各国の独立を促進するため尽力していました。確かに、日本が亜細亜の盟主になり、日本を中心にした経済圏を作り、石油などの資源の安定供給を図る目的もありました。

が、それが欧米諸国の植民地支配と決定的に異なった点は、例えば、日本人と変わらぬ教育を平等に施すなど現地住民に対等な立場を認め、次々に独立させていったことです。反対に、欧米諸国の場合、植民地の人々を奴隷同然に扱い、欧米の不当な支配に目覚めさせないため教育の機会を奪ってきました。

日本が現地住民に対等な立場を認めた方針の背景には、全てを日本人が管理するとなると、手間・ヒマ・コストの負担が大変だという事情もありましたが、「違いを認めて一つに帰る」という「大亜細亜主義」の理想に基づいた"分権・分業社会"の実現を目指したからで、今日のODA(政府開発援助)の方針と軌を一にしています。

このような方針で軍政を敷いていた関係で、ポツダム宣言受諾後の亜細亜地域における日本軍、ないし日本軍人の一部は、「大東亜共栄圏」の実現を完遂すべく、引き続きアジア各国の独立を支援する動きを継続していたのです。

例えば、陸軍中野学校出身者からなる「藤原機関」「光機関」「岩畔機関」が、大戦中からインドでINA(インド国民軍)を、ビルマでは「南機関」がBNA(ビルマ国民軍)を養成し、インパール作戦の際には日本軍とともにイギリス軍と戦い、これがきっかけとなって昭和18年8月のビルマ独立、大戦後のインド独立が実現します。

また、インドネシアでは、日本軍の駐留以降、ジャワ派遣軍(第十六軍)司令官・原田熊吉中将の指示でPETA(祖国防衛義勇軍)が創設され、終戦までに育成された3万8千名の隊員が対英・蘭独立戦争(スラバヤ戦争)の中心となり活躍します。が、問題は、インドネシアには独立戦争を戦い抜く武器がなかったことです。

そこで、第十六軍の宮元参謀は、ポツダム宣言受諾の後、ほとんどの武器を都市部に放置したまま部隊だけを山間部に移動させ、PETAなどのインドネシア独立軍に武器が渡ることを黙認します。この結果、インドネシア独立軍は日本軍の戦車、航空機、大砲、機関銃、小銃など約2万丁を入手し、戦い抜くことができたのです。

また、インドネシア独立戦争には、高井大尉らのグループ2千名と、市来・吉住部隊1千名の残留日本軍人が直接、戦闘に参加、そのうち約100名は独立達成後もインドネシアに残留したそうです。これら日本軍人の貢献に対しインドネシア政府は勲章を授与し、1958年にはスカルノ大統領によって西新橋の青松寺境内に顕彰の石碑が建立されています。

この他にも、昭和19年10月にはフィリピンを独立させ、フランス領インドシナ(仏印)では、昭和20年3月にベトナム、ラオス、カンボジアを独立させます。さらに、日本が撤収した朝鮮半島でも、中野学校出身者が北朝鮮の建国に関わりますが、これについては別項で詳述します。

この中で刮目すべきはベトナムで、そこでは「対英・仏独立戦争」だけではなく、米国を相手にした「ベトナム戦争」に到るまで、残留日本軍人(残置諜者)が関与し、その勝利に貢献していた歴史的事実です。

大東亜戦争中、ベトナムはフランスの植民地でした。したがって「大東亜共栄圏」の実現を目指し、また、南方資源地帯への足場を確保したい日本はベトナム進出の機会を窺っていました。ただ、欧州におけるドイツのフランス占領によって、フランスにはドイツ傀儡のヴィシー政権が生まれていたため、日独伊三国同盟の関係もあって、

当初、日本はベトナムをフランスと共同統治します。が、連合国側のノルマンディー上陸作戦によってヴィシー政権が崩壊したことを奇貨として、日本はベトナムの地名・安南の安をとった「安機関」が中心になって昭和20年3月、「明(めい)号作戦」でフランス軍を駆逐、ベトナム、ラオス、カンボジアを独立させます。

