誇り高き日本の歴史

学校での歴史教育は大東亜戦争の敗戦で歪められ、真実は30%程度に過ぎないため真の国史を明らかにします。

日露戦争とその真相

2017-01-09 01:21:43 | 近代


大戦の敗因を探る、5

1)日英同盟とユダヤ資本

さらに、列強の草狩り場と化した支那では、清朝政府のていたらくに怒った民衆が各地で「義和団事件」を起こします。これに対し、権益保護を名目にしたロシアは満州に大軍を進めて占領してしまい、朝鮮半島への侵攻が時間の問題となります。

ここで日本政府は、英国と手を結んでロシアに対抗すべしとする山県(陸軍参謀総長)や桂太郎(総理大臣)と、GDP比で8対1の大国ロシアと戦う自信のない伊藤、井上らの二派に割れます。

が、軍事大国ロシアの南下政策は、インドを植民地とし揚子江一帯に権益を持っていた英国にとっても脅威で、日本と英国は利害を共通にしていました。そのため、山県らは、過去一度も外国との同盟を結んだことがない英国と、ロシアを仮想敵国とする軍事同盟「日英同盟」を締結します。

ただ、開戦に際しての大きな懸案は、巨額の軍事費をどう捻出するかでした。世界最強のロシア軍と戦うには、英国製の最新の軍艦から大砲、弾薬まで大量に調達する必要があります。が、当時の日本銀行の金庫にはわずか1億円しかありませんでした。

そこで、日銀副総裁の高橋是清が外債発行のため急遽、英国、米国に赴きロスチャイルド、クーン・ローブらユダヤ系巨大財閥から8億円の調達に成功します。この背景には日本にロシアを攻撃させることによって帝政ロシアを倒し、迫害されていたユダヤ人を救い出す目的がありました。


2)ロスチャイルドの影響を受けた日銀設立

ところで、日本の中央銀行は日本銀行ですが、明治新政府は当初、経済活性化のため欧米流の金融制度を導入しようとして明治5年に国立銀行を設立、金、銀との交換ができない「不換紙幣」の発行権限を与えます。が、明治9年には急速なインフレが加速したため、

明治15年10月に国立銀行を廃止して日本銀行を設立、銀との交換ができる「兌換紙幣」の発行権限を集中させます。ただ、そこに至るには"国際金融王”ロスチャイルドの影響がありました。

ロスチャイルドは三井の大番頭・三野村利左衛門や渋沢栄一と接点があり、渋沢は26歳のときフランスに渡って、アルフォンス・ド・ロスチャイルドの配下にある銀行家のフリュリ・エラールから近代の金融業というものを学び、第一国立銀行(のちの日本銀行)を拠点に約500の会社を作ります。

また、日本銀行を正式に創設したのは大蔵卿だった松方正義(薩摩)ですが、松方も明治10年に渡欧して、アルフォンス・ド・ロスチャイルドの使用人だった仏蔵相レオン・セーから金融制度を学びます。

その中で学んだ欧米の金融制度の特徴は、中央銀行の「信用創造」にありました。例えば、民間銀行が日銀に預ける準備金が1億円あり準備率を1%としたときに、その銀行は100倍である100億円の貸し出しができるという手品のような"裏技"です。

このカラクリは、1844年の「イングランド銀行設立特許状の修正法」や、1913年の「米国連邦準備法」による連邦準備銀行(FRB)設立でも採用されますが、その狙いは通貨の裏付けである「金」が枯渇しても通貨を発行できるようにするためです。(金融の仕組;https://www.youtube.com/watch?v=WGH65g-KDIQ )

ところで、世界大戦の際には、ユダヤ国際金融資本はクーン・ローブ商会のジェイコブ・シフを通じて、欧米だけでなく敵対するドイツにも戦費を貸し、それ以前にはレーニンやトロツキーなどの国際コミンテルンにも金融支援をし、相争わせることによって"漁父の利"を得てきたのです。

このような事情からか、現在の千円札にある湖面に映った山はイスラエルのシナイ山、また不釣り合いな程大きい野口秀雄の左目は、ドル札のピラミッドにあ る"プロビデンスの目"と同じという説もあります。なお高橋是清もジェイコブ・シフと、井上準之助もモルガン商会のトマス・ラモントと懇意でした

ただ誤解が多いのは、日銀は株式会社ではなく日銀法によって設立された行政庁の認可法人です。出資総額は1億円で、日銀法では政府の出資は5500万円を下回ってはならないと決められ、残りの45%は民間からの出資ですが議決権はなく、出資証券はジャスダック市場に上場されています。


3)縄張り意識を持ち始めた海軍

ところで、日清戦争に勝利した海軍は、それまで一つの大本営の下、「参謀総長(山県有朋)」が陸海両軍の統帥権を握っていたことに不満を表明、海軍大臣の山本権兵衛(薩摩)は、海軍の統帥権の分離独立を主張し始めます。理由は、それまでの"陸主海従"を打破したかったからです。

が、これでは国家戦略に基づいた軍部の統一行動がとれません。"陸主海従"に問題があるなら、自衛隊のように「統合幕僚本部」の設置を求めるべきです。が、人材不足の海軍からは「統幕本部長」が選ばれる可能性が低く、結局、"陸主海従"が変わらないことからあくまで「統帥権の独立」を主張します。

この背景には、来たるべきロシアとの決戦は大陸の「満州」が主戦場になり、よって海軍は存在感を示せず、予算獲得などでも後塵を拝する結果になることが予想されたからです。つまり、国益よりも海軍の権益が優先されたのです。これが後の大東亜戦争に大きな禍根を残すことになります。

実際、大東亜戦争の後半でも、戦局が悪化する中、東條英機首相(陸相)から陸海軍の連携強化のために「統合幕僚本部」の設置と海軍からの本部長就任が提案されます。が、海軍大臣・永野修身は「海軍からは本部長は出せない」と拒否し、バラバラな陸海軍による敗北の一因を作ります。

ともあれ、海軍の統帥権の独立の件は、日清戦争を勝利に導いた実績を持つ参謀本部次長の川上操六によって、一旦、葬り去られます。そして日露決戦を前に、大本営参謀本部は「日露決戦は満州で」との方針を立てますが、これに対し海軍は案の定、猛反発。

なんと「大陸も半島も捨てて、日本本土を取り巻く海で海軍が決着を付ける」と言い出します。が、日露戦争初戦において、ウラジオストックにいたたった3隻のロシアの巡洋艦に対馬海峡や東京湾周辺の兵站(通商)線を妨害された経緯に鑑みれば、如何に非現実的で無謀な戦略だったかは明らかでした。

この直後、戦略立案の中心人物の川上が急逝。代わって急遽、すでに陸軍大臣、内務大臣、台湾総督などを歴任している大物・児玉源太郎(長州)が参謀本部次長に就任、政治家としての優れた統括能力を発揮します。

児玉は、「昨今の時局は実に国家の大事なり。対ロ作戦計画において、我が陸海軍の共合の緊要なること今日において急なるはなし。これがためには些々たる意気地の如きは放擲し、大局において帝国を危急の中に救い、終局の大功を収むるにあり。この旨を諒とせられよ」として、

