誇り高き日本の歴史

学校での歴史教育は大東亜戦争の敗戦で歪められ、真実は30%程度に過ぎないため真の国史を明らかにします。

ムー大陸と日本

2017-01-07 20:06:08 | 古代史


<ムー大陸と日本>

1、チャーチワードなどの"ムー大陸"伝承

①イギリス出身のアメリカ人・チャーチワードは、1868年、英軍兵士としてインド赴任中、ヒンドゥー教寺院で「ナーカル粘度板文書」を発見しました。そこには、約7万年以上前から、人口6400万人を擁し、

②太陽神の化身ラ・ムーを帝王にいただく理想郷的大帝国があったが、約12000年前、突然の天変地異に見舞われ、一夜にして太平洋に没したと記されていたということです。

③また、同じくアメリカ人鉱物学者のウイリアム・ニーヴンは、1921年、メキシコシティ郊外で、2600枚近い安山岩製石板「ニーヴン石板文書」を発見、そこには古代ウイグル語で、同じく太平洋上に巨大な大陸と文明があったことが記されていたそうです。

④が、実はさらに遡る19世紀、フランスの大修道院長で中南米専門の考古学者のシャルル・プラスールが、ユカタン半島でマヤ文明が遺した「トロの絵文書」を発見、マヤ語のアルファベットを使って解読したところ、「太古、ムー大陸が天変地異で大海に没した」との記述を発見していました。

⑤この他、ムー大陸とその文明の存在を窺わせる傍証としては、ニュージーランド北方のポナペにある、1万2千年前の「ナンマドルの海底神殿遺跡」です。またハワイやイースター島でも同様の古代遺跡が発見されています。

⑥イースター島の南東部・ラノララクという火山の麓にあるモアイ像の背中には、ペトログラフ(岩絵文字)が書かれていますが、それを日本の神代文字で読むと「我はカムイ(神)なり」と読めるそうです。

2、インドネシアでも24000年前の「グヌンパダン遺跡」を発見

⑦そして2012年、インドネシア・ジャワ島の、地元のスンダ族が聖地として崇めているグヌンパダンで大規模な遺跡(メガリス遺跡)が発見され、ユドヨノ大統領の音頭のもと、本格的な考古学的調査が始まりました。

⑧その結果、頂上にサイズの異なるテラスが五段に連なり、高さが100メートル、安山岩ブロックを階段状に400段も積み重ねた石組み構造で、未知の接着剤で土砂を固めて造成された人工丘(メガリス人工丘)を確認したのです。

⑨何層にも重なった地層を、有機物サンプルのC14年代測定した結果、地下11・3メートル近辺の一番古いもので、エジプト文明よりもはるかに古い約24000年前のものと観測されたのでした。

⑩そして、ブラジル人核物理学者のアリシオ・サントス博士は、このインドネシアを始めとした東南アジアやフィリピン一帯がかつては陸続きで、近辺に文明が存在したとする「スンダランド文明説」を主張しています。

⑪さらに、この他の太平洋上の遺跡としては、ミクロネシア連邦のポンペイ島にある「ナンマドール遺跡」があります。オレゴン大学の考古学調査によると、ここで使われている膨大な5~25トンもする玄武岩石材は、いったいどこから、どうやって運んできたのか説明不能とされています。

3 与那国島沖海底遺跡

⑫一方、日本近辺で近年、最も注目を集めているのが与那国島沖海底で発見された海底遺跡です。琉球大学名誉教授の木村政昭博士によると、大きさは東西方向に270メートル、幅は南北に120メートル、高さは最頂部で26メートルに及び、

⑬全体的には、広さも形も不規則な多数のひな壇と階段から構成され、基部の周辺には幅25メートルの道路が、外側の擁壁沿いに250メートル以上にわたって巡っており、頂部テラスには亀神殿、円形広場、三角ポールなどの構造体があります。

⑭この遺跡に付着しているサンゴ藻、石灰藻などの化石を炭素14年測定にかけたところ、建築年代は6000年前、表面付近の砂岩中のベリウム10で年代測定すると10000年前まで地上に存在していたことが判明しています。

⑮ところが、木村博士によると、チャーチワードなどの「ムー大陸説」は、太平洋海底の大部分を占める太平洋プレートが軟弱な海洋性地殻で、この上に大陸が存在したというのは現代のプレート理論から言って無理があるとしています。

⑯そして同博士は、かつて琉球列島は、大陸と"琉球古陸"と呼ばれる一連の陸橋で繋がれ、1万数千年前に突然地殻変動で分断され水没したという説を唱えています。実際、沖縄本島では、日本最古17000~18000年前の「港川人」の人骨が発見されており、海底遺跡との関連性が注目されています。

4、世界に分布する日本人の痕跡

⑰その他、日本の滋賀県安曇川町では「プリテニ文字」、沖縄本島では「ムーの石板十二枚」、熊本県人吉市では「サラムー(ムーの王)の磐座」が発見されています。

⑱また、岩手県金取遺跡からは9万年前の足跡、島根県砂原遺跡からは12万年前の打製石器、東京都栗原遺跡や千葉県三里塚など、秋田県から奄美大島まで全国135カ所から、これまで世界最古とされてきたオーストラリアの2万9千年前を超える3~4万年前の磨製石器が発見されています。

⑲さらに、日本ペトログラフ協会の吉田信啓氏によると、熊本県芦北地方には「曽畑式水人(海洋民族)がいて、約6500年前、北海道から沖縄に至るまで生活の痕跡を残しており、さらにそれはベーリング海を渡って北米にも拡大しているといいます。