が、半年後には終戦となったため今後の方針を巡って日本軍内に議論が起きます。しかし、日本軍が撤退すると英・仏が再びインドシナを支配することは火を見るより明らかでした。また、本国からは「陸軍中野学校出身は、日本軍の引き上げ後も現地に残留し、日本国家の隆盛を祈念しつつ諸工作を実施すべし」との密命が下されます。

そこで、「明号作戦」は終戦後も継続されることとなり、金子大尉、岡部肇大尉、石川吉光大尉、山田隆一大尉、牧田保彦大尉、日比少尉ら約600人が残留を決断します。実際、ベトナム人たちは、「どうせ5年もすれば日本が立ち直って南進してくるから、このままいろ」と言って日本軍人を匿ったそうです。

そのため、今度は日本軍中心ではなく、「ベトミン(越南独立同盟)」などのベトナム人組織を支援することとなります。例えば、井川省少佐はフランス軍から数千点の武器を奪いベトミンに供与、石井卓雄少佐もカンボジアの捕虜収容所を脱出し、ベトミンに合流、顧問としてゲリラ戦を指導します。

さらに、山田隆一大尉は「クアンガイ陸軍中学」「トイホア陸軍中学」を設立して校長に、塔本成幸大尉は副校長に、中原光信少尉と大鋸四方太少尉、譜久村正吉曹長は実戦を指導します。このような日本軍人の活躍が後年の「ベトナム戦争(対米戦争)」にも生かされ、戦争初期には北ベトナム軍は旧日本軍の「三八式歩兵銃」を使っていたそうです。

また、硫黄島やペリリュー島と同じような複雑な地下壕をベトナムのジャングルにも縦横無尽に張り巡らして米軍を悩ませました。さらに、1968年1月30日の「テト攻勢」の際、北ベトナム軍がサイゴンの米国大使館を攻撃、一時占拠したことがありましたが、この作戦も日本軍人が立案したものとされています。

が、戦後の日本政府が、これら日本軍人が活躍した事実をひた隠しにしたのは、日米安保条約の存在と、冷戦下で共産圏と対立するなど、当時の複雑な国際関係に配慮してのことでした。一方のベトナムでも、このような日本軍人の活躍は"封印された歴史"でした。

が、近年、ハノイ大で研究会が2度開かれたほか、ベトナム紙・ティエンフォンは、「ホーおじさん(ホー・チ・ミン)の兵士になった日本兵」の見出しで、日本軍人が教官を務めたベトナム初の陸軍士官学校元幹部の手記を大きく掲載。「近代的な軍に変わろうとしていたベトミン軍には日本軍の支援が必要だった」と報じています。

そして、ベトナム政府と国防相はこのような日本軍の教官たちに「戦功褒賞」を、作戦に参加して戦功をあげた日本軍人に「戦勝勲章」を授与、特に谷本少尉と猪狩中尉には「戦功褒賞」と「戦勝勲章」の二つを授与し、日本に対する多大な感謝の意を表しています。



2)台湾を救ったサムライ(日本軍人)たち

東南アジアの他に、もう一つ、旧日本軍人が終戦後も密かに活躍した地域として台湾があります。1949年9月、中共軍によって大陸で劣勢に立たされた国民党の蒋介石は台湾に拠点を移したため、中共軍2万が台湾海峡にある金門島に侵攻してきます(金門島事件)。が、結果は旧日本軍人の活躍で国民党側の圧勝に終わりました。

蒋介石は1943年のカイロ会談には招かれましたが、大戦の後半、中共と雌雄を決する戦いが近いことを視野に入れていたため日本軍と本気で戦う意思がありせんでした。このため、汪兆銘政権の重臣でもあった繆斌(みょうひん)と密かに通じ、これを使者として日本に送るなど、日本との講和を模索します。