陸軍内部からの不満を抑え、「旅順はロシアの軍港だから陸軍は手を出すな」という海軍の主張と予算面での優遇に同意した上で海軍の統帥権独立を承認、これと引き換えに、海軍による本土と大陸間の海上輸送の確保を取り付け、明治37年(1904年)2月6日に日露国交断絶、戦端を開きます。



4)「日本海海戦」の勝利をもたらした「旅順攻略」

日露戦争における各戦闘の詳細は割愛し、本稿では日本の勝利を決定づけた「日本海海戦」が、巷間いわれて来たような海軍や東郷平八郎によってもたらされた偉業だったかについて、その前提になる「旅順攻略戦」や「明石元二郎による調略戦」から紐解き、疑問を呈します。

当時、世界最強といわれたロシア・バルチック艦隊を破った日本海海戦の勝因は、一般的には敵艦隊の目前で一斉にターンしてT字型の陣形をとる東郷平八郎が採用した"トーゴーターン"といわれてきました。この結果、東郷元帥は、旅順攻略戦で八方塞がりになった乃木希典大将とともに神格化されました。

この「T字戦法」は、一見すると敵に横っ腹を晒すリスクがありますが、タイミングさえ巧く行けば、敵からの攻撃は先頭を行く一部艦船からのものに限られ、逆に、こちらからはほぼ全艦からの先頭艦への攻撃が可能となる有効な戦法です。

実際、この戦法でバルチック艦隊は大混乱、壊滅しました。が、「T字戦法」はあくまで"戦術"であって"戦略"ではありません。日本海海戦での勝利の背景には、陸軍によってもたらされた二つの大きな戦略的勝利がありました。

一つが、「旅順攻略戦」での勝利です。開戦当時、旅順港にはロシアの旅順艦隊がおり、日本本土から大陸への兵員、物資の輸送にとって脅威となっていました。海軍は、すでに遼東半島に上陸していた陸軍第二軍による陸路からの支援攻撃を断り、ロシア艦隊の攻撃を試みます。

が、ロシア艦隊は天然の要害でもある旅順港に引きこもってしまったため、港内に封じ込めようと老朽化した民間船を港口に沈める「閉塞作戦」を三次にわたって試みますが失敗。逆に、要塞砲による攻撃で主力戦艦「初瀬」「八島」を失い万策尽きます。

この頃、欧州から「バルチック艦隊が援軍に来る」との情報がもたらされます。さすがの海軍・山本権兵衛も、事ここに至って陸軍への援軍要請、乃木希典を総大将にした第三軍が編成、派遣されます。が、既に十分語られているように、単純な白兵攻撃を繰り返していただけの第三軍も旅順攻略に大苦戦。

そこで、一足先に満州軍総参謀長に赴任していた児玉が再び登場し作戦を大幅変更、当時、世界最新の24サンチ榴弾砲を持ち込み、203高地へ砲弾を集中する事で見事攻略。高台に設置した観測所からの湾内情報を元に正確な砲撃を行い、ロシア旅順艦隊を殲滅したのでした。

ちなみに、日露戦争での陸軍の軍神としては乃木ばかりが注目されてきました。が、同じく長州人だった児玉と比較すると、乃木が「一途で実直な古武士」であったのに対し、児玉は政略、軍略に長けた「合理主義者」だったと評されています。

それを伺わせるエピソードとして、幕末の長州藩で「佐幕派」と目されていた児玉の父は、ある日自宅で襲撃され惨殺されます。外出から帰って来た若干12歳の児玉は、茫然自失の母を横目に淡々と父の遺体を片付けたと伝えられています。

5)「日本海海戦」のもう一つの勝因

バルチック艦隊がリバウ泊地を出港したのは、日本海海戦に先立つ明治37年10月15日ですが、当時、ロシアでは革命が進行しつつありました。また第1回の革命秘密集会がパリで行なわれ、各革命グループが統一行動に出て、各地でデモやストライキが起きます。

そんな中、陸軍の明石元二郎大佐が革命グループのリーダー・シリアスクと接点を持ち、「銃5万丁あれば一斉蜂起できるんだが」との要望を受けます。これを日本の参謀総長・山県に伝えて現金45万円を送金させ、スイスで銃2万4500丁を調達、革命グループに提供、各地で争乱が勃発します。

「戦艦ポチョムキンの反乱」が起こったのもこの頃で、バルチック艦隊の乗組員の中にも革命分子が少なからず紛れ込み、各停泊地で最新の情報を得た上で艦内でも破壊活動が行なわれ、艦隊は1日に平均4回、機関のトラブルなどで進行を停止しなければならなくなります。

また、英国領の寄港地では入港や物資の補給を拒否され、長期の航海で船底に海藻や牡蠣などが付着して速度も落ちてきます。加えて、既に旅順艦隊が壊滅し、単独で戦わなければならないことを知る等して、乗組員の士気も日に日に落ちていました。

そして、明治38年5月27日未明、長崎県五島列島沖で哨戒艦・信濃丸から「敵艦見ゆ!」の無電が発信されます。このとき信濃丸はバルチック艦隊のまっただ中にいましたが、哨戒に当たる乗組員が疲労困憊だったため見落とします。

また、バルチック艦隊側は、先に信濃丸からの無電を傍受したにもかかわらず、ロジェストウェンスキー提督の命により電波妨害活動を行いませんでした。この結果、日本海海戦は日本の大勝利となったのです。

が、この結果を、「自分たちだけによってもたらされた」と勘違いした海軍は、「陸海軍統合戦略無視」、「情報収集・分析(索敵)軽視」、「艦隊決戦優先(大艦巨砲主義)による兵站破壊戦(通商破壊戦)無視」の体質に陥り、後の大東亜戦争敗北に繫がる大きな禍根を残すことになるのです。


明治新政府を巡る暗闘

2017-01-09 01:11:30 | 近代


大戦の敗因を探る、4

1)新政府の最大の課題は「版籍奉還、廃藩置県」だった

さて、維新直後の政府(政体政府)は明治天皇を奉じて、"前期元勲"といわれる岩倉具視、木戸孝允(桂小五郎)、西郷隆盛、大久保利通を中心に運営されます。

これに対し裏の「國體政府」は、落合莞爾氏の説によると、孝明天皇とその子・睦仁親王が裏明治天皇として、三条実美ら京都に残留した公家を中心に始動します。が、後に木戸孝允、西郷隆盛が加わり、伊達宗正とその子・睦奥宗光を通じて「版籍奉還、廃藩置県」の断行を後押しします。

というのも、版籍奉還、廃藩置県は、迫り来る欧米列強や北からのロシアの脅威への対応として、天皇中心の強固な國體を形成する上で不可欠な政治課題だったからです。

当時、これを実現する上での目先の障害は、旧態依然とした幕府と西国雄藩が乱立する江戸末期の徳川幕藩体制でした。この事態を憂慮した朝廷および西国雄藩は倒幕運動を始め、戊辰戦争で徳川幕府を倒します。が、実は、「皇統二元体制の確立」とともに、