⑳この説は、米国ブロンスウィック大学のレ・クイナー教授も唱えており、「アメリカインディアンが日本人と同じ習俗、語彙、顔を持つ事から、彼らの多くは太平洋の西からきたモンゴロイド海洋民族である」と主張。これには、スミソニアン博物館やハワイ大学等も同様の見解を発表しています。

㉑一方、スイスの考古学者デニケンがエクアドルの古代地下都市跡で日本の縄文土器と「アンデスの黄金版」を発見、これを出雲文字で解読した結果、「これなる金の板にイサクとヨゼフ記す。

㉒ここにわがクルの宝を集めしめ、後の世に伝えて礎たらしむ。ヤファウエを我らの神と崇めよ」となった事などから、「マヤやインカ文明を作ったのは、日本の古代海洋民である可能性がある」と公表しています。ここにいう"ヤファウエ"とは、古代ユダヤ教の神でもあります。

5、依然、消えない"ムー大陸"説

㉓ところで「現代プレート理論」では、太平洋プレートは軟弱な海洋性地殻だからその上に大陸が存在することはありえないとしていますが、単純な話、どんな土壌でも何万年と言う長い年月水中に没していると軟弱になるのではないでしょうか?

㉕そこで、ムー大陸沈没の原因についてですが、地殻の下に溜った大量の水が地殻の重みに堪え兼ねてある日、地震や火山活動などによってできた地殻の割れ目(現在の海溝部分)から一気に吹き出してきたためとし、これが世界各地に伝わる「ノアの大洪水神話」の真相ではないか、などの説もあります。

㉖が、現在最も有力なのは、ムー大陸の大火山が噴火し、地下にあったガスの貯まっていた層に引火、さらなる大爆発が起こり、その層は中身が空になって崩れ、大規模な地盤沈下を起こしたという「ガス・チェンバー現象説」です。

㉗ちなみに、地球の地殻変動を想起させる痕跡として、南米アンデス山中の海抜4000メートルの高地には、ティアワナコという巨大な都の遺跡があります。現在では勿論、トウモロコシさえ育たない高地ですが、さらに高い標高6000メートルの高地には大規模な段々畑の跡があります。

㉘また、ティアワナコはかつて海岸線にあった港町で、チチカカ湖は入り江で湾になっていたという伝承があり、事実、チチカカ湖の水を調査すると塩水であることが明らかになっています。

㉙さらに、ダーウインも、アンデス山地の標高400メートルの高地で、何千年も前から生き続けている海の貝を発見、自身の進化論を疑ったそうです。

㉚一方、ヨーロッパのフランスでは、元々12000年前に地上で書かれた壁画のある海底洞窟が発見され、さらに、ブリテン島では、ケルト巨石文化のストーンサークルが半分断ち切られ、海底に消えていることが発見されています。

㉛これらの事実を考えると、かつて地球は何度も大規模な地殻変動を経験し、現在の陸地と海が正反対だった時期もあったのではないかという疑問がわいてきます。だとすれば、太平洋上に大陸があったとしてもあながち"トンでも話"と決めつけることはできないのではないでしょうか?

㉜実際、記紀(古事記・日本書紀)以前に書かれた「竹内文書」によると、大和先行王朝である「鵜芽葺不合朝」69代(約1万5千年前)・神足別豊鋤天皇の代に、太平洋上には「ミヨイ(ムー?)」「タミアラ(レムリア?)」という大陸があり、
㉝そこには五色人(白人・黒人・赤人・青人・黄人)と王族の黄金人(天皇家に合流?)がいたが、天変地異で沈んだため日本などに避難したとされています。

㉞また、出口王仁三郎も、米国考古学者・チャーチワードが「失われたムー大陸」を発表する9年前の1922年に、『霊界物語』第9巻で「太平洋の真中に縦が二千と七百浬、横が三千一百浬の黄泉(よもつ)の島がある」として、太平洋に巨大な大陸があったことを発表しています。

例えば、沖縄では明治の中頃まで若い女性が入れ墨をする習慣があり、沖縄本島では14歳くらいから始め、少しづつ文様を増やしていったといいます。

文様には地域によって微妙な違いがあり、両手に23の文様を彫りこんで完成とし、その頃が結婚適齢期とされていました。明治生まれで現代まで生きていた老婆の入れ墨には、ムー文明の文字「ハジチ」が刻まれていたそうです。

「ハジチ」は魔除けの意味を持っていて、左手の甲にはムーの文字が並び、右の肘には沖縄各地から出土した線刻石板に書かれたムーの絵文字そのものであったと。石版を解読すると琉球列島の水没を語るストーリーが表されており、沖縄はかつて広大な陸地であったが水没して島々になったと読み取れます。

一方、琉球王朝の王は「太陽の子"テダコ"」と呼ばれていました。石版の「キ」や「カ」に見える文字は聞得大君(きこえおおきみ)と呼ばれる琉球王朝最高の女神官を意味し、安泰な政治が行われ、平和な生活があったと伝えられています。

ちなみに、福岡県沖ノ島でも重要文化財12万点も見つかっており、海底には与那国島沖海底遺跡と類似した「沖ノ島神殿」という遺跡があり、直径8メートルの柱に螺旋階段が作られています。また遺跡からは神像も見つかっており、一つは両性具有、もう一体は女性。これらはムー文明の証と言われています。


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