実はこの動きは、「大亜細亜主義」の精神に基づいた日支連携を推進する日本の裏天皇・堀川辰吉郎の指南で進められたものでした。が、このことが、実は元々、国際金融資本を通じて裏で繋がっていた資本主義陣営のルーズベルト、チャーチルと、社会主義陣営のスターリンら「"覇道"ワンワールド勢力」の知るところとなり、

蒋介石は、1945年に行われたヤルタ会談、ポツダム会談へは招かれませんでした。その結果、米国からの軍事的支援も断ち切られ、外交的にも孤立し瀬戸際に立たされていたため日本に救援を求めます。

その背景には、もちろん日本軍が豊富な実戦経験を経て、少ない物量を元に寡兵をして大軍に打ち勝つ術を熟知していたこともありました。実際、支那大陸では、蒋介石自身も「我々は日本軍に一度も勝ったこと記憶がない」と言っていたように、日本軍は55戦して54勝1敗でした。

また、蒋介石自身、辛亥革命に失敗して日本に亡命した際、東京振武学校や日本陸軍第13師団で日本式の教育を受け、孫文らとともに日本の「大亜細亜主義」思想と反共思想に共鳴していたこともありました。

この蒋介石の要請を受け、堀川達吉郎は、元支那派遣軍総司令官の岡村寧次(陸軍大将)、元北支派遣軍司令官の根本博(陸軍中将)、元第二十三軍参謀長の富田直亮(陸軍少将)らと謀り、蒋介石が故宮の財宝とともに持ち出した"黄金の百合"の扱いを含め、対応を練ります。

そしてまず、根本ら8人を30トンの漁船で密航させます。途中台風に遭い米海軍の警備艇に救助されますが、無事、基隆港にたどり着きます。根本ら8人は軍事顧問として早々に金門島の要塞化に取り掛かり、また国民党軍に対し日本式の軍事訓練を行って中共軍を迎え撃ちます。

当初、国民党軍司令官は、金門島の北部地区の村・古寧頭での決戦を主張しますが、根本は住民への被害が及ぶことを憂慮して反対、日本軍が得意とする複角壕陣地を構築し、中共軍を島深部に引き入れての作戦を主張、これを実行し見事、中共軍を壊滅させます。

ちなみに、支那派遣軍総司令官時代の岡村は、「滅共愛民」との理念に基づき「焼くな、犯すな、殺すな」という三戒の遵守を通じた風紀粛正によって軍の規律を正し、また、1944年(昭和19年)に行われた支那大陸史上最大の「大陸打通作戦」では、圧倒的な勝利をおさめています。

また、北支那派遣軍司令官時代の根本は、1945年8月15日のポツダム宣言受諾後も、なお侵攻を止めないソ連軍の攻撃に対し、連日の猛反撃を行って蒙古聯合自治政府内の張家口付近に滞在していた在留邦人4万人を救うとともに、終戦処理に当たっても北支那方面に派遣されていた35万人の日本軍の帰国を実現させています。

その後も金門島、さらには台湾への中共軍による再度の侵攻が予想されたため、今度は富田が中心となり、澄田賚四郎(陸軍中将)、十川次郎(陸軍中将)、山本親雄(陸軍少将)、及川古志郎(海軍大将)ら83人の元日本軍人が台湾に密航、約20年に渡って国民党軍を指導します。

派遣に先立って東京・高輪の小さな旅館で、日本側から岡村寧次ら、台湾側からは曹士澂少将(日本陸軍士官学校卒)、陳昭凱大佐が出席し、「赤魔は日を追って亜細亜大陸を風靡する。平和と自由を尊び、日台提携の要を確認する両国の同志は、東亜の反共連合の為に決起し防共に邁進すべき秋である…」との盟約書を交わします。