「戊辰戦争」自体、最後の将軍・徳川慶喜自身も了解の上で行なわれた"出来レース"だったと言われています。その理由は、武士階級が廃藩置県によって身分を失うことへ強い抵抗を示していたからです。それで、まず幕府側の武士社会を崩壊させるため戊辰戦争を起こします。

また、慶喜の出身母体である徳川家・水戸藩は、「大名貸(金融業)」を通じた"皇室資金(黄金の百合)"約三百万両の借り入れがあったことも、"出来レース"加担への理由とされています。

が、最大の問題は、勝利した官軍側の西国雄藩の武士勢力の存在でした。「自分たちは勝者なんだから、報償にありつけて当たり前。版籍奉還、廃藩置県など以ての外」とばかりに不満が募り、西国各地で反乱が起こります。その最大のものが明治10年の「西南の役」です。

勿論、これも"出来レース"の一つで、不満武士のリーダーを演じた西郷は掃討戦終了後その役割を終え、欧州に出国?。またこの直前に病死したとされる木戸、さらに暗殺されたとされる大久保も、戊辰戦争で負け組をこなした側とのバランスをとるため表舞台から引退、國體政府の中核に入ります。

なお、維新の立役者の一人・坂本龍馬についてですが、幕末、フリーメーソンであるグラバーの館に頻繁に出入りしていたこと、また同じ土佐出身のジョン万次郎と緊密な関係だったことから、フリーメーソンだったのではないかという説があり、坂本を接点にして明治新政府の中心人脈が形成されます。

実際、伊藤博文、井上薫は欧州に、薩摩の寺島宗則、五代友厚、森有礼も英国留学をしフリーメーソンの影響を受けたのではといわれており、これが後に"英米派"といわれる人脈形成に繋がり、とくに最後の元老・西園寺公望や近衛文麿、吉田茂らの外務省関係、さらに海軍の中心は英米派が多くなります。


2)「征韓論」とは何だったか

さて、ここで西郷らが下野するきっかけになった「征韓論」ですが、明治6年6月、対朝鮮外交問題が取り上げられ、参議である板垣退助は失業士族の救済のために、居留民保護を建前として派兵を主張。西郷は始めは派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張、後藤、江藤らもこれに賛成しました。

この「征韓論」は、江戸時代後期の国学や水戸学、吉田松陰らの思想を背景にしており、「古代日本が朝鮮半島に支配権を持ち、高句麗、新羅、百済は日本の支国だった」との古事記、日本書紀の記述を論拠として唱えられました。

例えば、佐藤信淵は「満州、支那、台湾、フィリピンを攻め、南京に皇居を移し、全世界を皇国の郡県となす」とし、吉田松陰は「朝鮮を攻めて質を納れ、貢を奉ずること古の盛時の如くし、北は満州の地を、南は台湾、呂宋諸島を収め、進取の勢を示すべき」と獄中から弟子たちに書き送りました。

ところが、9月に欧州視察から帰国した岩倉、木戸、大久保らは、欧州の進んだ文明、技術などに圧倒され、「国内の近代化と体制固めを優先すべきで、征韓論は時期早尚である」として反対します。

この結果、政府は真っ二つに分かれ激しく対立、最終的には朝鮮へ使節派遣は取りやめになったため、西郷や板垣らの征韓派は一斉に政府から去り(明治六年政変)、明治7年の佐賀の乱から明治10年の西南戦争に至る不平士族の乱や自由民権運動のきっかけとなります。

確かに、戦後の世界の常識からいったら、「征韓論」は"侵略論"にしか見えません。が、当時は世界中が侵略合戦の中にあり、特に日本は、朝鮮半島への侵略の野心を強めるロシアの脅威に直面し、朝鮮半島や満州に防波堤を築かなければ侵略されて植民地にされるという状況下にありました。

勿論、朝鮮や清がしっかりした独立国としてロシアと渡り合ってくれれば、日本にとっても安上がりで済みました。実際、当初はその方針で、日本政府も朝鮮と平和的に話を進めていました。が、鎖国中の朝鮮は国際情勢を理解できません。

また、当時の朝鮮は傾きかけた"老大国"清の属国だったため、やむなく日本は朝鮮を力ずくで開国させます(日朝修好条約)。が、相変わらず国際情勢に疎く、清に従う「事大主義」を続けたため「それなら日本が朝鮮をまともにするしかない」というのが征韓論で、後の日清、日露戦争の背景にもなります

が、「征韓論」をきっかけにした西郷らの反乱とその鎮圧は、国内的には「不平士族の一掃による廃藩置県の完成」という、隠された目的がありました。西郷らが率いた士族たちには「自分たちは幕府を倒した勝者なのに、なぜ身分や土地を失うのか」という不満がありました。

ところで、日本史上の大改革には、明治維新の他に「大化の改新」「建武の新政」があります。が、その最大の目的は「豪族や武士が所有する土地を一旦取り上げ、天皇を中心とする中央集権国家のものとする」ということでした。「建武の新政」は頓挫しますが「大化の改新」の後「律令制」は完成します。

大化の改新のときは「唐の脅威」、建武の新政のときは「蒙古の脅威」があったように、ロシアの脅威に晒された国際環境の下、旧官軍といえども士族たちの不満を認めていると旧来の藩閥が温存され、天皇を中心にした強力な中央集権国家が作れません。そのために反乱士族らは一掃されたのでした。

尚、福沢諭吉については、戊辰戦争にも参加せず、明治政府にも入らなかったためか、現実感覚のなさからロシアの脅威を前にしても「脱亞入欧」を主張。中国の脅威を前にした「九条信者」と同じ"評論家”、あるいは、後に日本を敗北へと導いた"英米派"の嚆矢いわれてもやむを得ません。

3)「脱亜論(脱亜入欧)」とは何だったか

❶大亜細亜主義と脱亜論

福沢諭吉は明治十五年(一八八二年)に訪日した朝鮮独立運動のリーダー金玉均・朴泳孝らと親交を深め、朝鮮問題に強い関心を抱くようになります。福沢は日本の軍備は日本一国のためにあるのではなく、欧米列強の侵略から亜細亜諸国を保護し、そのためには日本が朝鮮の近代化を指導する必要があると考えます(大亜細亜主義)。

これを受け、金玉均らの独立党(開化派)は、一八八四年十二月四日に政府要人を襲撃するクーデターを起こします。が、清への服属を良しとする事大党(守旧派)の援軍要請を受けた清朝がすぐに袁世凱を派遣したため、新政府軍はあっけなく敗れてしまいます。

かくして、支那、朝鮮の旧態依然たる体制と欧米列強に対する危機感のなさに幻滅した日本は国防上の理由、とりわけロシアの脅威に対処するため、「東亜細亜諸国との連帯」を諦めて「脱亜入欧(脱亜論)」を掲げます。つまり、欧米列強のように朝鮮半島・支那大陸に進出することで、日本の防衛戦を拡張しようとします。

福沢も一八九〇年代から、朝鮮半島を文明化・近代化するという大義名分を掲げた「朝鮮改造論」を主張するようになります。が、福沢の「朝鮮改造論」が、堀川辰吉郎や頭山満らの「大亜細亜主義」と異なっていた点は、無知で野蛮な民族に欧米の文明を伝導するという「カトリシズム(キリスト教布教)」に根ざしていた点です。


❷ユニテリアンとフリーメイソン

ここで、福沢諭吉とキリスト教、更にフリーメイソンの関係について触れますと、明治の啓蒙思想家(リベラル派)であった福沢は、国家と個人の"独立自尊"という欧米思想を掲げ、「ユニテリアン」という、キリスト教・プロテスタントの宗派と深い関係を築いていました。 

まず、ユニテリアンとは、信仰の中心を「理性」に置き、理性はやがて神になり(理神論)、それも唯一の神(unity)となるため、理性で説明できない、あるいは唯一神ではないカトリックの「三位一体説」を否定します。この結果ユニテリアンは、ローマカトリックのほか英国国教会、長老派などと対立します。

が、同じく英国国教会などから迫害され、しかも強い信仰箇条を持たない「クエーカー教」とは親和性を持つこととなりますが、クエーカーについては、特に終戦後、日本の政財界、更には皇室へも浸透したことを別項で詳述します。

一方、フリーメーソンの起源は十四世紀とされ、中世ヨーロッパの城や教会や諸都市の建物を建築して回った石工(メイソン)たちの互助組織であり、それがヨーロッパ全体広がり、さらにローマ教会の権威から逃れて自由を得るため北米にもでき、一七七六年、彼らの力によって米国が独立します。

ロンドンのフリーメーソン大ロッジの名誉議長となったクリストファー・レーン卿は、「フリーメーソンリーは、もはや自然の石から教会堂を建てるのではなくて、理性である精神から神殿を建てるのである。理性なる神の知恵の導きによって、人間の粗野な理性が照らされ研がれて神的になり、自らが神殿とならなければならない」と。

ここに「理性」を共通の価値としたユニテリアンとフリーメイソンの連携が可能になり、「ユニテリアン=フリーメイソン」の構図が出来上がるのです。


❸福沢諭吉とフリーメイソン

一方、福沢はキリスト教の排斥者として知られていますが、欧米啓蒙思想家の例に漏れず、彼が攻撃の対象としたのは権威主義的なカトリックでした。その証拠に福沢は生涯でカトリック以外の英国人十二人、米国人七人の宣教師と関わっています。

特に英国国教会高教会派の牧師で外交官(情報将校)のA・C・ショーを自分の子女のための住み込み家庭教師として雇い、また、慶應義塾の倫理学教授の職を与えて聖書を教える事を許し、信仰を持った学生たちへの洗礼まで認めています。

この結果、三女の俊(とし)、四女の滝(たき)、孫の清岡暎一などもショーが建てた聖アンデレ教会で洗礼を受け、クリスチャンとなります。が、福沢の本音としては、当時、アジア諸国を植民地化していた英国に好感を持っていませんでした。

そこで福沢は、自由と民主主義が全開した、よりリベラルに見えた新興国家の米国に関心を向けます。実際、明治八(一八七五)年に出版した『文明論の概略』の中で「英人が東印度を支配するに、その処置の無情残刻なる、実にいうに忍びざるものあり」と書いています。

そして福沢は、英国人ではない、米国人のユニテリアン宣教師でもある学者たちを、ユニテリアン教会の修道院として始まったハーヴァード大学から日本に招きます。

福沢とユニテリアンとの出会いは、福沢が腸チフスに罹った明治三(一八七〇)年で、この時、彼を救ったのがユニテリアンであったドクトル・シモンズ医師です。これがきっかけで福沢とシモンズは親交を深め、明治十六(一八八三)年、息子の一太郎と捨次郎を米国留学させるに当たり、シモンズに息子の後見人を頼み、

シモンズは一太郎を自宅に下宿させるほどの関係を築きます。このことは、「シモンズを外国人中の最親友」と『福沢諭吉全集』 にも記述しています。この結果、福沢の息子たちはシモンズ夫妻のユニテリアンのサークルに溶け込み、一太郎は父に宛てた手紙で「ユニテリアン教を慶応義塾に広めた方が良いでしょう」と提案しています(『ユニテリアンと福沢諭吉』)。

ユニテリアンへの接近は明治政府も行い、特に伊藤博文と金子堅太郎(セオドア・ルーズベルトの学友)、森有礼(駐米国大使)もユニテリアン宣教師の招聘に動きます。

が、英国から独立した民主主義国家の米国も、形は変えたとはいえ「理性」という価値によって結びついたキリスト教の一派であるユニテリアン、あるいはクウェーカー、さらには欧米グローバリストの秘密結社フリーメイソンのネットワークの中にあり、これに気づけなかった福沢ら日本の啓蒙思想家(英米派)は、日本のメイソン化(キリスト教化)に利用されたのでした。


❹脱亜論の真意

以上見てきたように、「大亜細亜主義」にせよ、「カトリシズム(キリスト教布教)」にせよ、「脱亜入欧(脱亜論)」の真意は、アジア、そして朝鮮半島に対し無関心になれというのではなく、「欧米列強に対抗するためにはアジアの前近代的な文化、社会、政治システムを脱し、欧米的な近代化を取り入れるべき」という点にあります。

その証に、福沢も、明治二十七年(一八九四年)三月、日本亡命中の金玉均が暗殺される事件に対してその死を悼み、相識の僧に法名と位牌を作らせて自家の仏壇に安置します。また同年4月、東学党の乱を理由に清が再び朝鮮出兵を開始すると日本も出兵、戦争となりますが、福沢は終始、政府と軍を支持しアジア解放戦争を支持します。

ただ、堀川辰吉郎や頭山満ら國體派(国粋派)の信奉する「大亜細亜主義」と、福沢諭吉や伊藤博文ら開明派(国際派)が主張する「カトリシズム」の違いは、前者が「精神文化はアジア的多神教」を維持するのに対し、後者は「精神文化についても欧米流一神教文化が流入することもやむを得ない」とする点にあります。

そして、この両派の微妙な違いが後々国論の分断をもたらし、日本を敗戦に導く外務省や海軍内に巣食った"英米派"の暗躍、そして戦後の高松宮と三笠宮を中心にした皇室内対立の遠因となります。ちなみに、"戦後英米派"の中心人物でクリスチャンの吉田茂の愛読書は「福翁自伝」だったそうです。

ともあれ、このように、「脱亜論」の目指すものは「欧米列強からのアジア解放」であり、やがてこの思想は「八紘一宇」に収斂し、朝鮮併合、満州国建国(満鮮経略)という形で結実しますが、いずれにせよ昨今、「脱亜論」という言葉がその地政学的意味を等閑視した形で一人歩きしていることは残念なことです。


4)「開明派」と「国粋派」

その後、版籍奉還、廃藩置県を成し遂げ、治安の回復を図った明治政府は、進んだ欧米文化を積極的に取り入れるべきとする「開明派(欧米派)」と、東洋的な道義国家像を理想とする「国粋派(国権派、亜細亜派)」の2大勢力に分かれます。