この派遣された旧日本軍人の一団は、富田の偽名・白鴻亮の一字から「白団」(ぱいだん)と呼ばれ、彼らは台湾軍将校に、幕僚課程の必須科目として旧日本軍の反共精神から戦略、戦術、教練、通信、兵棋、戦史などをたたき込み、大佐以上の者には「陸軍指揮参謀大学」を設立して高等教育を実施します。

なお、実際、中共はその後、再び台湾への侵攻を準備します。が、同時期に朝鮮半島で北朝鮮軍の南進が起こり、これが原因で中共による台湾侵攻の野望は挫折しますが、もちろん、この北朝鮮の背後にも、堀川達吉郎の意を受けた日本人残置諜者の存在があったことについては別項で述べます。


陸軍の一部と政治家にも内通者が

2017-01-10 20:58:51 | 現代


大戦の敗因を探る、12

1)瀬島龍三の正体

既に示したように、日本を敗戦に導いた敵方との内通者の多く英米派が多くを占めた海軍が中心でした。では陸軍には全くいなかったかというとそうではありません。大本営作戦課作戦班長補佐で、後に"連合艦隊参謀"も兼任していた瀬島龍三です。

瀬島の大戦中における最大の裏切りには二つあります。一つは、昭和19年10月に行なわれたフィリピン・レイテ決戦での作戦立案における情報隠蔽です。

当時の日本軍は、マリアナ沖海戦で大敗したため空母4隻と艦載機は200しかありませんでした。が、日本側は、フィリピン、台湾、南九州に約1000機の基地航空隊を保持しており、これらを有効に活用すれば逆転も夢ではないと考えていました。

そのため米軍は、これら航空基地に全機動部隊をあげて激しい空爆をかけ日本側も総力を挙げ反撃に出ますが、これが"幻の台湾沖航空戦"です。

が、"幻"といわれる所以は、実際の米軍の損害は重巡2隻が大破しただけにもかかわらず、撃沈した空母19隻、戦艦4隻、その他22隻と発表されたからです。一方の日本側は大半の航空機を失い、基地戦力が大幅に低下してしまいました。

ところが、この戦果に疑問を感じた大本営の情報参謀だった堀栄三少佐(戦後は自衛隊陸将補)は、現地入りしてパイロット一人一人に聞き取り調査を実施。その結果、海軍の戦果報告が"妄想"であることを突き止め、大本営作戦課に報告。

が、報告を受けた瀬島はこの情報を握り潰します。「決戦は米軍の艦爆が効かない山岳の多いルソン島で行なうべし」とする山下奉文大将の主張を遮り、「台湾沖航空戦で米軍機動部隊は壊滅している」として平原の多いレイテ島に決定したため、日本軍は米軍の凄まじい空爆と艦砲に曝され壊滅します。

もう一つの瀬島が犯した裏切りは、1945年2月のヤルタ会談で密約された「ソ連の対日参戦情報」を巡るものです。この情報をつかんだのは、日本で最高のスパイといわれたストックホルム駐在武官の小野寺信陸軍少将です。

この情報を元に、満州での対ソ戦の準備をし、また居留民の避難などの対策を打っていれば、20万人以上といわれる日本人犠牲者を出さずに済んだはずでした。が、大本営でこの情報を受けた瀬島はまたもや握りつぶします。

瀬島は終戦直前の7月に急遽、関東軍参謀として満州に転属、ソ連との停戦交渉に当たります。が、「全国抑留者補償協議会会長」の斉藤六郎氏によると、瀬島は停戦の条件として、あの6万人もの犠牲者を出した日本軍捕虜等約60万人のシベリアでの強制労働を許したと証言しています。

また、瀬島はシベリアに11年抑留されますが、そのうちの3年間は所在不明とされています。が、松本清張が明かした駐日ソ連大使ラストボロフ亡命事件に際して表に出た文書によると、瀬島は、ドイツと日本の軍人をソ連のスパイとして養成する「第7006捕虜収容所」にいたと書いています。