開明派の中でもより欧米化を進めていたのが大隈、井上、伊藤ら("後期元勲")でした。ただ、開明派(=欧米派)といっても、伊藤の場合はウィーンに留学、L・シュタインからドイツ憲法とビスマルク流の政治学を学んだことから、後の"英米派"とは若干スタンスを異にします。

これに対し国粋派には、明治六年政変で下野した西郷、後藤象二郎、江藤新平らの流れを汲む板垣退助、山県有朋らがいました。板垣退助はその後"反体制色"を強めて「自由民権運動」を起こし、後に最後の元老で"黒幕"的存在になった西園寺公望ら"英米派(民主派?)"に影響を及ぼします。

一方の山県は、"前期元勲"らが去った後、本格的に陸軍を編成し、文官試験制度の創設などで陸軍と官僚の頂点に立ちます。が、欧州留学経験がなかったため、議会、政党の意向には耳を貸さない"国権派"ともいうべき「超然主義」の立場を貫きますが、背後には西郷隆盛がいたと言われています。


4)日清戦争と三国干渉

さて、日本は朝鮮を開国させた後、朝鮮の近代化を目指し、日本、支那と三国で連携して亜細亜の衰運を挽回するべきだとした親日派の金玉均を支援します。が、「甲申事変」が失敗に終わり、初めは改革に理解を示していた李王朝も土壇場になり清への服従を選びます。

こうした朝鮮の体たらくによって自主的な近代化の可能性がついえます。かつて元寇の際、「元」は朝鮮半島(高麗)支配の後に日本侵略を計画、実行しましたが、日本にとっては、日に日に当時、世界最大の軍事国家であったロシアの脅威が現実味を増してきます。

そこで遂に、明治27年8月、日本は朝鮮の宗主国で、半島に大軍を派遣していた清に宣戦布告し先手を打ちます。そして、第一軍司令官・山県有朋らの活躍で平壌、黄海で勝利し清を屈服させます。その結果、下関条約で朝鮮半島から撤退させ、台湾と遼東半島を獲得します。

ところで、日本の背後には中国大陸に利権を持ち、日本と同じくロシアの南下政策に危機感を持っていた英国がいました。実際、駐清英公使のウェードは、「日本は台湾ではなく朝鮮に進出せよ。そうすれば欧州各国は日本を支持し、英国は日本を援助する」と発言しています。

ところが、下関条約後の明治28年4月、ドイツ、フランス、ロシアによる「三国干渉」が行なわれ、血を流して獲得した遼東半島を返還させられます。英国は表には出てきませんでしたが、日本はロシアを除く欧州列強にまんまと利用され、日清戦争を戦ったのでした。

実際、この後、列強は戦争で体力の劣った清にハゲタカのように襲いかかり、ドイツは膠州湾、フランスは雲南省、英国は威海衛の権益を手に入れ、本来の敵であるロシアまで出てきて、旅順、大連から満州にかけての南満州鉄道の権益を握ります。

京都皇統"裏天皇"とは

2017-01-09 01:08:53 | 近代


大戦の敗因を探る、3

京都皇統"裏天皇"とは

1)"裏天皇"堀川辰吉郎の出自

明治維新の背景にある思想は、楠木正成が後醍醐天皇を助けて鎌倉幕府を倒した「建武中興」を模範とした「楠公精神」でした。したがって、その核心は南朝皇統を正統とするもので、単なる王政復古だけでなく、「南朝皇統の復活と北朝皇統との交替」を実現する点にありました。

この結果、明治元年、新政府は江戸城を新たな皇居として南朝系明治天皇を迎え、一方で先帝・孝明天皇、睦仁親王ら北朝皇統は秘かに京都に残り、東京皇統と政府が直接関わることが難しい特殊な国事に当たることとされる「皇統二元体制」が敷かれました。

京都皇統は堀川通にある本圀寺を拠点に、睦仁親王を明治の"裏天皇”とし、また睦仁親王と村上源氏久我支流の羽林家千種家の女官との間に生まれた子を、拠点の呼称「堀川御所」に因んで「堀川辰吉郎(1889年ー1972年)」と呼びました。

そこで、ここでは明治から昭和にかけて活躍した裏天皇・堀川辰吉郎の生涯と事蹟のついて触れます。まず、辰吉郎は幼少時に、福岡にある維新後、元黒田藩士が結成した政治工作結社「玄洋社」に預けられます。玄洋社の社長は「頭山満」でしたが、

隠れた社主は黒田藩主だった黒田長溥の実子「杉山茂丸」であり、辰吉郎は杉山を後見人として育てられます。辰吉郎は10歳のころ上京し学習院中等科に入りますが、問題行動を繰り返して放校処分を受けたため、13歳の時、日本に亡命していた孫文に托され支那に渡り革命行動を共にします。

その後、奉天の「世界紅卍字会」の会長に就任し、日本軍と支那政府との折衝に当たるなど日支講和に尽力。1912年に帰国し活動写真の配給会社を経営した後、1935年に「大日本国粋会」第3代総裁に就任しますが、反軍閥運動のため東條内閣と対立して再び支那に渡ります。



2)各国王族と関わった辰吉郎

さて、日露戦争の結果、日本の国力を思い知った「愛新覚羅」は、満州族の将来を日本に託すため接近を図ろうと袁世凱を折衝に当たらせますが、東京皇統も桂太郎内閣もこれに応じず、対応したのは堀川辰吉郎でした。

京都皇統は、「大亜細亜主義」の理想に従い、清朝滅亡後の満州の宗主権保全を図る愛新覚羅と、満州族支配を倒して漢族独立を図る孫文の双方を支援しますが、両者の目的は同じく「満漢分離」の実現でした。このため、孫文も満州への日本の介入を認め、その発展を日本に委ねます。 
 
京都皇統は、ロシアの脅威への国防上の実際的必要性と、古代からの歴史的経緯を背景にした「大亜細亜主義」の一環としての「満鮮経略」を推進するため、愛新覚羅との間で密約を交わし、辰吉郎は明治43年(1910年)年紫禁城に入り、内廷に住みます。

その間、満州に度々足を運び、軍閥の張作霖や、その子・学良と義兄弟の契り結びます。一方で、国民党のナンバー2張群の長子に愛娘を嫁がせ、孫文の死去後も国民党との良好な関係を維持します。

かくして、辰吉郎は大陸に深く関わりますが、国體の棄損を懸念する東京皇統に代わり、欧州各王室との婚姻政策にも対応、各国の王室に子供を残し、世界各国に48人の妻と88人の子を持つと自称していました。

3)「昭和天一坊事件」

ところで、辰吉郎が関わったとされる事件に「昭和天一坊事件」があります。1932年当時、高利貸しだった乾新兵衛は東京渡辺銀行に3000万円を貸していましたが、同行は世界恐慌で倒産。そこで乾は、渡辺銀行と同系統の渡辺倉庫から3000万円を取り立てようとしますが、渡辺倉庫は返済を拒否。


このとき、相談を受けた辰吉郎が、乾の腹心の阿部中将を渡辺倉庫に送り込み、株主総会を経ずに乾への負債を返済。この行為が問題となり、乾は渡辺倉庫から告発され、懲役7年の実刑判決を言い渡されます。

娘に泣きつかれた辰吉郎は、時の司法大臣の鈴木喜三郎に口を利き、乾を控訴審で執行猶予にするよう裁判所に圧力をかけ無罪にしたため、これに感謝した乾は300万円の謝礼を提供します。

この裏には、当時、辰吉郎と親しい陸軍大将・田中義一が政友会の総裁になることを望み、辰吉郎に運動資金300万円の調達を依頼。そこで乾に300万円を融通させた結果、田中は政友会総裁になります。

それから2年後、田中はさらに首相就任を望み、再び辰吉郎は乾に200万円を融通させます。が、これが原因で、辰吉郎は乾の息子から誤解され、46万円を詐取した容疑で東京地裁で起訴されます(「昭和天一坊事件」)。

ところが、❶辰吉郎が乾を伴って内相官邸を訪れたこと、❷「閣下の御力によって取計らって戴きたい」というと、鈴木内相が「法を曲げて何をすると云うことは出来ないが、公明な裁判をさせよう」と約束したことが事実であったため、辰吉郎は無罪とされます。

4)"黄金の百合"奪還工作

もう一つ、辰吉郎の実力を示す一件が「"黄金の百合"奪還工作」です。1946年に、戦時中、日本軍がフィリピンから持ち帰った"黄金の百合(天皇の金塊)”の一部(推定40兆円相当)が東京湾から引き揚げられ、米軍に接収されます。これに対し、政治団体「新日本党」総裁の水谷明が奪還を計画。

水谷は、奪還に成功した暁には、金銀塊すべてを東久邇宮稔彦に献上するつもりだったが、1960年には事業資金が枯渇して事業から撤退。1962年には水谷は事業資金確保のためか、「ありもしない金銀塊事件を捏造し、30人近くから大金を騙し取った詐欺師」として逮捕され実刑判決を受けます。

辰吉郎は水谷と面会し、「水谷先生、ゴールドは目の前に現れると悶着を起こすものですが、本当にあなた裸になりますか。全部殿下に献上するということ間違いないですか」と質すと、
水谷は「天地神明に誓って間違いございません」と答えたため、辰吉郎は「少し献上するのが遅かった。まあいいでしょう。私が米国へ行って取って来ましょう」と。これによって返還された"黄金の百合"は、戦後の経済復興や日本列島改造に使われたと言われています。

このように、堀川辰吉郎は政体政府にも強い関わりを持つフィクサーとして、明治、大正、昭和の各時代において、日本国體の護持に活躍しました。なお、"黄金の百合(天皇の金塊)”については、「大東亜戦争の目的」のところで詳述します。

ちなみに、ジャーナリスト(オカルト系陰謀論者?)の中丸薫氏は、「自分は堀川辰吉郎の娘」などと自称していますが、辰吉郎が大阪在住の頃、近所に住み、辰吉郎の秘書役と懇意にしていた京都皇統関係者によると、中丸氏は辰吉郎に使えた側近の娘であって、辰吉郎との血縁はないと証言しています。  




「田布施システム論」のデタラメ

2017-01-08 21:50:53 | 近代


1、鬼塚英昭の正体

 以上見て来たように、明治維新の目的は単なる倒幕だけでなく、「皇統二元体制」を敷くことで、❶南朝皇統の復活(政体化)、❷國體の強化、❸欧州王族間通婚への対応、❹南朝系海人族(縄文海人族+物部氏ら)政権の樹立、❺皇位継承者バンクの設立、などです。

 が、 このような深慮を知る事もなく、一部の反日勢力が「田布施システム論」と称して、「明治天皇すり替え」だとか「明治天皇は朝鮮人である田布施出身だ」 とか、果ては「安倍晋三総理も田布施出身だ」とか、根拠のない捏造話を拡散していますが、その"反知性主義"には呆れるばかりです。

 私も山口県出身ですが、「田布施は朝鮮」などという話は子供の頃から聞いた事がなく、また従兄弟は山口県の職員で田布施支所に長年勤務していましたが、同じく「そんな話は耳にした事がない!」と呆れていました。

そこで、「田布施システム論」なる捏造話の出元であるノンフィクション作家・鬼塚英昭について明らかにすると、大分県別府市生まれ、大分県立鶴見ヶ丘高校卒業後、中央大学法学部に入学するが学費が払えず中退。故郷の別府で家業の竹細工職人となる。2016年1月25日に78歳で没。

鬼塚の代表作「天皇のロザリオ」を読んだ感想は、❶史料の中から自説に都合良い部分だけ引用している、❷総じて、歴史的事実と妄想、願望的記述が混在している、❸「天皇教」などという違和感のある用語を何度も使用している、❸司馬遼太郎を熱烈な天皇教徒とレッテル貼りしている、

❹共産主義者だったハーバート・ノーマンの文書からの引用が多い、❺「不敬罪はけしからん」、「治安維持法は国民を弾圧するためにあったから廃止されて良かった」、「共産党は合法でなければならない」と共産党を擁護している。

❻天皇が日本人女性を売春婦として海外に輸出して暴利を貪った、❼天皇が金儲けのために大東亜戦争を起こしたなど、とても正気の沙汰とは思えない内容です。

結論として、鬼塚本人はノンフィクション作家のつもりでいますが、著作は歴史書としての要件を満たしていないばかりか、それ以前に鬼塚自身、所詮"竹細工職人”の域を脱しておらず、到底”作家”というレベルに達していない唯の反日思想の共産主義者である可能性が高いと言えます。

また、「DVD『鬼塚英昭が発見した日本の秘密』成甲書房」の内容を引用し分析すると、鬼塚は「2006年の10月、山口県の柳井市にいる松重楊江という人を訪ねて行きました。松重は「ここのそばの田布施川を渡って、山の向こうから大室近佑という老人が野菜を売りに来ていた。

ところが時々『うちの爺ちゃんは明治天皇や』と言うんです。それで萩の郷土史家を連れてきて調査し、彼とともに山口県の郷土雑誌に『変な老人の話で・・』というようなことで記事を書いた。そしたら、それを読んだ鹿島昇という弁護士が訪ねて来て、

『私は大室近佑の言う話を信じるから、二人(鹿島と松重)で本を出そうじゃないか』言った。それから私も彼らの本に刺激をされて『天皇のロザリオ』『日本のいちばん醜い日』に、彼の話を引用する形で出版したわけです。

田布施という町ははっきり申しますと朝鮮です。なぜかと言いますと、歴史的に山口県は長州藩になる前に大内藩だったんです。大内家は本人たちも言ってますが朝鮮人です。ところが、毛利が侵入して負けたため家臣たちが散って民にされるわけです。

この過程は上智大学の神学部の教授が『遥かなる高句麗』という本の中に書いています。また、2006年10月6日か8日号の週刊朝日に李策(イ・チャク)という記者が書いた『家政婦は見た!安倍晋太郎研究』という記事で、

岸と佐藤栄作の直系の一族安倍晋三の父の晋太郎が死んで棺に入る時に、家政婦をやっていた久米うめという女性が『死ぬ時初めて分ったが日本人の体型ではない。朝鮮人の体型だ。晋太郎は生前いつも”俺は朝鮮人だ”と私に言ってた』と書いている」と。