終戦後、瀬島は伊藤忠商事に入り会長に登りつめます。が、昭和62年の「東芝機械ココム違反事件」に関わり、スクリュー加工用の高性能機械や数値制御装置等を不正輸出、ソ連の原子力潜水艦のスクリュー音を激減させ、米軍を脅威にさらしたと、元内閣調査室長の佐々淳行氏が証言しています。

また、警察庁時代の佐々氏の上司だった後藤田正晴(田中内閣の官房長官で反日売国奴)も、「瀬島がソ連のエエージェントであることは、知らない方がおかしいんで、みんな知ってるよ」と語っています。

ちなみに、「日本は中国の属国として生きていけばいいのです。…それが日本が幸福かつ安全に生きる道です」と公言してはばからない元中国大使の丹羽宇一朗(元伊藤忠商事会長)も、瀬島と同じ文脈の人物と見て良さそうです。

2)日本を売った戦中の政治家

内通者は政治家にもいました。まず、近衛文麿は日本の敗北に影響を及ぼした「ゾルゲ事件」に関わります。事件では朝日新聞記者だった尾崎秀実が、近衛の顧問として西園寺公望の孫の西園寺公一を通じて得た「日本軍はシベリアに北進しない」との情報をソ連スパイのゾルゲに漏らします。

この結果、ドイツ軍の侵攻で大混乱していたスターリンは、ソ満国境に張り付けていた大軍を対独戦に投入、大戦の勝利を確実のものにします。尾崎は死刑になりますが、西園寺は執行猶予、近衛は不問、ゾルゲはなぜか秘密裏にソ連に帰されるという不可解な処分が行なわれます。

次に、外務官僚だった吉田茂は、戦時中、英米に重要国家機密を漏らしたとされる「ヨハンセン事件」で摘発された"反(陸)軍思想家"でした。この事件で摘発されたことが幸いした吉田は終戦後、戦犯指定されることなくGHQから信任され首相になりますが、詳細は後述します。

が、東條英機などの旧陸軍への強烈な恨みから、徹底的な軍国主義の排除と日本の非武装化を定めた新憲法を制定。その後のGHQの政策転換による日本の再軍備の要請も受け入れることなく、不平等な日米安保条約を締結、対米隷属化を図った張本人です。

さらに、日米開戦直前に、開戦回避の最後の打開策として近衛が考えたルーズベルトとの直接会談を潰した外務大臣・幣原喜重郎も、終戦後、日本の非武装化を図る新憲法を推進した"英米派"の一人です。

この他、昭和20年3月、実は蒋介石の密使でもだった南京臨時政府主席・汪兆銘の重臣・繆斌(みょうひん)が来日した際に、小磯内閣の最高戦争指導会議では、繆斌を通じて蒋介石との単独和平の話を進めてはとの意見が陸軍側から提案されます。

というのも、1944年に行なわれたヤルタ会談に蒋介石が呼ばれなかったことでも明らかなように、連合国側は、いくら軍事援助をしても日本軍に勝てない蒋介石に見切りを付け、急進しつつあった中国共産党へのてこ入れを考え始めていました。

加えて、かつて日本軍将校だった蒋介石は、頭山満、石原莞爾らの「大亜細亜主義」の信奉者で、本気で日本と戦う気がなく、来るべき共産党勢力との決戦を想定していたからです。一方、連合国側もこのことを見越して、日本との連携し「一つの亜細亜」を模索する蒋介石に見切りをつけていました。

このため、焦った蒋介石はこれを奇貨として日本との単独講和を模索し始めます。また日本側としても、泥沼化した中国戦線から100万人以上の大軍を撤収して本土決戦の準備をし、さらに蒋介石を通しての大東亜戦争終戦工作もできるとして、まさに"渡りに船"でした。