が、まず、安倍晋三総理の実家は田布施とは反対の山陰側にある旧大津郡日置村にあります。その出自は物部氏(南朝系)の流れを汲む安倍晴明の子孫・貞任が、 平安中期の「前九年の役」で敗れ肥前国(佐賀)に流罪となり、その子・季任は「松浦党」頭の娘婿・松浦三郎大夫実任として平家で活躍。

その娘も平知貞に嫁いだため平家滅亡後、"天下人"源頼朝の迫害を免れる為に安倍姓を名乗り長門国に落ち、旧大津郡日置村(現在の長門市湯谷町)で家業の醤油屋を営み、現在に至ったのが真相です。

また、安倍総理の直系の祖父・安倍寛氏は旧大津郡日置村の村長をして、"昭和の今松蔭"と伝えられた程のカリスマで、農村改革や山林事業など数々の改革を実行、噂を聞き付けた岸信介(当時、東条内閣の商工大臣)が面会に来た位の有名な人物でした。

ちなみに、安倍寛氏の妻は西南戦争で活躍した大島義昌陸軍大将の孫娘でしたが、奢侈なため「家風に合わん」と実家に帰され、実家にいても退屈な息子の晋太郎氏は、夏休みで帰省した際には我が家に遊びに来ていたような関係から、我が家も安倍家とは先祖代々のお付合いです。

なお、「日置村」の名称の由来は古代にまで遡り、当時としては「暦」という最重要国家機密に関わっていた豪族「日置氏」からきたもので、鹿児島県や和歌山県にもあるようです。が、長門国の日置が最も重要視されたのは、朝鮮半島や北方騎馬民族の動静を探り得る地政学的意味があったからで、また「長門国」の「長門」も「長生きへの門」から由来し、実際、秦の始皇帝が"不死の薬"を求めて「徐福」を日本に派遣したときの寄港地だったと言われています。
 
一方、安倍総理の母方の祖父・岸氏の実家である佐藤家は、室町時代に百済系大内家の動きを監視するために京都から派遣された佐藤甚平(平清盛の親友でもあった西行法師こと佐藤義清の後裔)の直系であることは、京都皇統に保管された「月読暦(裏の皇統譜)」に記されていると落合莞爾氏の著作でも紹介されています。

ちなみに、大内氏は、大内義隆のときイエズス会宣教師・ザビエルを山口に招聘してキリスト教の布教を許したことから朝廷の逆鱗に触れたため、朝廷の意を受けた毛利元就によって滅ぼされます(防長経略)。

さて、この佐藤甚平の後裔が、佐藤市郎海軍中将、佐藤(岸)信介、佐藤栄作の三兄弟で、佐藤栄作の話では「私達三兄弟は、頭の良さは上からだよ」と言わせたほどの秀才だった佐藤市郎は海軍兵学校、海軍大学校ともに首席で卒業しましたが、

同じ首席でも過去に例を見ない高得点であったと伝えられています。佐藤中将と海軍兵学校36期の同期生には沢本 頼雄、塚原二四三、南雲忠一の三人の海軍大将がいましたが、頭の良さは佐藤中将が抜きん出ていたことは衆目の認めるところだったといわれています。

最後に、家政婦の証言についてですが、骨格学の専門家のような知識を持っていることに違和感があり、さらに、同記事には「総理大臣候補といわれながら早逝した晋太郎氏について岸氏が『惜しいことだ』と語ったとされていますが、岸氏は晋太郎氏よりも10年以上前に他界しています。

ちなみに、山口県出身で総理大臣をやった全人物の出身地はというと、岸(旧姓・佐藤)信介と佐藤栄作は田布施出身ですが、それ以外では伊藤博文が光市、山県有朋と桂太郎、田中義一は萩市、寺内正毅は山口市、陸軍の重鎮では乃木希典が江戸の長州藩邸で生まれ下関市で育ち、児玉源太郎が周南市出身など田布施以外が圧倒的に多いです。
 
2、松重楊江の正体

この中に出てくる松重楊江の正体については、大正14年3月30日、山口県に生まれる。小学校5年生時から松重○ナ宅で暮らすようになり柳井商業学校卒業後、1944年12月、陸軍西部第九部隊師団通信隊に入隊。中支前線に派遣後1946年3月、上海から復員し1947年、日本共産党に入党。

1948年、岩国市に移転し岩国税務署管内の農民3500人を動員して税金闘争を起こし、「六ヶ条の約定書」を取る。このあと東部地区委員長になり、労、農、商人、在日朝鮮人などの組織を作る。その後、日本共産党・県委員、県常任委員、中国地方委員候補となり「共産党大学」第一期生に。

1952年、柳井市山根西の松重家に帰り、近所から事業所の再建を頼まれ商道に入る。社名を改めて株式会社にし、事業に取り組んだところ年商7億円、社員200名になった。1968年、退職し、この頃から歴史の研究にも熱が入るようになり、平成15年「日本史のタブーに挑んだ男」発刊。

松重は『昭和天皇の母・貞明皇后の本当の名前は朱貞明』。田布施村人脈によって樹立された明治・大正・昭和・平成王朝は朝鮮王朝である。伊藤博文らが職を失った旗本の娘の中から美女を城内に入れて「遊郭」をつくり、そこに朱貞明がやってきて大正天皇の妃になった』としています。

が、しかし、この論理では、昭和天皇以降の出自を説明できても、明治天皇、大正天皇が朝鮮人であるという説明にはなっておらず、江戸の旗本が全員朝鮮人だとでもいうのでしょうか?ましてや山口県熊毛郡田布施村が朝鮮であることの論拠にもなっていません。
 
3、宮崎鉄雄の妄言

この他、松重、鹿島と共著した「明治維新の生贄」の三人目の人物に宮崎鉄雄という音楽家がいます。宮崎氏は、「父親の和泉国伯太藩主で大坂定番だった渡辺章綱が、一橋慶喜から孝明天皇暗殺の疑いを調べるように命じられた結果、岩倉具視と伊藤博文によって暗殺されたことを突き止めた。

この傍証として、維新後、長崎に帰った渡辺章綱(平左衛門)は長崎県稲左で渡辺青年学校を設立、生徒達に一連の成り行きを話していたところ、伊藤の知るところとなって刺客を送られ、兄・渡辺魁とともに襲撃され重傷を負うも助かり、この話を父から伝え聞いたことを挙げられる」としています。

が、落合莞爾氏(「ワンワールドと明治日本」)によると、兄とする渡辺魁という人物は島原藩士で、和泉国伯太藩主・渡辺章綱とは何の関係もないことが大分地裁・家裁判事の浅見宣義氏のHPに記載されているとのこと。

また、平成7年に落合氏が宮崎氏と面談したところ、宮崎氏は「自分は90歳を過ぎている」と自称していたが、実に若々しく見え、とても90過ぎには見えなかったのは同席した水谷民彦ダイエー最高顧問と馬野周二工学博士も確認しているとも。