しかし、これに強硬に反対した重臣が外務大臣・重光葵です。理由は「正規の外交ルートではないから」という形式的かつ不自然なものでした。重光といえば、一般的には戦中戦後を通じて"良識派"として評価の高い外務大臣です。

が、繆斌の友人でもあり、「東亜連盟」を通じてともに大東亜共栄圏の構築を目指した"天才戦略家"石原莞爾の証言によると、重光は、蒋介石の復権により"用なし"にされる汪兆銘政権から2000万円(現価150億円)の賄賂を受け取っていたということです。

このように、外務省は海外との接点があることから良くも悪くも外国の影響を受け、"国際協調(グローバリズム))"の名の下に、以上挙げてきたような売国的な外務大臣を生む土壌持っているようで、このような文脈からすると真珠湾攻撃の直前に外務省職員が宣戦布告の打電をしなかったことも単なる"ミス"ではなかったものと考えられます。


3)吉田茂の正体…終戦後の内外環境

ところで、戦後保守政治の中核にあるのは、言うまでもなく自由党と日本民主党が合体してできた自由民主党です。が、「保守」とは、「民主主義」と同様に実に曖昧かつ多様な解釈を可能にする概念で、単なる「現状維持(守旧派)」から、「復古的改革(国粋主義)」まで様々な用いられ方をされます。

が、一般的に受け入れられている印象としては、理想と現実をバランスよく調整して対処する政治思想(姿勢)で、それ故に、いわゆる「親米保守」や「親中保守」などの外国依存の勢力を生み出してきました。が、これら勢力の実態は、日本の国益を損なう"売国勢力"といっても過言ではありません。

特に、国防を米軍に依存する戦後体制は、とても「独立国」と言えるものではありません。そこで、戦後も生き残り総理大臣にまでなった吉田茂について、戦前戦後の動きを仔細に分析し、その正体を明らかにします。

まず、日本の敗戦とともに朝鮮半島は北はソ連、南は米国が占領し、昭和23年には韓国に李承晩政権、北朝鮮に金日成政権が誕生しました。韓国には45000人の米軍が駐留していましたが、防衛線を日本列島にまで下げ撤兵したため、昭和25年6月25日に北朝鮮が侵攻を始めました。

マッカーサーは、急遽、日本の札幌、仙台、東京、大阪、九州に駐留する75000人を朝鮮半島に派遣。この結果、日本国内にいる北朝鮮を支持する数十万人の在日朝鮮人と日本共産党が一斉に蜂起する危険が高まりました。また、北方からはソ連の侵攻も招きかねない情勢になりました。

実際、国内においては、昭和20年9月に共産党が主導する争議団が、読売新聞社長・正力松太郎の戦争責任を追及し経営権を握るという前代未聞の事態が、21年5月には皇居前で「コメよこせ!」デモも発生、共産党の勢いは止まりませんでした。

が、これらは、皮肉にもマッカーサーの出した「人権指令」によって労働組合の結成が許可され、治安維持法が廃止され、宮本顕治や袴田里見らの政治犯が釈放され、中国にいた野坂参三を帰国させる等、GHQの日本民主化方針によってもたらされたものでした。

ところが、あまりの共産党の勢いに恐れをなしたGHQは、一転「ゼネスト禁止令」を出し、事態の収拾を図ろうとします。が、在日米軍なき後の国内治安には自信が持てず、日本政府に「警察予備隊」の創設を要請します。


4)吉田茂の正体…「警察予備隊」創設を巡る暗闘

急遽、編成された警察予備隊には、米軍から支給された武器、弾薬、運搬車両などが装備されました。また、一般隊員の募集も行なわれ、全国から7万5千人が採用されました。

が、日本の本格的な再軍備を熱望するGHQのウィロビー少将は、現状を見て「大隊以下の指導体制は整っているがそれ以上は貧弱で、改善するには公職追放になっている大佐クラスの旧軍将校を使う以外にない。また上層部を支配している警察官僚の除去が必要」との意向を日本政府に伝えました。