さらに、宮崎氏は、明治38年に男爵家の宮崎敬治の養子となり宮崎姓になったと自称しているが、「宮崎」という男爵家はないということなどから判断すると、宮崎鉄雄の父からの身の上話は”妄言”に過ぎないのではないかとの憶測に至ります。

以上からして、結論として言えることは、鬼塚らが流した「明治天皇暗殺説」や「田布施システム論」なる話は、「従軍慰安婦」や「南京虐殺」と同じ文脈の、日本國體や皇統を貶めるための捏造記事の可能性が高いといえます。

明治維新によって東京皇統と京都皇統の「皇統二元体制」へ

2017-01-08 21:48:27 | 近代


大戦の敗因を探る、2

明治維新によって東京皇統と京都皇統の「皇統二元体制」へ

1)明治維新の目的

明治維新の目的は、欧米列強からの開国圧力にさらされた幕末において、強固な国家体制(國體)を再構築することにありました。そのためには、諸藩が半独立状態だった徳川幕藩体制を終わらせ、廃藩置県などによって天皇を中心とした中央集権国家を作り上げることが不可欠でした。

ただ、問題はこれだけでは終わらず、皇室、皇統のありかたについても大幅な改革が必要でした。というのは、南北朝の動乱が終って「明徳の和約」がなされたものの、「両統迭立(たすきがけ擁立)」がなされず、以降一貫して「北朝(持明院統)」によって占められて来たからです。

とくに"表の天皇(政体天皇)”は、幕末の孝明天皇に至るまでほぼ北朝系(持明院統)によって占められ、南朝系(大覚寺統)は"裏の天皇(國體天皇)"とされてきました。このため、国学者や水戸学派、吉田松陰らも疑問を持ち、南朝皇統の表舞台への復帰が主張されます(南朝正統論)。

もう一つの皇室、皇統のありかたに関する問題は、国際化に伴う欧州王室連合との王族間通婚への対応です。通婚により、皇統に外国王室の血脈が入ると、白山王朝以来三万年以上続く世界で最も古い皇統と國體が毀損する虞れがありました。

そこで、皇統の万世一系性(血脈又は霊脈としての)と國體(国家としての霊脈)を維持するため二つの皇統を正式に定め、政体(東京)皇統ではなく、國體(京都)皇統をもって王族間通婚に対応することを決めます。

具体的には、幕末の"裏天皇"伏見宮・邦家親王が、子の山階宮・晃親王、中川宮・朝彦親王、岩倉具視らと謀って孝明天皇の崩御を演出、その子・睦仁親王とともに堀川通りにある本圀寺内の堀川御所に隠棲し、以降はシャーマンとして國體の安寧を祈りながら外交、金融等を担当する”裏天皇”になり、

一方では長州・大室寅之祐が明治天皇として即位、政府と軍を統帥する"表天皇”となり、南北両統が迭立して「東京皇統」と「京都皇統」が併存する正式な「皇統二元体制」を敷くことを決めます。

そういう意味で、南朝皇統復活(政体化)の目的は、南北朝時代の一時期を除いて鎌倉時代以来幕末まで続いた大陸経由の"後期出戻り日本人"である北朝系(秦・藤原体制=騎馬民族)主導の体制を覆し、"先住居残り日本人"である南朝系(縄文海洋民族+物部氏)を復活させることだったともいえるのです。


2)長州・大室寅之祐は南朝系の人だった

ところで、大室寅之祐の出自ですが、月読歴(真の皇統譜)よると、後醍醐天皇の第一子・護良(もりなが)親王の子・興良(おきなが)親王の後裔である「大室家」というのが山口県熊毛郡田布施村にあって、周防国の守護だった大内氏、さらに毛利氏の各時代を

領主が天下を取った時の”南朝系隠し種”として匿われてきました。一方、同じ田布施にある南朝系鷹司家が代々住職を努める円光寺住職の娘スエが幕末に生まれ、隣家の地家作蔵に嫁ぎ寅之祐が生誕。その後、スエは離縁し大室家に嫁ぎ、子息を正式に「大室寅之祐」とします。

ところで、時代は前後しますが、室町時代に日明貿易で財を成した大内氏(百済系?)に明国や高麗の背景のもと、分離独立を画策する動きが噂されます。これを牽制するため、南朝皇統は護良親王の末裔・興良親王を、

また足利幕府も、"西行法師"こと佐藤義清の後裔・佐藤甚兵衛を、秦・藤原体制に不満を持って諸国に散らばった南朝海人系物部氏の隠れ里「田布施」に派遣、大内氏の野望画策を監視します。

大室寅之祐が護良親王の後裔である話は吉田松陰も記録しており、松蔭が天皇としての英才教育をしていたとしています。また梨本宮守正の娘で李王朝に嫁いだ李方子も「明治帝は南朝の人」、藤原北家広橋真光に嫁いだ方子の甥・興光も「北朝の睦仁親王と明治帝は別人だ」と証言しています。

なお、「梨本宮家」といえば、近年、北朝鮮による拉致問題で取り沙汰されている横田めぐみさんの母・横田早紀江さんに繋がる血筋で、方子(まさこ)が李王朝に嫁いだことも含め拉致問題の核心に関わる重要ポイントですが、古代史の謎も含め、大きな背景を持っているので「大東亜戦争の目的」の章で詳述します。
 
3)「後南朝七家」とは

なお、大室寅之助と似た事例はこの他にもあり、熊沢天皇(水戸藩)、小野寺天皇(仙台藩)、三浦天皇(井伊藩)、井口天皇(紀州藩)、朝里天皇(紀州藩)などを、各地の雄藩が天下を取ったときに担ぎ上げる"隠し玉"として匿っていました("後南朝七家")。

このうち、愛知県の熊沢宏道は、熊沢家が後醍醐天皇六代目の信雅王の末裔であると明治帝に訴えたとき、明治帝は「南朝が正系である」と認め、「公平に扱うように」と下命されました。が、その後具体的は進展は見られず明治天皇の崩御とともに立ち消えになります。
 
また、同じく愛知県の三浦芳聖も、後醍醐帝第二子尊良親王の子・基良親王の直系だという家系図を当時の宮内大臣・田中光顕に申し立て、田中は「明治帝は後醍醐天皇第11番目の満良親王末裔で長州がご守護申し上げてきた」と証言しています。

これを受け、明治44年2月4日、第二次桂内閣は帝国議会において「皇統は南朝をもって正統と為す」との決議を行い、これにより20年にわたる「南北朝正閏論」が決着します。

実は、このような事例は過去にも存在し、継体天皇の他に藤原氏の百川と山部親王(桓武天皇)、平清盛と安徳天皇、足利尊氏と後光厳天皇など、時の覇者が天皇の即位、譲位を左右しています。

ちなみに、仙台藩に匿われていた小野寺天皇は、幕末の戊辰戦争の際、西軍側に対抗するため"東部皇帝"として「奥羽列藩同盟」に担がれました。その背景には東北地方で産出された豊かな金塊があります。東軍側はこれを元に、欧米列強から銃器を購入しますが、

西軍有利とみた欧米は、あえて射程の短い旧式の銃を売りつけ、しかも代金だけ受け取ってまともに納品することもなかったため、東軍側は無念にも敗退します。