これを受けた日本政府は、昭和25年にシブシブ(?)第1回の公職追放令を解除、陸軍士官学校の58期卒業生への募集を始めます。が、陸士58期は最後の卒業生で実戦経験がほとんどなく、警察予備隊は依然機能しませんでした。

当時、豊富な経験を持ち、組織編成や作戦立案に長けているのは、元大本営陸軍部作戦課長だった「服部卓四郎・元大佐」を中心にしたグループ以外には適任者はいないというのが、軍事関係者の間での共通認識でした。また、ウィロビー少将自身も服部卓四郎の登用に強い期待を抱いていました。

が、日本政府はその後も「服部卓四郎」ら"服部機関"の採用を拒み続けます。その背景には、日本国憲法を骨抜きにし、日本の再軍備に拒絶感を持っていた内務(警察)官僚や政治家の存在がありました。その中心人物こそが「内閣総理大臣・吉田茂」だったのです。


5)吉田茂の正体…国民は再軍備に賛成していた

吉田は、昭和25年7月の国会答弁で「憲法の戦争放棄は実によい条項で国民は守るべきだ」と、また昭和26年にトルーマン大統領の特使として急遽来日し日本政府に再軍備を促した、後の米国務長官となるダレスにも、「再軍備論は不必要な疑惑を内外に与えている」と述べています。

吉田は、軍事、外交は米国任せで、日本は本格的な軍事力は持たず、経済優先で行く」という"反戦思想"ないし"対米隷属思想"に固まっていたのです。

吉田が日本の再軍備に反対した主な理由は、1)日本は敗戦で疲れ切っているので財政上不可能である、2)国民は反戦気分からその多くは再軍備に反対である、3)日本が再軍備をしたら近隣諸国に不安を与える、ということでした。が、武器は米軍より供与されていました。

また、昭和25年9月の朝日新聞の調査では、再軍備賛成53・8%、反対27・6%、分らない18・6%、翌3月の読売では賛成47・3%、反対23・6%、分らない29・1%、9月の毎日では賛成76・3%、反対12・1%、分らない7・9%となっており、吉田は完全に国民の意思を無視したのでした。


6)吉田茂の正体…吉田が"反戦思想家"になった経緯

吉田はロンドン駐在中にスコッチ・メーソンになったという説がありますが、その背景には養父の健三が欧米エスタブリッシュメントと深い関係を持っていたからのようです。

健三は1864年、16歳の時、家を出て大阪で医学、長崎で英学を学んだのち、1866年英国軍艦に便乗して欧州に遊学し明治元年に帰国します。その後「英一番館」ことジャーディン・マセソン商会に入り、番頭をふりだしに独立、さまざまな事業を手がけ横浜で1、2を争う富豪となります。

一方、健三の父である渡辺謙七もジャーディン・マセソン商会で番頭をやっていたようで、渡辺謙七は福井藩を脱藩した後に横浜へきてジャーディン・マセソン商会に入社、その後、回船問屋になったということです。
 
吉田健三は、上海にいたサスーン、ジャーデイン・マセソンというロスチャイルド財閥から援助され財をなしますが、長崎にいた女性との間に子ができ養子にしますが、これが吉田茂であるという説もあります。(ソースhttp://d.hatena.ne.jp/m3953/20101221)。

それはさておき、吉田が、服部らの登用を拒み続けた背景には、戦時中味わった軍部からの弾圧の苦い記憶があり、その結果、"軍国主義者"と決めつけていた旧軍人関係者、とりわけ大本営中枢にいた高級参謀に対する根強い反感、不信感を持ち続けた言われています。

吉田がこのような思想、信条に至った経緯を戦時中の記録から紐解きますと、まず昭和13年に駐英大使として英国に赴任。当時、外交上の最大の課題は「日独防共協定」の締結でしたが吉田は反対。が、5ヶ月後には協定は締結されます。

そして昭和14年入り、帰国した吉田は「ヨハンセン・グループ(吉田反戦グループの略)」を作り、例えば、御前会議の内容をアメリカ大使のジョセフ・グルーに流し続けるなど、国家機密を漏洩しているのではないかという疑惑が持たれ、特高警察の監視下に置かれます。

このことは、「吉田茂が樺山愛輔(近衛文麿や西園寺公望の側近・原田熊雄、松平恒雄などと同じ「ヨハンセングループ」の一員)に流し、樺山がグルーのところに持って行って、グルーが電報を打って次の日には米本国に…」とグルーも『回想十年』に書いてます。

そして対米戦が勃発し、ミッドウエイ海戦後の昭和17年暮れに、吉田は近衛らとともに密かに和平工作を始めます。また昭和19年7月の近衛の上奏文には、「戦争継続を強行している軍の一部や東条内閣を一掃しなければ革命の危険が高まる」とあったため、吉田は遂に検挙されます(ヨハンセン事件)。

ちなみに、終戦後においても、吉田の側近だった辰巳栄一・元陸軍中将は、CIAに「POLESTAR―5」のコードネームで呼ばれ、日本の再軍備や内閣調査室の創設にかかわる情報を提供していたことを示す公文書が、有馬哲夫早大教授によって米国立公文書館で発見されています。

また、吉田は西園寺の秘書・原田に手紙を出し、「If the Devil has a son, surely he is Tojo(悪魔の子とは東條のような者のことをいう」、また東條がピストル自決に失敗した時は「往生際の悪い奴に候」と書いており、東條らに対する恨みを抱いていたことが窺われます。

吉田は、昭和21年6月の国会審議の中で、共産党の野坂参三が「戦争には侵略戦争と防衛戦争の二種類があり、憲法には侵略戦争の放棄とするのが的確ではないか」と質すと、「防衛戦争を認めると侵略戦争があることを前提とすることになり、戦争を誘発する」として自衛戦争まで否定しています。

なお、以上の吉田に加えて、警察予備隊、その後の保安隊、自衛隊の編成、運営に関しては、後年、吉田の息のかかった親中派・田中角栄の側近となる後藤田正晴や海原治ら警察官僚も加わって、服部らの愛国派軍人は排除され、長きに渡って自衛隊は中途半端な存在に据え置かれることになります。

7)服部卓四郎と吉田茂暗殺計画

以上の様な背景の下、昭和27年7月、吉田首相を暗殺して鳩山一郎を首相にするクーデター計画が、大本営作戦課長だった服部卓四郎元大佐ら旧軍関係者によって進められていたという米国公文書が公表されたと、平成19年2月27日の時事通信が報道しました。

首相・吉田茂は、戦後、警察予備隊、自衛隊の創設に際して服部を目の敵にします。GHQは服部の持つ情報が欲しいため戦犯指定を見送りますが、このため戦後の服部に対する評価は辛辣を極めます。が、勝ち戦と負け戦、この双方を経験した服部は、戦後日本の再軍備には不可欠な存在でした。

また、服部自身も辻正信ら他の愛国派元軍人らとともに、国際情勢の変化に対応した日本の本格的な再軍備を強く望んでおり、"服部機関"と呼ばれたグループは、GHQウィロビーの後押しもあって、綿密な再軍備計画を立案しています。

が、反戦主義者の吉田茂らによって悉く邪魔され、本格的な再軍備は遠のくばかりでした。そのような苛立ちの中、吉田を暗殺して鳩山一郎を首相にするクーデター計画が服部らによって進められます。が、計画は、「時宜を得ない」との辻らの説得により中止されます。

また、その後創設された自衛隊も中途半端なものにされ、結果、"対米隷属"の構造が固定化され、戦後占領体制への不満は募るばかりでした。そして不満が爆発したのが、後に起こった「三無事件」「三島事件」などのクーデター未遂です。